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信濃川大河津資料館
たより OHKOUZU ◆大河津分水の歴史と経緯◆
西暦 元号 できごと
1730 享保15年 松ヶ崎堀割完成。翌年、雪解けの洪水により堰が破壊され、阿賀野川は直接日本海へ注ぐ川となる。
1716〜
   1735
享保年間 本間屋数右衛門(父)が幕府に大河津分水を請願。
1742 寛保2年 大水害「信州水」発生。長野県では「戌の満水」と呼ばれている。
1751〜 宝暦年間 本間屋数右衛門(父)が幕府に大河津分水を請願。
1757 宝暦7年 宝暦の「横田切れ」が発生し、当時の惨状を唄ったくどき(口説き)がある。この年、本間屋数右衛門(父)病死。
1744 延享元年 遊水池の役割を果たしていた「御封印野」(現在の巻町付近)の開発が請願され、翌々年許可される。
1775〜
   1789
安永4年〜
  寛政元年
本間屋数右衛門(子)が再三にわたり大河津分水を請願。
1790 寛政2年 本間屋数右衛門の請願に対して幕府は実地検分のため、幕吏を派遣したが、周辺の村々の反対があり、請願は許可されなかった。
1815 文化12年 大河津にあった円上寺潟の排水路(間歩堀り)が完成。
1820 文政3年 現在の新川筋にあった田潟、大潟、鎧潟の水抜き工事が完成する(三潟水抜き)。
1842 天保13年 寺泊町野積の星清五郎が幕府役人の大河津分水測量の際、案内役として活躍する。その後本人も大河津分水建設を幕府へ請願。
1844 弘化元年 新発田藩の治水家、小泉蒼軒が「越後国信濃川筋大河津堀割損益略」を記し、信濃川流域の体系的な治水論として、大河津分水の「損」と「得」を論じた。論考の最後は、大河津分水を実現すれば、その「恩徳」は越後一国のみでなく、他国の飢餓を救い、商人の利潤も増やし、「衆民」は食に満ち足り、「万歳」をすることができると、結んでいる。

信濃川大河津資料館 〒959−0124 新潟県燕市五千石 (旧分水町五千石)
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