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信濃川大河津資料館
たより OHKOUZU ◆大河津分水の歴史と経緯◆
 江戸時代には着手されなかった大河津分水工事でしたが、明治2年(1869)ついに工事が始まりました。しかし、工事は途中で中止、大河津分水は完成しませんでした。この明治初期に行われた工事は大正時代の第2次工事に対し「第1次工事」と呼ばれています。
                             より詳しい内容は「大河津分水双書」をご覧下さい。
工事が始まった背景
 小泉蒼軒は、越後平野の水害発生の原因を、小さな藩が入り乱れるようにたくさんあり統一的な治水が行われないからだと評しています。明治に入ると近代統一国家の誕生によって信濃川水系全域を見わたした河川行政へのみちが開かれ、大河津分水工事(第1次工事)が始まりました。
西蒲原旧幕領地概要図(幕末)
ほっとほくりく2003年2月号より
第1次工事の計画平面図(弥彦神社所蔵)
工事中止とその原因
 工事の主力は人力であり、また、分水路掘削箇所の一部は地すべりを起こす山地ということもあり、工事は遅々として進みませんでした。また、明治5年には、工事の負担増に不満を持っていた農民を扇動し、大河津分水反対をかかげた「悌輔(ていすけ)騒動」が発生し、工事は一時中断しました。その後、工事は再開され明治6年11月には通水寸前まで完成しましたが、明治8年に通水はせず廃業されました。廃業の理由には明治政府から信濃川の調査を命じられた外国人技師の大河津分水工事反対意見がありました。イギリス人技師ブラントンは、新潟港を貿易港として維持していくためには信濃川の流量を減らしてはならないと報告しました。大河津分水の完成により信濃川の水量が減り、新潟港は浅くなり船の航行に支障が生じるといった内容です。また、オランダ人技師リンドーは、正確な測量をもとに、水位や勾配、流量の計算などを行い、工費なども勘案して、最終的に現状の河道のまま堤防を修理することを提案して、大河津分水建設に反対しました。このように技術上の判断から第1次工事は廃業されたと考えられています。
信濃川本川の強化
 工事は廃業されましたが、大河津分水工事の再興をめざした治水運動は、地域の治水運動家の高橋健三や鷲尾政直、田沢実入らによって続けられました。しかし、政府は堤防強化の方針を打ち出し、明治19年、国は河身工事、県は堤防改築工事をそれぞれ分担し信濃川堤防改築工事が始まりました。

信濃川大河津資料館 〒959−0124 新潟県燕市五千石 (旧分水町五千石)
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