【司会】 長野県立歴史館共催によります第9回「千曲塾」を開催いたします。私、本日の司会を務めさせていただきます千曲川河川事務所調査課の宮下といいます。よろしくお願いします。それでは最初に千曲塾を代表しまして千曲川河川事務所長の杉原より挨拶を申し上げます。
【杉原】 皆さん、こんにちは。今日は足元が悪い中を大勢の皆さんお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。私、今ほどご紹介がありました千曲川河川事務所の所長をしております杉原と申します。実は昨年度まで私どもの事務所は千曲川工事事務所ということで、皆様のところに御案内等々差し上げておったかと思いますが、実は今年度から名前のほうが千曲川河川事務所ということで変わっております。私ども皆様ご存じの通り千曲川の管理ということで、皆さんを洪水等から守る川の工事をやっておるわけですが、それだけではございませんで、いろいろと川の利用とか、あるいは環境等についてもいろんなお手伝いをさせていただいておるということでございまして、工事だけではないのですよということを名前のほうでも明確にしておいたほうがいいかという考えもあるようでして、それで今年度から千曲川河川事務所ということでさせていただいております。名前が変わりましたことを契機に、なお一層地域の皆さんとともに千曲川を将来にわたって皆さんの財産として残していけるようにご支援申し上げていきたいと思っておりますので、引き続きよろしくお願いいたします。
それで今日は15年度の第1回目ということでございまして、簡単に千曲塾のご紹介と私どもの事務所のご紹介をさせていただきたいと思っておりますので、少々お時間をいただければと思います。今日お見えになっておられる方で何回も来ていただいている方がいらっしゃると思います。また初めての方もいらっしゃるかと思いますので、そういう方のためということでご紹介をさせていただければと思います。
この千曲塾でございますが、皆さんご存じの通り川というのは治水・利水・漁業・物資の輸送など、いわゆる地域の発展と、地域文化の形成に大きくかかわってきているということでございますので、その千曲川と地域のかかわりを様々な視点で解きほぐして、これからの千曲川のあり方を考えていきましょうというような会でございます。毎回テーマを決めまして専門の方に来ていただいてお話を伺って意見交換を行うというようなことをさせていただいておるわけでございます。
この塾の塾長は、今日も前に座っていただいておりますけれども、県立歴史館の館長であります市川健夫先生をお願いしておりまして、さらにテーマに関する専門家を毎回お呼びするということで、特に今日もおいでいただいていますけれども、この3月に京都、滋賀、大阪を中心に行われました「第3回の世界水フォーラム」の尾田榮章事務局長にも来ていただいたり、あるいはその他各界のそれぞれの専門家の方に来ていただいているということです。それと関係機関、希望者ということで皆様にお集まりいただいて、それぞれに意見交換していただくということでございます。
テーマといたしましては、ここに書いてありますように、歴史的な洪水ですとか、これはこれまでにもやってきたのですが、サケの話ですとか、今日やります水運ですとか、様々な川と人とのお付き合いの切り口をそれぞれ見つけて、こういう会を設けているということでございます。
これまでの経緯ですけれども、第1回が平成13年1月でございます。このとき立ち上げました。それで1回、2回、寛保の洪水という千曲川史上最大の洪水についてご紹介いただいて意見交換をさせていただいて、第3回には現地検証会ということで実際に史跡等の現地を回ったということでございます。第4回はサケのお話をさせていただきました。第5回が水質の話。第6回、これが14年度に入りまして千曲川災害の地形、地質ということでさせていただいて、実際10月にはやはり現地を見に行っているということでございます。それから第8回、これが今年の1月にさせていただいたのですが、千曲川流域の交通と温泉開発ということでさせていただきまして、今回が第9回目ということでございます。
そういうことで今日また勝山先生のほうから舟運のお話をしていただきますけれども、よろしくお願いいたします。
せっかくの機会でございますので、私どもの事業概要についてちょっと簡単にご紹介だけさせていただきたいと思います。皆さんご存じのとおり千曲川、これは信濃川の上流部分、長野県内のほうの呼び名でございまして、幹線流路延長と書いてありますが、要は新潟市から信濃川、千曲川を遡ってきまして甲武信岳までの延長が367kmということで、これは日本一長い川でございます。そのうちの200km強が千曲川ということでございます。
これが信濃川の縦断図ということでございまして、横軸のほうが河口からの距離でございます。縦軸のほうが川底の高さでございます。ですから距離と高さということで見ていただきますと、川の勾配がどれくらい急かということが分かってくるわけでございます。新潟市というのは新潟港のところですね。そこから越後平野をいきまして長岡市、ここまでは大体越後平野ですから非常に平らでございます。そこから川が急になってきまして、長野県内に入りまして飯山盆地、長野盆地と、このあたりは平坦になっていまして、そこからまた急になってくる。その間に狭窄部と書いてありますが、これが要は川が狭くなるところですね。こういうのが我々の治水事業、この水系一貫させていただいているのですが、ひとつのポイントでございまして、要はこういう狭いところというのは当然川の水の流れが悪い。ですからどうしてもその上流のほうへ川が洪水のときせき上げられてくるということになるわけです。この狭窄部という所を開けば当然川の流れは良くなるわけですけれども、そうすると今度下の方へそういう洪水が流れていくということでございますので、その下の方への影響も考えなければいけない。そのような全体のバランスを考えながらいろいろと治水事業を進めていって、この水系全体で治水の安全度、皆さんが安心して暮らせるようにしていく必要があると我々は考えているわけでございます。
