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地すべりと集落の暮らし

・地すべりと集落の暮らし
>> はじめに
>> 西会津町と滝坂・銚子ノ口
>> 明治21年と明治38年の滝坂地すべり
>> 昭和24年の滝坂地すべり
>> 昭和33年の滝坂地すべり
>> 笹川の架橋と地すべり
>> 銚子ノ口の「幻の橋」
>> 地すべり対策工事等
>> おわりに

・資料集
>> 坂地すべりによる住宅移転の経緯
>> 新郷村字滝坂の一大惨害
>> 地すべりによる荒廃状況
>> 昭和24年地すべり当時の日記

●明治二十一年と明治三十八年の滝坂地すべり

 昔から滝坂の地すべりは、大小を問わず数多く発生しており、記録にも残っています。特に規模の大きかった地すべりは、最初は明治二十一年の松坂地区の地すべりで、松坂全体の下側三分の一くらいのところから滑り出し、このため農地が荒廃し、畑や田んぼを人力で造成し直したそうです。その後、地すべりは次第に落ち着いていったそうです。
 二回目は明治三十八年の八月八日頃に発生した大規模な地割れで、その後の大雨で、今の常盤地区の両サイド、上沼界と西稲場界が阿賀川の銚子ノ口方向に大きく動いて大被害をもたらしたそうです。
 この地すべりの惨状を当時の新郷村村長が「新郷村字滝坂の一大惨害」として記録に残しています。( 資料2参照
 記録の一部を紹介しますと、『去る九月十四日より一週間に渡って降り続いた雨によって地割れは急激に変動し、その震動で家屋は音を立てて軋み、割れ目は四尺から五、六尺の断層となり、土地の陥没、地層の陥落は次第にその規模を増し、ついには下流側(阿賀川)に向かって滝坂一帯が滑り落ちる様な状態となり、これによって生じた亀裂のあちこちから流出する濁水や泥土の為、付近一帯の家屋は傾き、床、壁は剥がれ落ち、その惨状は言語を絶するものであり…』とあります。
 この地すべりで住宅が危険となったため、常盤地区全体で十九軒(昭和九年頃に一軒減となる。)のうち十一軒が明治三十八年から五〜六年かけて、引牧地区に四軒、上沼地区に六軒、宮ノ前に一軒移転しました。


 


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