長岡船道
長岡船道
蝋座稲荷初午の図(呉服町)
呉服町河戸の荷揚げの様子、河戸での作業の姿を知る唯一の手がかりとなる
ものである。傍に藩の専売品の蝋を扱う役所があった。
(所蔵・長岡市立中央図書館)
 水量の豊かな信濃川を利用し、藩をバックに株仲間で組織されたのが長岡船道。水運の実権を握り、年貢や一搬商品の輸送・保管で利益をあげた。掘直奇は、信濃川を往来する船の荷物を取り扱わせる定法をつくり、牧野氏はさらに番所を設置。上り下りの荷物は全部船着場に止めて積替えを行い、新潟へ魚沼地方へと運んだ。
 長岡船道は江戸時代のなかごろには川船180艘を所有。新潟、長岡の間を毎日通ったというほどの繁栄ぶりであった。新潟で積み込まれた上り荷は、江戸時代の最盛期には北海道や東北沿岸でとれたサケ・マス・数の子・天草・切昆布・身欠にしん・佐渡のイカなど塩魚類。中には遠く瀬戸内の塩、土佐の鰹節、熊野のクジラのほかに越中笠、畳表、阿波の藍玉、京都の宇治茶など多種類に及んだ。内川河戸と呼ぶ船着場は内川(柿川)上流の草生津から内川出口の蔵王の間に置かれた。安政年間(1854~59)には安哲・重右衛門・呉服町・裏四ノ町・渡里町・上田町の六カ所で、船着場ごとに接岸する船が決められていた。
 水運の特権を握っていた長岡船道は慶応3年(1866)に廃止。その後明治になって川蒸気とよばれた汽船が長岡・新潟間を活躍した。白帆に風をはらませた信濃川の風物詩も、今は見ることができない。