私どもの事務所は、延長が134.9km、約135km管理をさせていただいております。そのうち今の堤防が整備されている状況なんですけれども、これはあくまでも延長、長さで比較しているのですけれども、千曲川の堤防の整備の必要延長、我々の先ほど言いました135kmの管理区間で必要な延長は約230kmと考えておりまして、そのうちきちんとした大きさで出来あがっている堤防、計画上必要な大きさを備えている堤防は約半分。まだ堤防が無いところがまだ15%残っているということでございます。
先ほどいいました狭いところ、広いところの航空写真はこれですけれども、長野というところは長野盆地がありましてその下流は狭いところがあって、今度は飯山盆地、ご存じのとおり広くなってまた県境にきて狭くなるということでございます。
先ほどいいました堤防がまだないところというのは、実はこの狭くなっている立ケ花橋の下の方にまだかなり残っておりまして、このあたりについて今整備をしていかなければいけない。このあたりは皆さんご存じかと思うのですが、昭和58年に柏尾橋と書いてある、一番上のところですが、ここで本線の堤防が切れました。それで飯山市さんの、この絵でいう下側のところ、川でいうと左岸側というのですが、そちらのほうに大きな浸水が発生したわけでございます。それらを踏まえて下流のほうから堤防を作ってまいりまして、今替佐地区ですとか、柳沢地区というところの堤防の整備に入っているという状況でございます。
私ども事務所の基本方針としましては、安心して生活できる地域づくり、これを支える川の整備というのをやっていきたいということと、あとは非常に環境豊かでございますので、詩情豊かでうるおいとやすらぎを運ぶ川づくりということでさせていただいております。
15年度の主な事業といたしましては、赤い色で書いてありますが、再度災害防止のための事業。これは昭和58年浸水を起こしてまだそこに対する手立てができていないという意味で、その再度災害を防止しましょうということで、その柳沢築堤、替佐築堤をさせていただいているということです。あとグリーンで書いてありますのが、河川環境の復元と水辺空間の整備ということで、飯山市さんで水辺プラザということ、あるいは長沼の桜堤、これは堤防の脇に桜を植えるという事業なのですが、そういう桜堤事業、あるいは杵淵というところでは自然再生、これは元の自然を少しでも復元したいというような事業をさせていただいているということでございます。あとブルーで危機管理体制の整備のための事業ということで、これは光ファイバーという情報通信の線なんですけれども、それを整備しましてできるだけ実際の今の川の状況を見ながら管理するとか、あるいは施設を遠方から監視するというようなことで、できるだけ危機管理体制を高めるということでさせていただいております。
一応事業概要はそうですが、もうひとつご紹介なんですけれども、今日は7月7日でございます。これは実は「川の日」ということでございまして、これは国土交通省のほうで平成8年度に決めさせていただいているのですが、7月7日はご存じのとおり七夕でございまして、天の川を連想させるというような話と、7月は河川愛護月間ということで、皆さん川に近づく機会が多いので川をきれいにしていきましょうということで、河川愛護月間となっております。そのようなことを踏まえて7月7日は川の日ということです。具体的には7月7日の川の日とは何なのだと言われますと、なかなか川と皆さんが触れ合う機会が最近少なくなっているということで、川の日というものを設けて皆さんに川との触れ合いといいますか、川をよく知っていただきたいということです。それと環境づくりを、例えば自治体さん、地元の住民の皆さんと一緒にやっていかれるという話があれば、そういうものも我々としては支援していきましょうというようなことで、こういう川の日というのを決めさせていただいているということでございますので、お知りいただければということです。
今日、たまたま7月7日の日にこういう千曲塾をさせていただきますということですので、是非またこれを機会に千曲川を、また皆さん思いを新たに、今後の千曲川について今日意見交換していただければ非常にありがたいと思っております。
以上、長くなりましたけれども千曲塾のご紹介と、私ども事務所の紹介をさせていただきました。今日はどうもありがとうございます。ご苦労様でございます。
【司会】 ありがとうございました。それでは本日の資料の確認をさせていただきたいと思います。1番目がA4の1枚紙で「第9回千曲塾 スケジュール」という紙が1枚ございます。それから千曲塾報告書第2集というもので、第6回から8回のものを編集した本があると思います。それと本日の話題提供をいただきます勝山先生の「第9回千曲塾 千曲川の舟運」というパワーポイントで説明されるもののコピーが綴ってあるかと思います。もう1点、同じく今日話題提供をいただきます尾田様のA4の綴りの字が小さめなのですが、「第3回世界水フォーラム開会式における皇太子殿下記念講演」という綴りがあるかと思います。もう1点、千曲塾アンケートというものが1枚入っているかと思います。これは千曲塾が終わるまでに記入していただきまして、お帰りの際に出口に回収箱がございますので、こちらの方に投函をお願いしたいと思います。
お願いなのですが、今日の第9回千曲塾スケジュールという紙が1枚入っていると思いますが、スケジュールの1部を変更させていただきたいと思います。このあと塾長のほうから挨拶と話題提供をいただきまして、引き続き勝山先生の「千曲川の舟運」ということで話題提供をいただきます。そのあと質疑応答をしていただきましてそこで休憩を入れまして、引き続き尾田様より話題提供をいただくという形に変更をさせていただきたいと思います。資料の方はもれ等はございませんでしょうか。
それでは引き続きまして当千曲塾の塾長であります市川先生より挨拶と、引き続き話題提供をお願いいたします。
【市川塾長】 市川でございます。一言ご挨拶と話題を申し上げます。お隣りの中国では交通事情についで「南船北馬」と言っています。華中、華南は主として舟運に依存してきました。それに対しまして華北、東北地方では馬交通に依存していたことを意味しています。それを表すように川の名前をひとつとりましても、華中、華南では揚子江とか珠江というように河川名に江がついております。それに対しまして華北や東北地方は黄河とか遼河というように「河」という河川名がつけられております。このように中国でも北と南では交通手段が大きく違っていました。
