古代における「北陸道」
 北陸の名称は、古代の律令制時代の地方行政区画である五畿七道の一つである「北陸道(ほくりくどう)」に由来する。この北陸道は、現在の北陸4県にあたる若狭、越前(福井県)、加賀、能登(石川県)、越中(富山県)、越後、佐渡(新潟県)の7か国から構成されていた。
 この北陸道のもとになったのが、「越のくに」(高志、古史とも表記する)であり、「越(こし)」は現在の北陸地域の最も古い名称である。

図 北陸地域の制度的変遷


図 国郡成立当時の北陸道(7世紀末)
出典:浅香年木『北陸の風土と歴史』(山川出版社)


図 古代の道制と北陸道の構成(9世紀)
資料:児玉幸多編『日本史地図』(吉川弘文館)



資料:児玉幸多編『日本史地図』(吉川弘文館)


古代、日本の玄関口だった「北陸」
 古代、アジア大陸の東に位置する日本にとって、最も近い異国は、中国大陸、朝鮮半島の諸国であった。日本において「世界」とは東アジアを意味し、日本海を挟んで世界に対峙する北陸は九州とともに、まさに日本の玄関、ゲートウェイだった。
 能登半島と敦賀には「客館(きゃくかん)」と呼ばれる使節を接遇するための施設が置かれ、主に渤海(ぼっかい)との交流を担っていた。
 能登半島は、日本海に突き出した地形と、風の影響を受けにくい港を有したことから舟運の拠点となっており、渤海使が帰国する際の出港基地として位置づけられていた。
 一方、敦賀は当時の中心地である畿内に隣接し、自然の良港を有し、早くから朝鮮半島との交流があった。

図 古代日本の対外交流路
資料:国土交通省北陸地方整備局