信濃川下流域を中心とした洪水年表

※文字色が黒の洪水は大河津分水より上流で発生したもの
西暦 和暦 洪水被害の内容
1680 延宝8年 大水害あり。赤渋組・中之口組で破堤。新発田藩の被害は3万2000石(「御記録」)
1681 天和1年2月23日 白根市大字西笠巻15間(27m)にわたり破堤した。
1681 天和1年 西笠巻村の堤防15間切れる(「御記録」)
1691 元禄4年12月6日 島原・鷲ノ木、塩俵、松橋の堤防が決壊、飢餓を救済するため藩から18石の御手宛米が出る。
1716 享保1年8月5日 洪水となる、水位1丈2尺(3.63m、越路町浦付近)
三条市大島で数百間程度破堤し民家の流出が多かった。
1721 享保6年7月17日 熊森、横田村両村の間「オミワケ」が破堤する。
1723 享保8年8月6日 豪雨洪水にて熊森村の東「オミワケ」が破堤し、熊森、横田両村の被害甚大となる。
洪水となる。水位1丈4尺(4.23m、越路町浦付近)
被害概況:破堤延長8710間(15678m)、家屋の流出64戸、潰れた家217戸、溺死7名。
新発田領のみでなく越後平野全体に被害があった。
1731 享保16年5月19日 横田・笈ヶ島・道金三か村の土手が数ヶ所切れて、田畑一面冠水したという。西川左岸の中嶋村籠田というところが切れ、西川沿いの村々残らず床上浸水の被害を出した。また地蔵堂上町裏の土手も切れ、19日〜22日迄新潟方面への往来は止まった。
1731 享保16年5月27日 左近の土手が切れ朝五つ時(8時頃)から長岡城への出入りには船が必要になり、九つ時(正午頃)過ぎからは、所々の橋や家が流れ死者も出た。
1734 享保19年 諸川の出水により蕨曽根など破堤し、新発田領の被害高は30600石であった。
1736 元文1年6月27日 洪水となり水位1丈4尺(4.23m、越路町浦付近)となる。長岡領内:長岡城内に濁水が浸水し、農家の流出・破壊など約520戸余り、溺死は男女20名以上、その他破堤・抜木・橋の流出など若干有り、領内の被害高は60000石であった。新発田領内:被害高41150石、復旧の見込みたたず藩士の救米にも支障が出る。そのため諸事検約し召使いの数を減らすことを通達している。
1736 元文1年6月27日 6月26日に大雨となり、翌朝には西川が満水になり地蔵堂町裏の土手がついに切れ、長岡・新潟往来もできず足留めとなっていた。(「普及帳」新潟市宮路寛家文書)
1742 寛保2年8月2日 笈ヶ島村二重土手が破堤する。
1742 寛保2年8月2日 7月29日朝から雨が降り出し夜中まで一升位の降水量で、8月2日の夜には、笈ヶ嶋村の土手が切れて被害を出していたという。(「普及帳」新潟市宮路寛家文書)
1742 寛保2年8月8日 "信州水"と呼ばれる洪水となり水位1丈8尺(5.43m、越路町浦付近)にして溺死者が多数に及んだ南・西蒲原郡の一部地形を変える。また公儀より領主へ水害手宛として金7000両を賜る。
1754 宝暦4年 出水により萱場に破堤があった。
1756 宝暦6年10月5日 7月21日〜25日まで大雨、9月中も雨多く、10月5日近年にない洪水となり食糧難となった。床上浸水の被害があり新潟の白山神社の御堂の踏板まで舟が着けられるようになったと言われる。
1757 宝暦7年5月 この年は天候不順で、4月20日頃から豪雨が15・6日も続いた。そして5月3日午前8時、和田で200間(360m)、二本木で50間(90m)、その他西川・中之口川筋で大河津、熊ノ森、茨曽根、大島(三条)、三竹(三条市)、今井など破堤箇所は極めて多く前代未聞の厄災となった。
5月3日の各地の破堤に加え、5月18日〜20までの大雨、27日からまた風雨が強くなる。
1757 宝暦7年5月2日 草生津土手から浸水し、未曾有の洪水となった。
1758 宝暦8年8月 8月14・15日頃から25日まで雨天続き、中之口川筋の紙屋水門が抜けた。
8月26日には横田・今井で破堤があり、蒲原郡は二分半作程度となる。
与板・大沼付近の破堤は頻々で新発田藩領では破堤320間(576m)ほど、流失家屋9戸、潰れた家6戸、橋梁の流失13橋、流された社1社、流された社木15本、収穫米38750石の被害があった。
1762 宝暦12年3月28日 信濃川は融雪出水のため菱潟にあった用水樋管が抜けて10数ヶ村が湛水した。
農耕に支障をきたしたので鷲ノ木地内2・3箇所を水吐きのため切り払ったが思うように水が抜けず、さらに同村内字帯屋巻を切り払わんとしたところ、溝口大膳の知行所であった大野や金巻の百姓が、自分たちの方の堤防に支障があるとして大勢で鉄砲まで担ぎ出し怪我人を出す始末となった。新発田藩はこれを聞いて郡奉行を派遣し湛水状況を視察し、飢餓や破堤口の処置を取らせた。
