掲載日 2014/01/27
講演会 「善光寺地震その時何が?」
〜〜犀川をせき止めた巨大崩壊、巨大湖、大水害を絵図から学ぶ〜〜
平成26年1月16日に、北陸防災エキスパート(長野地区)と合同の防災勉強会として、「善光寺地震その時何が?」の講演会を当事務所大会議室で開催しました。
聴講生は、長野国道事務所、大町ダム管理所からの出席もあり、総数43名に及び、会議室は満席の状態でした。
講師は、長野県立歴史館 客員学芸員である 山浦 直人 氏(工学博士)にお願いし、史料と土木技術を比較しながら、多様な写真を使い丁寧にご説明して頂きました。
【はじまり】
M7.4内陸直下地震により、犀川をせき止めた巨大崩壊が発生、その後はせき止めダムより巨大な湖を形成し、湛水区域面積は11.3km2に及んだ。
せき止めダムの決壊は漏水から始まり、ある日一気に下流へと流れ大水害を引き起こした、その洪水氾濫区域は松代藩〜飯山藩に渡り147km2にも及んだ。
【まとめ】
これらの記録は、せき止め上流部の生坂村誌絵図や信州地震大絵図からその規模、測量や土砂種類の色彩から読み取れるもの程、細やかな史料でありました。
実は、地震その後に起こる災害をいかに監視するかが、当時も大切でした。
絵図が伝える防災対策は、情報伝達の重要性を物語り、避難による情報提供の的確なことでした。これが、この地域の藩や役所だけでなく、名主や地域住民への関心を引きつけた。実際、地震の死者が12,000人弱と言われる中、水害の死者は50人程度であったことから、避難情報をこの時代なりにしっかりと伝達したと言えます。
今回の講演会では、長野県内では地震から複合災害を引き起すものと想定し、防災に対応すべきと考えさせられ、大変有意義な講演会となりました。
聴講生は、長野国道事務所、大町ダム管理所からの出席もあり、総数43名に及び、会議室は満席の状態でした。
講師は、長野県立歴史館 客員学芸員である 山浦 直人 氏(工学博士)にお願いし、史料と土木技術を比較しながら、多様な写真を使い丁寧にご説明して頂きました。
【はじまり】
M7.4内陸直下地震により、犀川をせき止めた巨大崩壊が発生、その後はせき止めダムより巨大な湖を形成し、湛水区域面積は11.3km2に及んだ。
せき止めダムの決壊は漏水から始まり、ある日一気に下流へと流れ大水害を引き起こした、その洪水氾濫区域は松代藩〜飯山藩に渡り147km2にも及んだ。
【まとめ】
これらの記録は、せき止め上流部の生坂村誌絵図や信州地震大絵図からその規模、測量や土砂種類の色彩から読み取れるもの程、細やかな史料でありました。
実は、地震その後に起こる災害をいかに監視するかが、当時も大切でした。
絵図が伝える防災対策は、情報伝達の重要性を物語り、避難による情報提供の的確なことでした。これが、この地域の藩や役所だけでなく、名主や地域住民への関心を引きつけた。実際、地震の死者が12,000人弱と言われる中、水害の死者は50人程度であったことから、避難情報をこの時代なりにしっかりと伝達したと言えます。
今回の講演会では、長野県内では地震から複合災害を引き起すものと想定し、防災に対応すべきと考えさせられ、大変有意義な講演会となりました。
![]() |
![]() |
講師 山浦直人 氏 | 講演に耳を傾ける聴講生 |
※善光寺地震とは ・・・
弘化4年3月24日(1847年5月8日)午後10時頃、長野県北部から新潟県 南部にかけて発生した、長野市浅川付近を震源とする推定M7.4の内陸型地震です。地震そのものによる被害も甚大なものでしたが、犀川右岸の岩倉山(現長野市信更町)が大崩落し、犀川をせき止めてできた大きなダムが決壊して下流域に水害をもたらしました。
弘化4年(1847年)7月洪水については、こちら