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信濃川大河津資料館
たより OHKOUZU ◆大河津分水の歴史と経緯◆
 大河津分水の発想が記録として最初に登場するのは江戸時代です。寺泊の本間屋数右衛門が江戸幕府に大河津分水建設(当時は大河津堀割と呼ばれていた)を請願します。その後も、2代目数右衛門(子)など多くの人物が大河津分水の建設を幕府に訴えましたが、様々な理由で結局大河津分水は建設されませんでした。
本間屋数右衛門の請願書と大河津建設前の現在の可動堰付近の絵(いずれも弥彦神社所蔵)。かつての大河津分水地点には大河信濃川が広がっていました。
数右衛門が着想した松ヶ崎の堀割
 寺泊の船問屋本間屋に仕えていた数右衛門には、各地の様々な情報が入ってきたと考えられています。その情報の一つに松ヶ崎堀割(現在の新潟市松崎付近)がありました。紫雲寺潟の干拓と関連して実施された松ヶ崎堀割工事でしたが、堀割完成の翌年、阿賀野川の洪水は堀割の堰や両岸を破壊し、日本海に直流しました。堀割は阿賀野川の本流となり、その結果、広大な干拓地が出現、多数の新田村が成立し、大地主が登場することになりました。この松ヶ崎掘割工事に刺激された数右衛門の新田開発の願いが、大河津から寺泊までの掘割の請願につながりました。
 また、数右衛門の請願と前後して越後平野の各地で、このような水抜き工事が行われるようになり、遊水池の役割を果たしていた潟が干拓され、平野の新田開発が進む一方、水害が頻発するようになりました。
江戸時代初め頃の越後平野の川
信濃川と阿賀野川は河口付近で合流していました。また、平野の各地に遊水池の役割を果たしていた潟がありました。

信濃川大河津資料館 〒959−0124 新潟県燕市五千石 (旧分水町五千石)
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