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 関長堯と直轄砂防事業
 関長堯(1839〜1912)は佐久間象山の門人で、明治12年1月4日付で長野県十等属第一課地方税調査掛になっている。『日本砂防史』によると地方行政は明治4年には租税、庶務、聴訟、出納の四課体制がとられ、この時土木担当は租税課であった。ところが明治12年2月5日付(10)で長野県は地方税掛を庶務課に改革したことから、関が土木にかかわったのはそのわずか1ヵ月間のことと思われる。
 さて『更級郡誌』によると

「長堯の郷里桑原村は赭山多く豪雨毎に土砂を流し田畑の害多く村民常に之に苦む長堯之を憂ひ明治十二年自ら首唱し砂防工事の施設経営を官に請ふ官為に之が経営施設をなすこと六年これより漸く桑原村土砂の害を免るるに至る」

とあるが、当時わずか350戸ほどの村の要請になぜ国は答えたのであろう。明治政府が治山治水にどのような考えを示していたのかみてみよう。

 太政官布告(11)によると早くも明治元年に河川改修を奨励し、同4年には治水工事を本腰で進める意欲もうかがえる。また民部省大阪出張所が治山府藩県へ通達した文書(12)では、治水と治山とは一体化した事業であることを認識していることが分かる。そのうえ明治六年の大蔵省番外河港道路修築規則(13)を見ると、信濃川の河港修築の費用は国が負担することを明文化している。

 以上の経緯から明治政府の治山治水対策の実体が把握出来た。それは「水利ヲ興」(14)すことが重要施策の当時、川を修めることが急務となり、水害防止上その重要河川の支流は官費をもって土砂止めをすることになったのであった。
 したがって関は郷里の土砂害を防止するつもりでその工事の実施を請願したのであったが、時ほぼ同じくして明治政府でも信濃川は二県を流過し、新潟港は日本海岸の町の盛衰にかかわる要港なので「水害ノ源曲ハ山々崩壊ノ砂礫流レテ遂ニ河渠ヲ墳塞」(15)することのないよう明治9年内務省土木局出張所を新潟県に置き信濃川河身改修計画準備測量を開始(16)していたのであった。そこで話はとんとん拍子に進み、明治12年技師が当地域へ派遣されたのであった。このように結果だけを見ると関の請願で、砂防石堰堤が設置されたかのようにもとれるのである。
 ところで、当地域の砂防事業に関して次のような話が伝わっている。かつて佐野川の水源は荒廃地だったが、砂防工事が施行され緑化に成功した。そこにはナガタカバラと称する落葉広葉樹が目につく。これはニセアカシアのことで、関長堯が砂防用植栽樹として採用したものである。ニセアカシアは荒廃地での根の活着力が強く、また根の発達も早いことから選ばれた。
 なるほどニセアカシアが砂防用植栽樹として採用されたのは佐野川の水源が最初であるかのように、佐野川以後に工事のあった例えば前記峰ヶ沢や明治18年起工の牛伏川に群落が目に付く。
 石堰堤の状況
 ここでは保存を望む次の4基(図1)について、昭和62年4月に調査した際の概略を記しておく。

第一号堰堤(図2−1・2)
 石堰堤の水通部は野面石、袖部は割石で築造され、いずれも空積みである。野面石は天端から水叩部へとしだいに大きくなり、水叩下流部のものが最大で径1m位ある。その水叩下流部は8個の石が流れと長径が平行になるよう河床に据えられている。堤体は水通と左岸に袖を持っている。右岸にもかつては袖があったと考えられるが残存していない。左岸の袖部から水叩下流部までの間に割石護岸石垣が積まれている。

 なお下流法面、水叩部共にわずかに弧を描いている。水叩下流部の先に巨石が2個転がっているが、水叩下流部の石を支えていたものと思われる。右岸側の山体は柔らかいが、植林の効果が発揮されかろうじて山腹の崩壊を免れている。

第二号堰堤(写真2、図3)
 石堰堤の水通部は野面石、袖部は割石で築造され、いずれも空積みで、4基中最大で唯一の二段式でもある。一段目より二段目に使われている石の方が大きく0.5〜1m位ある。特徴的なのは、二段目の下流法面に二個の矩形巨石が左右から中央へ向かって斜に積まれていることで、常時の流路を中央へ固定させる役目を持たせるものと考えられる。堤体は水通と両袖を持ち、左岸袖部石積みの一部が下流側へ低く折り曲げられているが、護岸と袖部基底の侵食防止などを目的に造られたのであろう。その下流側に二段目の袖部と思われる低く小さな石積みがある。この石堰堤の特異なのは、二段目下流法面の勾配がかなり急なことで、結果的にこれが原因で、二段目水叩部が2.5mにわたり洗い堀りされ、滝壺をつくっている。この沢では、勾配が1.5割程度なければ水を制御することは出来ないようだ。

