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ビッグプロジェクト 大河津分水路

大河津分水路

江戸時代から続く悲願、「大河津分水路」の完成

大河津分水は、日本一の大河・信濃川が越後平野に入って日本海に最も近づく地点から掘り開いた長さ約10kmの人工の河川です。

越後平野は、今でこそ日本有数の穀倉地帯ですが、昔は潟を囲む低湿地や荒地が広がり、そこでは毎年のように洪水が起こり、多くの命や財産が奪われました。

その洪水を直接日本海へ流すという構想は、江戸時代中期に立てられ、以来、約200年の歳月を経て、明治42年に近代土木工事による本格的な工事となり大正11年に通水しました。

当時、スケールの大きさと工事の難しさから東洋一の大工事といわれた工事では、本川側に「洗堰」を、分水路側に「自在堰」を建設、これにより、大河・信濃川の水量を調整することが可能となったのです。

大河津分水路写真 大河津分水路

自在堰の陥没、権威の失墜から復旧

しかし、通水からわずか5年後の昭和2年(1927)、自在堰」は陥没してしまいます。この陥没により、信濃川のすべての水が大河津分水路へ流れ、洗堰から下流域の農業用水や水道水が枯渇するという異常事態にまでなりました。そこで、自在堰に代わって造られたのが「可動堰」です。「信濃川補修工事」として行われた可動堰の整備は、自在堰で権威を失った内務省の威信をかけた雪辱戦でもありました。その現場に送られた技術者が、「青山士」(新潟土木出張所長)と「宮本武之輔」(現場事務所責任者)です。可動堰の工事は時間との戦いでもあり、一日も早く完成させることが使命でした。

工事は、自在堰に変わる臨時の施設で水量を調節しながら進めなければならず、また新潟特有の風雪の厳冬期、夏の炎天酷暑と日夜の洪水など厳しい制約に脅かされながらも、述べ124万人が携わり、陥没から4年後の昭和6年に終了し、ついに大河津分水は完成したのです。

自在堰写真 昭和2(1927)年6月、河床の洗堀により、
陥没し、機能を失った自在堰

自在堰の陥没から、信濃川下流域を守る使命を果たした土木技術者

宮本は、「信を為すは、大事の本」という信念を堅持し、技術者は勇気を持たねばならない、失敗を恐れては技術の向上・進歩はない」と技術者としての姿勢を現場で説き続けたといいます。

また、宮本は、補修工事の完成を目前にした昭和5年8月、集中豪雨によって信濃川沿線の市町村に洪水の危険が及ぶぎりぎりの状態になったとき、信濃川の濁流を分水路に導くため、可動堰工事への水の浸入を防ぐために設けられた仮締切りを切るという決断をしています。

その決断を日記の中で「土木屋としての任務は、人々の暮らしを豊かにすることにある。仮締め切りを切れば、後々の工程に大きな支障をきたすに違いない。この現場をあずかる俺にとっては、重大な責任問題だ。・・・しかし、仮締切りを切らねば、人々の暮らしを貧困のどん底に突き落とす結果を招くことは明らかだ」と記しており、地域の民衆の福祉を第一に、強い信念を持って事業に取り組んでいることが伝わります。

自在堰写真
宮本武之輔写真
宮本武之輔(みやもと・たけのすけ)

明治25(1892)年~昭和16(1941)年。愛媛県出身。
東京帝国大学土木工学科を卒業後、内務省土木局に入省。
可動堰完成後は災害調査官として全国の風水害地域を駆けめぐり、災害復旧工事関連の業務に尽力した。

青山士写真
青山士(あおやま・あきら)

明治11(1878)年~昭和38(1963)年。静岡県出身。
東京帝国大学土木工学科を卒業後に渡米。日本人でただ一人パナマ運河の測量設計に携わる。帰国後は内務省に入省。荒川放水路工事や大河津分水工事の完成に、その責任を果たした。

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