1764 明和1年 横田村地先が破堤する。
1764 明和1年 茨曽根・松橋・中塩俵に破堤があった。
1772 安永1年 神屋に破堤があった。
1776 安永5年 4月〜6月まで雨続きで出水。被害状況は次の通り。
新発田領内:破堤延長1734間(3121m)、床上浸水779戸、田畑の損害高44190石
白根:次郎左衛門興野・菱潟などが破堤
1778 安永7年5月〜6月 5月27日〜6月2日まで連日の大雨。信濃川・阿賀野川が氾濫し、戸石新田、吉田新田など至る所で破堤した。各地の被害は次の通り。              長岡藩:約64500石、新発田藩:約53050石余り、破堤延長7448間(13406間)、溺死1名、その他甚大な被害
1778 安永7年 新飯田で破堤、鷲ノ木新田水間破損、小吉島一統の水湛(「御在城御留守行事」)
1779 安永8年7月〜8月 7月20,27,28日に大風雨、8月24〜26日にまた大風雨があり各地で被害が出た。
長岡藩:約58790石、新発田藩:信濃川・阿賀野川・加治川が出水し、冠水田畑160ヶ村、山王・新飯田などの破堤延長2750間(4950m)、家屋の流失27戸、潰れた家110戸、半分潰れた家36戸、床上浸水6287戸、溺死7名(男2名、女5名)
1781〜 天明年間 砂子塚村の西川が屡々洪水で破堤する。
1782 天明2年3月上旬 出水があり、中之口川の小吉・新飯田・下塩俵が破堤、道筋・西川筋が水害を受ける。4月中旬まで減水しなかった。
1782 天明2年 新飯田・下塩俵破堤
1783 天明3年 木津・味方に破堤があった。
1784 天明4年3月7日 3月5日〜7日夕方まで降り続き7日の量水標値は6尺5寸(1.95m)となる。各地の被害は次の通り。破堤箇所:西川筋=和納・粟生津、五十嵐川筋=2ヶ所、信濃川筋=後藤・大江島、中之口川筋=新飯田他数ヶ所、新発田領内の被害高:床上浸水5948戸、破堤延長3222間(5800m)、麦畑冠水188ヶ村。
1784 天明4年8月18日 洪水となり水位1丈5尺(4.53m、越路町浦付近)。諏訪ノ木に破堤あり。
1785 天明5年 新飯田に破堤あり。
1787 天明7年 新発田藩領内各地で破堤、小須戸組、赤渋組、中ノ口組水腐、水損高3万500石余り。(「御記録」)
1789 寛政1年6月21日 洪水で五千石村地先笈ヶ島村地先の両岸が破堤する。
1797 寛政9年6月29日 洪水となり水位1丈4尺(4.23m、越路町浦付近)。児ノ木・保明新田に破堤があった。
1804 文化1年 鵜森組村々堤防破堤(「御在府中行事」)
1806 文化3年 白根に破堤があった。
1807 文化4年5月〜6月 5月上旬から雨が降り続き、5月12・13日大雨で出水となる。6月2・3日にまたも出水し常時水位から1丈余り(3.03m以上)高くなり、白根で破堤、田畑が冠水し被害高約25470石余り、新発田領内では被害高約31590石余り。 
1807 文化4年5月14日 新飯田村青地蔵脇破堤
1808 文化5年 村上領茅場村破堤(「御在府中行事」)
1808 文化5年 新飯田破堤
1808 文化5年6月29日 6月下旬から降雨が続き29日諸川で出水、信濃川は洪水となる。被害高は23770石余り、新飯田萱物に破堤があった。
1819 文政2年 萱場に破堤があった。
1822 文政5年 木津に破堤があった。
1831 天保2年4月 信濃川洪水のため粟生津村境まで水通しとなり満水の節は地蔵堂浦より一面水冠、その他各所被害続出
1835 天保6年5月中旬 5月中旬から雨が降り田畑は冠水する。被害高48640石余り、蒲原地方長呂村地内大堰などで破堤
1836 天保7年8月上旬 新飯田の堤防が切れ塩俵新田でも破堤し白根郷は全部浸水した。
1836 天保7年9月15日 新飯田でまたも破堤し、新発田藩は見かねて2割安で難民に米を売出した。その米すら購入できないものには粥を施す有様であった。
1842 天保13年2月25日 大郷村横土居水閘破堤
1843 天保14年 金巻に破堤があった。
1843 天保14年 加茂新田地先に破堤があった。
1845 弘化2年8月15日 洪水となり水位1丈3尺(3.93m、越路町浦付近)となる。東笠巻で破堤し大郷島は湖水と化した。
1857 安政4年3月18日 東笠巻地内市右衛門新田の堤防が50間余り(90m)決壊し、耕地・村落とも大被害を受けた。
1858 安政5年4月20日 前年決壊した東笠巻地内の同箇所で再度決壊し、付近3町余りの水田に土砂が流入、堤側決壊口には池沼を生じ、近郊数ヶ村が濁流の被害を受けた。
1859 安政6年7月3日 大雨により被害は多大に及んだ。各地の被害状況は次の通り。