日本の場合はどうかというと、私は「東馬西船」といっております。東日本が駄馬交通で、西日本が舟運に依存しているという割合が非常に多いという意味です。丁度10世紀の初めに「古今和歌集」を編集した紀貫之が土佐の国司に任命されます。その旅日記がありますが、これが有名な『土佐日記』です。これを見ますと貫之は京都から淀川・大阪湾、さらに紀伊水道、さらに太平洋を出て土佐までまったく歩かずに、船だけで任地に旅立っております。このような例を見ても、西日本では船が、舟運が非常に卓越しています。それに対して東日本は遅れているわけです。信州の場合南の太平洋沿岸に流出している天竜川ではいち早く近世の初めから水運が発展しております。今日のテーマである水運は三つに分けられるかと思いますが、一つは木材の管流しです。一本一本木材を流送するのが管流しです。木曽では材木の真ん中に乗って運材する人夫を"中乗さん"と言っています。これが木曽節の音頭にも使われております。この管流しは天竜川では平安時代から行われておりました。京都や大坂、近江などで宮殿や、神社仏閣を造る場合に、信州から送られた木材や榑木が使われております。また中世になりますと木曽材が信州から大坂に送られ、さらにここから宋の国(中国)に輸出されていました。
このように古くから川を利用した水運が行われておりましたが、しかし舟運は一番信州で早かった天竜川でさえ、江戸初期、角倉了以(すみのくらりょうい)が河川改修をして舟運を始めたという歴史は西日本にくらべて新しいわけです。水運の面ではさらに遅れた千曲川ですが、中流以下では河川勾配の緩やかな大河です。
千曲川の管流し、あるいは筏流しは舟運より以前から行われていて、ただ今現存する善光寺本堂の建物では梁は地付山など近隣の山から赤松を調達しております。柱のほとんどが南佐久の、現在の小海町、佐久町、相木などの千曲川沿岸で生産された桂を管流しで運んでおります。桂を一本一本流すのですが、夏に流しますと夕立で一気に新潟の河口まで流されてしまう恐れがあるので、木材を積み重ねましてダムを造りました。それを壊して一気に下流に木材を流していくのが管流しのやり方でした。そして千曲川を下った材は、落合から犀川を上らせて丹波島まで運び、さらに安茂里の裾花川を上らして、荒木にある木留(きどめ)神社というお宮で材を水揚げした。それから大八車で善光寺まで運んだといわれています。このように善光寺の建物をひとつをとりましても、古くから川を利用した管流しがなかったならば、白鳳時代以来の善光寺の建物は存在しなかったと思います。
なお、日本で一番大きな木造建築物である奈良東大寺の大仏殿です。この建物の運材は古くから南山城、京都府の南を流れている木津川を利用しております。木津川にある町、木津町で陸揚げして、奈良丘陵(佐保丘陵)を越えて、奈良に運んでいました。そこで木津川という河川名で、管流しをした川の名前が残っているわけです。
千曲川の舟運がどうして盛んであったかというと、これは千曲川の自然条件を上げられます。日本における舟運は、河川勾配が300分の1以下でないと運航が難しかった。上田にもは湊があったのですが、あまり利用されなかったのは何故かというと、上田の河川勾配は190分の1です。また上田からさらに戸倉上山田に参りましても250分の1程度で、300分の1という数値をクリアしていません。ところが更埴市の千曲橋から下流になりますと、河川勾配は急に緩やかになりまして900分の1、そこで千曲川が大きく蛇行します。そして落合で犀川と合流した地点からは1,000分の1という緩流になります。また長野の盆地から長嶺丘陵を超えていきますが、ここはやや急流になるのですが、飯山の腰巻橋(古牧橋)から大関橋までの飯山の盆地は3,900分の1という緩流です。ですから飯山にまいりますと千曲川が油を流したように波を立てずに流れていくことが、お分かりいただけるかと思います。水運に適した川の地形です。
ところが千曲川が最下流に近づいてまいりますと、飯山市が経営している湯滝という温泉があります。ここまできますと白波が立っております。このあたりは700分の1と勾配がやや急になりますが、それでも船は航行可能なのです。信越国境にはこのように湯滝、さらに西大滝のダムのある西大滝、東大滝、平滝、小滝、足滝といったような滝と名前のつく地名がいくつかあります。そこに行っていただくと分かりますが、河床に岩盤が出ているところです。したがって西大滝のようにダムをつくるのには非常にいい自然条件をもっています。江戸時代の人たちは、急流になっている所に滝という地名をつけました。これは我々の考えている滝(フォール)ではなくて早瀬です。西大滝が千曲川通船の終点でした。それから下流の十日町までは舟運がなかった。十日町から長岡へ、さらに新潟の河口までの信濃川は緩流です。特に長岡から下流は7,000分の1以下の緩やかな河川になっております。
どのような舟運が行われていたかについて端的に示しているものに、藤村の『千曲川スケッチ』があります。島崎藤村が小諸義塾に赴任するのが明治32年です。その翌年の明治33年から盛んに千曲川の上流、野辺山から、下流は飯山までを探訪し、『千曲川のスケッチ』というルポルタージュを書いております。飯山には2回ほど行っております。その場合小諸から豊野までは信越本線を利用しています。これは明治21年に信越本線が直江津から軽井沢まで開通しました。それ以後ですから鉄道のある所は鉄道を利用するのは当然のことでした。豊野駅を降り、歩いて蟹沢(かにさわ、現豊野町)の湊で乗船していまいります。その間歩きながら川の向こうには栗で有名な小布施があるといったり、あるいは菅平の山々についても書いております。蟹沢の湊から飯山まで船でまいります。そのときの感動を実に細かく『千曲川スケッチ』の中に書いてありますが、「川舟」という章と「雪の海」という章で、通船や飯山の町を紹介しております。当時は機械除雪がなかったのです。藤村は冬来ておりますが、もしも歩いてでは雪が深いから、飯山には行けなかったと思います。千曲川は冬でも凍結しませんから船が冬でも航行可能でした。
葛飾北斎が江戸を描いた浮世絵を見ますと、19世紀は18世紀から始まった小氷期ですから、現在の隅田川、当時の大川が一面氷が張っております。その氷の上を人々が歩いたり、馬を引いたりしております。しかし大川と違って千曲川は流水量が多いので凍らなかったことが、藤村の『千曲川スケッチ』をみても分かります。