 水叩下流部は五個の石を岩盤に据えているが、水叩部の外の石よりは小さい。右岸山脚は崩壊が著しく右袖がかろうじて残る。二段目下流法面から水叩部にかけての左岸には、割石護岸石垣が積まれているが損傷している。
 なお、第二号堰堤については、大正3年に水叩下流部へ、図4のような根固張石(長さ二間五分、幅三間)の修繕工事が行われている。(17)

第三号堰堤(図5−1・2)
 石堰堤の水通部は野面石、袖部は割石で築造され、いずれも空積みである。野面石は水叩部のものが比較的大きい。水叩下流部は4個の石で、その両端の2個が岩盤に乗ると思われる巨岩の上に据えられている。堤体は水通と両袖を持っている。この石堰堤の特徴は袖部が極めて長いことであり、更に左岸袖部の石積みが下流側へ折り曲げられ、護岸と袖部基底の侵食防止を目的に大規模に造られていることである。
 右岸袖部下流側にも護岸の役割を果たす石垣積みと、それに平行して袖部の一部に袖部の補充と考えられる割石の石積みが付属している。水叩部は損傷している。

第四号堰堤(図6−1・2)
 石堰堤の水通部は野面石で築造され、空積みである。4基中最小の堤体は水通部だけで、下流法面左岸側に割石護岸石垣が積まれている。水叩下流部は7個の巨石を岩盤に据えている。
 荏沢は右に大きく弧を描き流れるため、左岸側山脚の侵食と山腹の崩壊の防止を最重点課題としたことが、石堰堤左岸側の丁寧な石積みによく表れている。なお石堰堤の基盤に右の不等沈下を防ぐ土台木があるはずだが、また内部に栗石の詰められていることもほぼ間違いないのだがいずれも確認出来なかった。

 保存を望む
 佐野川の支流で石堰堤の残るのは荏沢の外にも柄木沢などにあるが、本年度から始まる高速自動車道の関連事業によりそのほとんどが取り壊されコンクリートに改まる。後世に伝えられそうなものは荏沢の四基だけになる。

 これらは江戸時代の名残りのある土木技術ではあるが、技術の進歩であっていい明治30年代のものである。だからかも知れないがこうして残存しているとも言えよう。このような明治30年代に建設され、しかもその後大正三年に修繕の手が入れられたのを最後に、現在にその姿を残すというものは全国でもわずかになっている。それは砂防技術遺産というものが崩壊地という設置の場所柄残りにくいうえ、災害の再発防止としてコンクリートに改造され易い性格だからである。そういう条件でいながら約八五年前の土木技術を残すということは貴重な産業遺産と言えよう。
 それは当時の技師の優れた能力の賜と言って過言でない。設置された石堰堤は山と一体となり砂防の役目を今も十分果たしているからである。つまりこれらの石堰堤の設置により山腹の地滑りがおさまり、そして山頂低下を小さくしたうえ沢の下方侵食を鈍らせ、山地の起伏の変化を小さくすることに成功したのである。したがってこれらの石堰堤が現場に対応した技術力によって建設されたことを高く評価しなければならない。


 このような、4基の石堰堤は明治時代後半期の土木技術を残す産業遺産として保存されるべきものである。なお保存整備に関しては、石堰堤の修繕の外、倒木や転石の処理と見学の便を考え現在利用されている沢道の整備を実施してほしい。
 謝辞
 今回の調査では、大塚敏夫、武居有恒、矢野義男、山下勝の各氏をはじめ、長野県土木部砂防課、同更埴建設事務所の担当各位の協力を頂きました。厚く御礼申し上げます。



(1)長野県更級郡役所発行
(2)大日向純夫 外著
(3)長野県発行
(4)富田貴編
(5)長野県 外発行
(6)長野県行政資料『自明治四十五年大正三年至砂防修繕工事関係書類』
(7)更埴建設事務所作成
(8)『砂防設備現況調書』
(9)(社)全国治水砂防協会発行
(10)『長野新聞』
(11)―(15)『逐条砂防法』建設省河川局砂防法研究会編
(16)『松本砂防のあゆみ―信濃川上流直轄砂防百年史―』
(17)(6)に同じ
(新右衛門屋敷・象山桑原記念館)

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