曽根新田・合子ヶ作・曽川・天野新田・上鷲ノ木・松橋・笠巻川など349間(628m)が破堤、冠水田畑140ヶ村、家屋流失20戸、潰れた家9戸、樋管・水門の破損10箇所。新発田領の被害高29075石余り。
1859 安政6年7月 草生津の土手が切れる。
1861 文久1年 月潟地先に破堤があった。
1862 文久2年7月24日 洪水となり水位1丈2尺(3.63m、越路町浦付近)、高梨・大倉に破堤があった。
1863 文久3年 木場地先に破堤があった。
1863 元治1年3月22日 中之口川が出水し、大倉・月潟など破堤延長78間(140m)
1864 元治1年4月24日 再度、大倉に破堤があった。
1865 慶応1年 草生津の土手が切れる
1865 慶応1年5月20日 信濃川に洪水があり、田上・加茂新田・内野大樋筋および下曲通りに破堤があった。下曲通り地内字二ツ屋の破堤にあっては約70・80間(126m〜144m)破堤し家屋流失4戸であった。上曲通り・下曲通りの両村は床上浸水となったので、下流の村々では数百人を加勢と称し、不法・脅迫を働き不穏であったので郡廻り差添え足軽40人を出し、締切人足概算高6万人の内、3万人を藩から支出し、入用金を3000両拝借した。
1865 慶応1年6月8日 5月20日の破堤の仮締切が済んだ後、再び破堤する。
1862 慶応2年 大島(三条市地先)に破堤があった。
1868 明治1年5月8日 春以来雨天続きでこの日から越後平野一帯は大洪水に見舞われた。被害状況は次の通り。堤上2・3尺(0.6m〜0.9m)余りの越水に破堤・水冠おびただしく、新発田被害高72000石と近世越後水災史上最大。
加茂新田・尾崎・長呂・猪子場新田・田崎・井戸巻・田嶋・金巻・大河津・大野・山崎興野・下塩俵および上大郷の神社前が破堤し、上大郷の御神体は犬帰まで流れた。この破堤延長1057間
1869 明治2年 猪子場に破堤があった。
1875 明治8年7月4日 津島屋・吉江・味方に破堤があった。
1878 明治11年 天野新田に破堤があった。
1879 明治12年7月 洪水があり、その流量13万個で寺地・島原・黒津・鵜ノ森・柳俵・大野・出来島に破堤があった。
1880 明治13年3月20日 洪水となり水位9尺7寸(2.91m)、鵜ノ森に破堤があった。
1881 明治14年4月30日 洪水で水位1丈9尺(5.73m)となり五反田に破堤あり。被害状況は次の通り。家屋の流失46戸、浸水家屋5200戸、被害高8805000円で明治1年に劣らぬ惨状を呈した。
1882 明治15年10月3日 天野新田・黒津・五反田で破堤し浸水家屋3500戸、被害高356000円であった。
1896 明治29年7月22日 大河津水位14尺4寸(4.32m)となった。各地の被害は次の通り。  木津に破堤あり亀田郷は皆無作となった。白根郷では赤渋字赤池の安中542の上手が破れ、新築早々の五幣氏宅は根こそぎ流された。横田でも破堤し泥海となった(大洪水-横田切れ-)鷲ノ木の煉瓦水門が損傷し漏水した。    
1896 明治29年7月24日 町軽井、大川津両村堤防の越水及び島崎川破堤のため村内一面浸水。
1897 明治30年9月 横田村破堤(信濃川)新堀村裏(島崎川)破堤する。
1903 明治36年7月4日 西川の粟生津村高木付近の堤防が大水で切れ、島上方面の水冠被害多く粟生津村との間に紛争が生ずる。
1905 明治38年7月8日 信濃川大洪水のため各地に破堤あり、特に8月18日の大洪水では西川が氾濫して地蔵堂町大武稲荷社付近堤防が決壊したため1町3ヶ村連合して防水作業を行う。
1911 明治44年7月8月 7月、8月と洪水が続く。特に8月5・6両日の間に信濃川、西川、島崎川が破堤し五千石、地蔵堂町、野中才等床上浸水数尺に及ぶ泥水は更に中島の上条堤を破り巻地方まで大洪水になる。
1917 大正6年10月2日 10月1日台風により中蒲原郡大水害となる。小千谷17.5尺、大河津15尺、中蒲原郡曽野木村曽川の堤防は10月2日4時決潰し、それより下流は参上甚しく、11月15日まで湛水し、田園は泥海となる。信濃川の大河津より下流域は去る明治21年水位観測開始以来未曾有の最高水位を示し、中蒲原郡は水害地の中心であった。溺死1人、流失家屋10戸、潰れた家19戸、橋梁の破壊流失百橋、土木復旧費135万円。耕地総損害219万円も達す。当時被害皆無の地方は三島郡、刈羽郡、岩船郡、佐渡郡、長岡市と高田市であった。
出典:『信濃川大河津分水誌第1集』『分水町史』『長岡市史』『白根市史』(※1、2、3、4)




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