なおこの舟運を通じていろんな物資が流通しています。一番流通した物資は塩です。信州では岡崎や名古屋など南から入ってくる塩を南塩、それから糸魚川や直江津から入ってくる塩を北塩と呼んでいます。岡崎から入ってくる南塩(表塩)の接点が松本の南にある塩尻です。また直江津から入ってくる塩と、江戸から入ってくる塩の接点が上田の塩尻です。同じ日本海側の塩で直江津・高田から入ってくる塩と新潟から入ってくる塩の接点が栄村の塩尻です。かつては13戸ぐらいあったのですが、現在は2戸になっています。信濃川の水運で十日町まで運んだ塩と、直江津から高田まで船で、それから牛の背で飯山に運び、飯山から船に塩を乗せて下る。その接点が栄村の塩尻だったのです。そのような塩尻という地名からも、新潟からの通船と飯山からの通船が使われていたことを知ることができます。
なお、この水運に使われていた船が規模が大きく驚かされます。明治5年の史料を見ますと、船の所有者とトン数が出ています。その中で一番大きなものは75石積みです。江戸時代船の大きさは、石数で表します。1石の米が150kgですから75石ですと11.25tになります。千曲川で使われていた船、現在使われているトラックの最も大きなものと同じだけの荷物を運ぶことができました。
今、日本では10万tをこえるようなタンカーがおりますが、江戸時代で一番大きな船が千石船です。これは重量トンに直しますと150tです。千曲川の川船が割合大きかったことが分かります。また50石船で7.5t、20石船で3tといった値が出ています。このような大きな川船が行き交いしていました。
日本の最初の陸水学者田中阿歌麿(デザイナーである田中千代さんのお父さん)は大正15年に『野尻湖の研究』という本を出しました。当時のお金で8円。500部限定と書いてあります。そこに野尻湖で使っている船には川船と海船の両方があるが、海船は直江津の船大工、川船は小布施の山王島の船大工が造ったと書いてあります。このようなわけで千曲川の沿岸には船大工が多数いました。今でも飯山に一人生存者がいらっしゃいます。船大工が船を造るばかりでなく、山田温泉の大湯の湯槽を造っていました。
今、湯槽を木で造る場合、檜で造る場合が多いのですが、檜は水に弱いのですぐ黒くなってしまいます。そこで昔の人はサワラで造るか、サワラよりも二倍長持ちするコウヤマキで造るのが常識だったわけです。千曲川流域ではコウヤマキはありませんから、酸性の温泉で赤松で造りました。このように船大工が信州に多い温泉の湯槽を造る立役者でもあったのです。
川は治水と利水の両面がありますが、利水の面では灌漑用水、あるいは上水道、水力発電などいろいろなものに使われていました。かつて利水で大きな役割を果たしたのが水運です。そういう意味で今回の研究テーマである千曲川の水運・舟運。船の便につきまして勝山先生からお話をいただくことになっています。信州の水運の中で河川勾配が緩やかなために、盛んであった千曲川の水運事業がどんな状況であったかお話を承りたいと思います。
木曽谷の場合舟運がありません。木材の輸送は小谷狩り、大谷狩りと、木曽川の本流に出てからは管流しをします。そして岐阜県八百津町に錦織という湊がありましたが、そこで筏に組んで河口まで運ばれておりました。木曽谷では舟運がなかったのです。舟運があったのは天竜川、犀川、千曲川と諏訪湖、野尻湖のみです。その中で千曲川が一番水運に適していたかについてお話をいただけるかと思います。
今年は御開帳の年ですが、明治時代まで御開帳のときに犀川通船、千曲川通船の利用者が多かったのです。
これで私の話題の提供は終りたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。
【司会】 塾長、どうもありがとうございました。運営のほうを塾長にお任せしてよろしいでしょうか。よろしくお願いします。
【市川塾長】 それではこれからの運営を私がさせていただきます。それでは勝山先生から「千曲川の舟運」につきまして、お話をいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
【勝山氏】 ただ今ご紹介をいただきました勝山でございます。今日は千曲川の舟運ということでお話をするわけですが、今、市川先生から千曲川の勾配と舟の運行との関連のお話がありました。そのあと千曲川舟運について具体的にお話を申し上げていきたいと思っております。
私の今日お話することは、もうすでに早い頃から江口善次先生、米山一政先生、青木孝寿先生、西沢武彦先生とかそういう方々がいろいろ論文を出されているのを受けまして、私の研究は江戸時代を中心にして千曲川の水運がどのように展開してきたかということについて、調べてきたものです。最近、新潟県の方でも『新潟県史』に出ていますし、特に千曲川、信濃川の舟運につきましては、桑原孝さんという方が研究されて、市町村誌などに書いておられます。そういったものを元にして私なりにまとめてみたものでございます。
これから始めていきたいと思います。千曲川、信濃川、これは一続きのものなのですが、舟運ということを考えた場合に、信州側のほうは随分あとになって実施されてくるということがあります。これは先ほどの河川勾配、自然条件の面からもそうですが、江戸時代を中心にして考えた場合には、特に幕府が幕領の米を江戸に運ぶということが最大の課題でありましたので、舟運が計画されてくるもとがあったわけです。
信濃川の方の関係は、特に新潟から長岡を中心として越後米を如何にして江戸に運ぶか、または大坂のほうに運ぶかということです。幕府はもちろんのこと、各藩、新発田藩、高田藩でも、それぞれ川を利用して新潟へ出し、新潟から大きな船で運ぶというようなことが行われてきました。信濃川関係は非常に早い時期から舟運が発達したわけです。高田藩の場合で言いますと、魚沼の米は魚野川や信濃川を下して新潟湊に出し、それから日本海で敦賀に出します。敦賀から琵琶湖まで陸送をして、つぎに琵琶湖の水運を利用して京都に運ぶ。京都に行けば大阪にも出せるわけです。新発田藩も同じようなことで、早い時期から行われていたわけです。
