和南津
和南津
船曳き・ボルガの船唄のように、人が船を曳いて魚野川をさかのぼる。和南津の下流あたり。貴重な写真である。(写真提供長岡市)
 江戸時代の三国街道は長岡から川口宿までは信濃川右岸を通り、和南津で魚野川を渡って三国峠に向かう。幕府の佐渡金山関係や参勤交代、大名・諸家が通るため、三国街道では唯一最大の渡し場として重要視された。これが和南津と対岸の野田とを結んだ「和南津の渡し」。
 渡し船は農業用の船とはちがい、馬船という大型。長さ約14m、敷巾約1.6m、深さ約3.6m上口幅約1.9m、馬が中に入っても見えないほどの大きさ。延享3年(1746)には渡し守が3軒、名子が4軒、人数は男15人、女17人がかかわる大規模の渡し場であった。大名行列が通過するときなどは近郊の村々から多くの人足が集められたという。
 和南津ヘ渡った三国街道は、外坂を経て六日町方面ヘすすむ。外板からおりたところの小集落が八郎場。また和南津から架けられたのが和南津橋。しかし水の勢いで船や筏の難破が相次いだ。明治26年(1893)5月16日に起きた18人の溺死も六日町船が橋桁に突き当たった事故。これを契機に釣橋をはさむ形に一部改良したものの明治34年(1901)5月4日夜流失してしまった。八郎場の激流と湾曲は相変わらず舟運関係者を苦しめ続け、この橋による事故は船や筏の難破30回余、死者24名、貨物の流失は枚挙にいとまがないという。