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信濃川大河津資料館
たより OHKOUZU ◆大河津分水の歴史と経緯◆
 大河津分水第1次工事の廃止に伴い、信濃川堤防を強化する工事が始められました。そうした折に、越後平野史上最大の水害「横田切れ」が発生しました。この大水害を機に、大河津分水の実現をめざす運動が再び大きくなり、分水路が開削される第2次工事へとつながっていきました。
横田切れの恐怖-病地獄
 明治29年7月、信濃川は大洪水となり分水町横田をはじめ信濃川の各地の堤防が切れ、越後平野一帯は水に浸かりました。これが大水害「横田切れ」です。越後平野の水害は濁流が家や田畑を押し流すだけではありませんでした。最大の敵はたまった水が引かない「こもる水」です。稲は腐り、チフスや赤痢などの伝染病が流行し、農民の出稼ぎを含む他県への流出が起きました。水害は最大の社会問題となり、住民の福祉を根本から崩壊させるものとなっていました。
横田切れ絵巻のうちの1枚(長岡市下田氏所蔵)
「堤防決壊所ヲ望ム」と記されています。
大河津分水建設運動再び
 横田切れを機に、大河津分水の実現をめざす運動は再び活発になりました。有志による新潟県治水会が組織され、新潟県会は信濃川治水、大河津分水の実現を求めて、内務大臣へ建議・陳情しました。
 中之島村(現長岡市中之島)の高橋竹之介は、明治30年、政府の有力者山県有朋、松方正義両者にあて「北陸治水策」を書き建白しました。「治水策」は、近年の洪水は水源地長野県の山林の乱伐によるものと断じ、大河津分水の利を唱え、すみやかに県債を起こして開削すべきことを強く訴えました。
北越治水策(弥彦神社所蔵)
越後平野の治水のために「大河津分水」の建設が必要だと書かれています。
河川政策の転換
 明治政府は鉄道整備の進展を背景に、舟運利用を中心とした「低水工事」から氾濫防除を目的とする「高水工事」を開始しようとしていました。明治29年4月、河川法を公布し、河川行政は憲法下の法律によって施行され、国の直轄工事へのみちが開かれました。

信濃川大河津資料館 〒959−0124 新潟県燕市五千石 (旧分水町五千石)
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