六日町船着場跡
六日町船着場跡 六日町船着場跡
舟着場の今昔・右は大正5・6年頃の舟着場の写真。舟は文中にある「こうりんぼう」水の豊かさに驚かされる。(写真提供南魚沼市)
六日町船着場跡
左は現在の舟着場跡。上の右の写真とほぼ同じ角度である。
 六日町(現南魚沼市)は江戸時代には三国・清水両街道が分岐する宿場町、長岡と結ぶ魚野川舟運の拠点港として、栄えた町。魚野川で最も上流の六日町河戸は、三国街道を経由して関東や長岡方面ヘ向かう旅人や物資の輸送権利を占有した。堀之内、小出、浦佐、六日町は船持ちが集まる河戸であったが、文政11年(1828)の記録によると、総船数37嫂のうち六日町は16嫂を数え、長岡の河戸ヘ御城米を積み運んだ。
 明治時代になって定期船が運航すると、運ばれる物資も豊富になる。定期船は六日町河戸を朝8時ごろ出航。途中の浦佐・小出・堀之内・川口・小千谷などに寄港して夕方5時ごろ長岡河戸ヘ接岸。旅客や貨物が多いときは臨時船も出た。
 貨客を混載する船は、浅瀬の多い魚野川では底が深くて細長い船が便われた。江戸時代に盛んに運航したのが船体の長さが12間あるところから「十二間船」とよんだ胴高船。後部を囲炉裏のある客室にあて、前の部分に荷を積んだ。乗客は30人程度。ときには60~70人を乗せたこともあった。積載量は米俵なら40~50俵ほど。明治時代になって「こうりんぼう」が運航。十二間船より形が細長く、底も深くて船足も早かった。
 県境を超えて三国街道を下る越後の諸大名や佐渡・新潟の面奉行などが六日町から乗った下り船は胴商船を改良した「御殿船」。柱を立てて板で屋根を葺き、内部を戸障子で2室に仕切り、便所も設けたという。船乗りの仕事は命がけで、まさに「板子一枚水地獄」。魚野川筋は降雪が多いため、下り船にとっては3月~5月は雪消え増水で流れが速くなり、危険が増す。明治26年(1893)5月16日に和南津の橋桁に突き当たった大事故はその1例。
 六日町八幡の銭淵、和南津八郎場の湾曲、川口の落合などは有名な難所。旅客を乗せる下り船の操作は船頭と船子の腕にかかった。一方、上り船の苦労はなんといっても船曳き。和南津から上流は7、8人が各自船綱を持ち、岸にあがってかけ声を合わせながら船を曳く。岩場では、岸の岩に足跡をつけ、流れが急になるところでは近くの集落から常連の助力を頼み、六日町河声ヘと曳き上げた。