この千曲川の関係で言いますと、一番に申し上げましたように慶長12年に松平忠輝が松代城主のときに、家老であった大久保長安から書簡がいっているのが初めてだと思います。これは『信濃史料』「第二十巻」の中にあったものをここに転写していただいたわけです。大久保長安から角倉了以に書簡を送っておりますが、「川のことを良く知っている人を川中島に一人送ってもらいたい」という内容でございます。このことからも非常に早い時期に信濃川、千曲川を通じて松代まで日本海の舟運を結びつける計画がすでに考えられていたということでございます。しかしこの計画は大久保長安がこのあと間もなく亡くなってしまいますので、その計画は立ち消えになったようでございます。
信濃川・千曲川の位置関係を地図で確認して下さい。ここが国境になりますが、長岡から新潟までは非常に緩流で、早くから舟運が発達したところであります。十日町、西大滝を経て、これが善光寺平になるわけですが、県境のところが非常に狭窄部でございまして、ここがいつも舟運のできないネックとなるところです。
これは新潟湊の様子です。安政6年の絵でありますが、ロシア船とオランダ船が初めて新潟湊に姿をみせたときの様子で、信濃川就航の小舟もたくさん描かれています。
二番ですが、幕府による舟運による本州の横断計画がたてられます。ここに書いておきませんでしたが、最初幕府が考えたことといいますと、明暦3年でありますが、今の清水街道を開発してその間は陸送すると。信濃川から支流の魚野川を船で運びきまして、それからあと陸送したあと関東平野に出て利根川を舟で下して江戸に出るという構想がありました。しかしこれは宿場の反対で実現にいたりませんでした。
その次が万治4年(1661年)、幕府が舟運による本州横断計画が持ち上がります。これは信濃川から千曲川の小諸の辺まで船で運びまして、小諸から峠を越えて上州へ出る。そして利根川を舟下してさらに江戸川に行き、それで江戸に送るという計画でありました。しかし計画はしたものの河川勾配とか宿場の反対等いろいろな点で無理があるということで立ち消えとなりました。
次に出ましたのは寛文9年、これは加賀藩へ勘定奉行より問い合わせがあったというものです。下関廻りで大坂に行くのと、信濃川と千曲川を直送するのと、どちらが有利かと。しかしこれも実現はされませんでした。丁度このころ川村瑞賢による東回り航路、西回り航路が改善されまして、日本海側の米を江戸に送るということが安定しましたので、千曲川を利用するというようなことは立ち消えになっていきます。いろいろな計画はありましたが、現実にはいろいろ難しい点がありまして上手くいかなかったということであります。
新潟の信濃川舟運のほうはどうであったかといいますと、新潟湊から長岡を通り十日町までで、十日町辺りまでは特に下り荷は回米輸送を中心にして江戸時代の初期から盛んに整備されてきております。上り荷の方は商荷物が主であります。ちょうど陸上でいいます宿場の関係と似ています。宿場へ荷を継ぎ送っていくのと同じように、船の場合も回米輸送が中心でありました。その帰りに商荷を運ぶというようなことでした。特に輸送の荷品としては塩、塩魚類などが特に中心的に行われてきています。越後のほうではこの長岡舟道、舟道という組織が信濃川の関係では早くからありまして、長岡舟道が一番早く整えられました。この信濃川の支流を含めまして6つの舟道があったようであります。千曲川の関係では新潟舟道、長岡舟道。小千谷を経て十日町までは、妻有(つまり)舟道がありました。舟道というのは、陸上の宿場と同じように荷物の積む湊、河岸(かし)といいますが、その河岸場の指定、船の数をお互いに決めまして、回米などを送り出す規定。例えば米を下流に運ぶ場合には、順番に船持ちが送るような規定が船持仲間の中にあったようであります。その他積荷規定、運賃規定、いろいろな湊の定法等がありまして、そういうものにより規則正しく行われていたということであります。
これは江戸時代の後期でありますが、例えばその妻有舟道で言いますと、回米の積み出しの場所としては3箇所ばかり十日町を中心にして決まっていました。
これは文化9年の例でありますが、例えば船の数で申しますと、十日町組は14、小千谷組が14というように船の数が決まっておりました。
善光寺平における千曲川舟運の出願のようすをお話しします。出願者の名前と、出願時の範囲を出してもらっています。例えば早い頃でありますと、延享5年権堂村、三才村、問御所村、黒川村の人たちが、森村から犀川の荒木村、上田市の諏訪部村までの舟運を願出ています。
宝暦10年では高井野村の文六と三郎左衛門が新潟湊から犀川、千曲川の通船を願い出ています。次の宝暦11年は小布施村の祐八、この人の願書を見ますと、具体的にこのように出ております。丹波島から飯山市の藤沢(西大滝の直ぐ上流のところの集落)まで15里、これを舟運で。あと藤沢から越後の宮中村、この間7里を陸送しまして、そのあと新潟湊までの31里を船で運ぶという願書を出しております。このように船が無理なところは、陸送をしてあと水運で行くというようなことを計画しました。
ここにありますのは今の続きですが、宝暦12年には小布施村の祐八という人は認可を得て、通航したようです。長岡で船に小旗をひらめかせて通航したところ、継ぎ船するように、舟道の慣行厳守をするよういいわたされています。その旗は免許の旗ではなくて、千曲川の関係の免許の旗だといわれております。多分陸送して十日町の辺から船で長岡に出て新潟へ行ったのだと思われます。宝暦年間すでに試みとして通船が始まっているようすがうかがえます。
明和2年の要八、三郎左衛門、これは新潟湊から上田の辺までと。明和8年に祐八と伝五郎、この2人が長野の荒木村から新潟湊。安永2年にも祐八がそういう出願を出しています。
このように18世紀の中ごろから19世紀にかけて盛んに千曲川沿岸の商人たちが通船を試みているのです。しかし認可は得られなかったのです。その認可の得られなかった一番の理由は、やはり陸路を輸送する宿場が反対するのが大きな抵抗になったのです。陸送している荷品を船で大量に運ばれてしまえば、陸路の宿場が困るということで、宿場の反対が強くあってこれは不認可になっていたのです。
千曲川の舟運の始まりというのは、西大滝の斉藤太左衛門という人が認可がおりた最初の人です。太左衛門は安永6年頃から通船の計画を立てて願書を出しているわけですが、ようやく認可になったのが寛政2年1790年です。18世紀の終わりごろになって認可がおります。現在飯山市ですが、西大滝のダムのあるところの太左衛門の船が、西大滝と須坂の福島の間13里、約51kmを5艘の運上金、一貫百文の運上金を払うということで認可になります。今まで駄目だったのがどうしてここで認可になったのかということを考えてみますと、ひとつは千曲川沿いの須坂を通る谷街道は、宿駅制度の街道、往来にはなっていませんので、宿場というものがないわけです。ただ、屋代から福島までは北国街道で宿場が、福島、川田、松代、屋代とありました。街道の反対を避けるという意味では福島から飯山であれば認可には丁度よかったのではなかったかと思います。
この時の船は、寛政5年の資料でみますと長さが10間4尺、約19mです。横の幅が9尺から1丈、約3m近く。そこに乗っているのは船頭が1人、舳竿(へさきざお)1人、綱手4人。綱手は船を引き上げるときに4人で引き上げるのです。実際には、急流ではもっと人足が多くないと上がらないということで人数を増やして8人で曳くこともあったようです。この船は15両の制作費でありました。修理でも5、6両はかかったということです。荷物はどのぐらい積んだかといいますと、上りは80俵。これは換算してみますと4.8tぐらいになります。下りは90俵、5.4tぐらいです。西大滝と福島の間を6日ぐらいで往復をしたようであります。これが認可になりましたので太左衛門によって水運が始まったのです。5艘分の運上金という税を払いましたが、実際には5艘は運航しなかったようで、1艘か2艘が精々であったようです。この船の大きさをみますと大分大きいのですね。
これは地図で一番右端が西大滝ですが、飯山を通りまして福島宿まで。先ほどいいましたが福島から松代、ここが矢(屋)代で、赤い印の間を運航しました。しかし実際には5艘揃って初めからやったのではなくて1艘か、2艘の運航でした。税だけは5艘分出すということで認可にこぎつけたのです。
これが寛政5年の形取りです。こういうものはめずらしいもので、西大滝の斉藤家の文書の中に一枚だけありました。船を作る人に聞いてもこういう図面なんてないというのが普通のようです。このような設計図がありますので、これによって船を作ったのではないかと思います。
先ほど綱手が4人いたというのをお話しましたが、これは京都の高瀬舟の絵です。京都の町の中を運ぶ船ですから非常に整えられているわけです。この絵で船を引っ張っている様子がいくらかお分かりいただけると思います。千曲川の場合には川の沿岸にこういう引く道形がありまして、その道を引いたと言われています。急流で崖のようになっているところはできないのですが、部分的にそういう道がありまして舟を引き上げたと。また道がない場合には川の浅瀬に入って網を引いたそうです。大変な労働だったと思います。
帆を使ったか使わなかったかということですが、文書でみるかぎり帆のことは何も書いてありません。ですから初めから帆を使ったかどうかはわかりません。帆をつければ非常に具合がいいということで、少し経ってから帆を掛けるようになったのではないかと。明治時代の写真を見ますと、帆を掛けているので、昔も上流に行く場合には帆を利用して上ったのではないかと思います。ここに写してもらったのは小布施のハイウエイミュージアムに展示するということで、あの形取りを元にしまして模型を作ってもらったものです。
このようにして滑り出したわけですが、段々荷品も増えて、この通船も軌道にのってきたと思われます。文化15年に新しく通船をやりたい人があらわれ太左衛門との間に問題がおこります。これは中野の栗林村の与五作という人が出願したわけです。新しく運上金を納めるから認可してもらいたいという出願がありました。太左衛門はそれに対して反論をします。自分の方は実際には1艘か2艘しか運航していないが、5艘分の運上金を出しているということや、ようやく文化10年になって3艘になったということを主張して、新規通船に反対をします。その願書の中にある文面が当時の流通のようすを伝えています。非常に重要だと思いますが、この頃から特に富倉峠とか飯山の北にある関田山脈には越後に通じる峠がいくつかあります。その峠越えで、柏崎とか柿崎の方面から塩や米が千曲川の西大滝、桑名側のほうへ来ている。その塩や米などを舟運で上流へ送りたいというのです。船で運べば塩とか穀物類等は大変安く運べるのでこの地域の利益になるというようなことを言っております。うちのほうは3艘分の冥加金を出すので、是非認可してもらいたいと主張しています。このようなやりとりのあと文政元年に最終的に決着が付くのですが、一応地元の人たちの意見を受け入れて、与五作船は太左衛門所属の1艘として就航するということになりました。与五作船は新規通船ということではなくて、太左衛門船の一部として就航するということで決着がついたわけです。このように物資の交流がどんどん盛んになってくるのを背景にして、新しくやるという商人も出てきたわけです。
寛政5年、幕府もこの舟運に着目しまして、西大滝から十日町の間をなんとか舟運できないかということで開発構想がありました。天領は中野に代官所がありましたので、幕府は舟運に堪能な代官を任命しまして、構想実現のために働きかけたようであります。これは小諸から新潟湊とか、犀川の丹波島宿、こういう間を舟運で結び付けたいというわけです。その場合にはどうしても信越の国境の辺、西大滝より下、十日町の間の岩場を砕いて船が通るようにしなければならないわけです。そういうようなことも含めて随分運動があったようであります。しかし、希望者があらわれずにおわります。
つぎに松代藩営の川船の問題が太左衛門との間に起こってきます。松代藩で川船の就航をしたいというのです。飯山から松代までの間を塩、米穀などを上らせたいというのが1番の眼目であったようであります。段々商品生産や商品流通が盛んになるにつれて文政4年ごろに松代藩で藩営の川船をやるということになり、太左衛門との間に問題が出できます。これは双方で話し合った結果、示談が成立して規定書ができます。その中味は松代の川船は2艘を使って、松代と飯山を運航すると。それから今まで太左衛門が運航していた福島と飯山の間は、太左衛門の差配に従って行うと。福島より上流は太左衛門はやっていなかったわけですが、これは松代藩の差配に従って行うということ。米穀類は福島より上流へは運ばない。塩は10駄につき500文、そのうち250文を太左衛門のほうに渡すというようなことが取り決められて示談が成立したわけです。
松代藩では丁度真田之貫の治世の時代で、このころは松代藩は藩財政を立て直すというような意味もありまして、糸会所を設置するとか、積荷の専売とか、産物会所を設置するとかというようなことで、積極的に水運というものに注目している時代でありました。太左衛門のほうはどうかといいますと、ちょっと経営が不振だったせいか天保3年になりますと、2艘を森村の和七に譲ってしまいます。和七は船を譲り受けると同時に20両を太左衛門に渡し、船代と借用金の返済を引き受けるというような条件で和七に権利を譲ります。太左衛門のほうは天保4年になって福島から松代のほうへ就航するということが実際に行われました。松代藩の川船については、寺尾に蛭(ひる)川という川がありますが、その川を船が上るように随分手を入れまして、船着場とか藩の蔵を作り、そこへ松代の船が乗り入れたようです。松代藩の川船は大船が6人乗り、35駄積みでありました。今の単位に直しますと5.25tです。上りは引き船をして帆を使用しました。上りは飯山から松代まで4日ぐらい。下りは松代から飯山まで1日行程で上下しました。その他、小さい船も使われたようであります。この松代藩の川船は、これは天保15年の例でありますが、産物会所に入ったのは、年間の通船のうち85%が松代藩の産物会所に入ったという記録がございます。
流通量の関係ですが、天保8年の資料で見ますと、上り荷が主で、塩が全輸送量の約4分の1と、塩が中心のようです。
今、塩の話が出てきましたので、塩の関係を申しますと、千曲川で通船が始まるようになりますと、日本海側から瀬戸内海で取れる瀬戸内の塩が運ばれてきて、その塩が善光寺平に入ってくる。先ほど北塩、南塩の話がありましたが……。信州関係は高田に元締めがありましたのでそこで全部手配の独占権を持っていました。もちろん北国街道も通りますが、特に高田から新井、富倉峠を通って飯山へ出て飯山から千曲川舟運によりまして善光寺平に持ってくるという通路であります。飯山はそういう意味では特に富倉峠と千曲川の下流から来る塩の元締め、塩商人が何軒かありました。享和年間の資料ですと8人の塩商人がいました。飯山でまとめられまして、そこから千曲川で上流の栗林、小布施の押切、山王島、福島、綿内、丹波島と、河岸(かし、河港の意)のあるところを塩が運ばれたということです。特に小布施の塩問屋、高井家は大きな塩問屋をやっておりまして、嘉永年間、塩の送り状があります。大阪の取引人によって赤穂塩4,000俵を大坂から今町湊へ送ってくるという送り状があります。こういうものをみますと小布施まで瀬戸内海から日本海を通って、直江津へ行き、直江津から富倉峠を通り飯山へ出て小布施へ着いたということです。
その他では栄村の箕作(みつくり)というところの資料で、瀬戸内海の安芸(あき)(広島県)、周防(すおう)(山口県)のほうの塩がたくさんきていることが分かります。また桑名川の文書にもそういうものがございます。特に幕末、慶応年間から関田山脈に牧峠というのがありますが、そこを越えて桑名川まで来たという物資交流の資料もございます。それからずっと後のことでありますが、峠越えでものが送られてくる様子が、これは大正時代か昭和初期であるかはっきりしませんが、土地の人の話で、牧峠では峠に旗を用意して荷物が着いたことを知らせ、それを合図にして峠に荷物を取りに行くようなことなども行われたようです。江戸時代などもそれと似たようなやり方であったのではないかと思います。
次に大きな計画がまた起こります。善光寺町の小野厚連という人の新規舟運でございます。この舟運が行われるようになったのは文政年間です。文政11年に中野代官の検分がありまして、西大滝の辺から船が通れないところの大石を打ち砕く作業をして船を通そうというのですね。江戸から職人を連れて来てやったというようなことであります。それでも簡単には船が通れるようにならなかったのでありますが、1度や2度の失敗にくじけないで、この厚連という人はやったようあります。そこに佐兵衛という人と連帯して一緒に運動を繰り返して、この難場普請をして天保9年ころに普請が完成したようであります。それで何とか西大滝から越後側のほうへ、船が一時的であれ行けるようになったのではないかと思います。
松代藩の通船のところとも関係するのですが、どんな品物が行き来したかということで非常に多いのですが、特に松代藩の川船については西沢先生の調べられた荷品、その他の文書に出てくる品物を表にしてみたものです。
天保4年のこの表にたくさんあります。日常雑貨からいろいろなものがあって、数え切れないほどあります。この表をずっと見てみますと、先ほどの上り荷の一番下のところを見てください。上り荷としては塩、米穀、茶、鉄、海産物、魚類、それから筵や陶器や藍玉などです。下り荷としては煙草、油、紙、木綿、竹などが船で運ばれたということが、分かります。松代は当時10万石の城下町ですから人口的にもたくさん人がおり、それだけ消費量もあったと思います。それから長野の善光寺を中心にした消費都市。これは先ほども荒木だとかいう場所が載っています。善光寺と、特に松代は大きな町でありましたのでいろんな日常的に消費物資を多く必要としたわけです。
厚連船は天保11年に認可になります。それから準備をしまして、実際に就航しましたのは翌年の天保12年からになるのですが、この認可のところを見ていただきますと分かりますように、丹波島から新潟湊までを通していくというものなのです。試みの5カ年期で80艘という申告をして、これが認可になっております。一時は越後湊まで行ったようでありますが、通しては無理であったようで、運航したのは西大滝から上流の舟運が主であったということです。しかしこの構想というのは非常に大きくて、80艘という大仕掛けでありました。積荷問屋の差配もみな厚連が任されましたので、その積荷問屋についてもいろんな規定を作りました。例えば口銭を取った場合の3分の1を大滝難場筋の岩石を打ち砕くとかいうように、船が通れるようにするために使うこと。積荷問屋の運上金500文を徴収する。これは厚連が仕切るわけです。積荷問屋をやると申込んできた人たちはどんな人たちかといいますと、丹波島の市郎左衛門、荒木村の与惣治、綿内の助治郎、栗林の武右衛門、桑名川の庄左衛門、西大滝の三郎右衛門という人たちが、問屋の申し出をしました。そのあとも申し込みがあったことと思いますが、最初に申し出があったのはその人たちであります。そういう所が河岸になります。天保12年に作った船はどのぐらいかと言いますと、20石積みの船というように資料には出ています。最初に10艘用意できたから始めると。通船をやるについては認可を受けていますので、その10艘をそれぞれの船問屋へ貸与して始めました。翌年には鵜飼船が2艘できたとあります。このように船をみますと太左衛門の船もそうですが、この千曲川を動いた船というのは大きさとかがきちんと決まっていなく、いろいろな形、大きさの船が運航したのではないかと思います。
河岸場についても、申し出た湊はもちろんそうですが、申し出ていないところも、荷物の必要があれば積荷、積み下ろしをするというようなことで、その時の事情に応じて荷物を運搬したのではないかと思うわけです。
厚連がやりだしてからは、厚連の関係の船と、太左衛門の船、それから松代藩営の船。その3者が競合するというような形で舟運が行われたと思われます。厚連の大規模な舟運でありましたが、嘉永2年に厚連が亡くなってしまいますので、死後せがれの安治郎がそれを引き継ぎ、川田宿の問屋西沢又衛門がそのあとを引き継いでいったようです。松代藩のほうでは藩士の横田甚五右衛門などが中心となって力をつくしたようであります。川普請をするようなことに大分、藩のお金を出しました。これは藩主の後援を得て計画したようですが、国境の辺の難場については上手くいかないで終わってしまったのではないかと思います。
これは年代は分からないのですが、中に書いてある人名から見て厚連が通船認可になったときの、船の極印(ごくいん)です。これは勘定所から渡されるもので、これが通航証になったわけです。
このようにして幕末になり千曲川流域の商品流通が盛んになってきたことを背景にして舟運が発達します。明治に入りまして明治政府のもとそれを受け継ぐような形でおこなわれます。明治7年に千曲川犀川通船会社ができて、本社は西寺尾村に置いて、千曲川関係では上田から西大滝間、犀川の関係では合流点の牛島から信州新町の日名間を、六つの会社をそれぞれ部分的につくりまして、そこで責任者を決めて運航が行われたようであります。
先ほど島崎藤村の川船の『千曲川のスケッチ』の話がありましたが、あの船は明治34年に飯山旅客便船株式会社を、飯山の栗山さんが中心となって作り、豊野町の蟹沢から飯山湊までの間を物と人を運んで上下したわけです。島崎藤村が明治37年に乗った様子が『千曲川のスケッチ』に描写されています。豊野駅から歩いて蟹沢に行って、蟹沢から川船に乗って飯山まで下った様子が詩情豊かに書かれております。
このようにして明治から大正にかけていろいろな水運も引き継がれてきましたが、やがて舟運が衰えてゆきます。
明治から大正にかけての写真がありますので、ごらん下さい。帆を掛けている船で、これは飯山の常盤の辺の写真のようであります。次は明治期の飯山の湊であります。飯山の湊というのは中央橋の辺に湊があったようであります。向こうに見えている山は安田のほうです。湊から安田のほうを見た写真だと思います。これも帆を掛けております。これはやはり飯山湊で、湊から下流のほうを見たものです。向こうの山並みは関田山脈です。これは大正末か昭和に入っているかもしれません。これは小布施の山王島の船橋と帆船ということで、丁度船が帆を掛けてきますと、橋を通過できないわけで、そのときは素早く帆を倒して、本当に神業のようにすばやく帆を倒してその橋の下をくぐりぬけました。これは明治21年にできた船橋で、この写真は明治37、38年ころの写真ではないかということです。向こうのほうにちょっと見えるのが黒姫山です。小布施側から豊野側のほうを見ている写真であります。
これは大正末期といわれているのですが、地元の人が写真を撮られた原版がありまして、大俣付近の千曲川を走っている船です。丁度左岸のところに人がたくさん待っております。人が乗るということは許可されていないわけですが、善光寺の御開帳などの時には乗せたようです。太左衛門の船も寛政11年(1799)御開帳の年に100人以上お客を乗せて来たところ、笠間から硲(はざま)へかかる辺で船が転覆しまして94人の方が亡くなった悲惨なことがありました。普通は荷物が中心で人は乗せないのですが、場合によっては人を乗せるということもあったようです。
これは千曲川改修工事に活躍した帆船ということで、これは水害の後、左側の辺が大分削られてしまったので、そこを修築しているところのようです。
最後に、千曲川舟運の衰退についてみます。千曲川舟運は江戸時代後半18世紀末から明治にかけて約100年にわたって運航されてきました。明治をむかえ、鉄道輸送の進展にともない衰退していきます。その第一は信越本線の開道にありました。信越本線は明治21年直江津・軽井沢間が開通しました。
それから明治26年に、(碓井の「井」を「氷」に訂正してください)碓氷トンネルが開通しまして東京と通じた、ということで明治21年、明治26年、特に26年を中心にして物資輸送もずいぶん変わってくるわけです。それから千曲川の豊野から下流の方ですが飯山鉄道の開通が大正10年、豊野から飯山まで。大正12年には桑名川、西大滝へ開通していきます。ですから明治の終わりから大正にかけて鉄道輸送が中心になっていきますので、舟運というものがだんだん衰えていく一番の大きな要因になっています。
しかし千曲川舟運の名残が後になっても部分的にはずっと後まであります。私も桑名川というところに昭和27年に赴任しましたが、そのころ大雪の年がありまして、飯山線が1カ月以上不通になったことがあります。その時村の人々が食べる物や商店の品物がなくなって日常生活に困ったことがありました。その時、商店のある方が舟を出し飯山まで行って魚類や日用品を仕入れて持ってきて皆さんに分けたことがありました。物がなくなればこんなに困るんだなということを身にしみて思いました。また、大雪によって鉄道輸送が途絶したときの助けが、舟運であったことを経験しました。最後のほうは十分ではありませんが、これで終わりにしたいと思います。
【市川塾長】 貴重なご報告をありがとうございました。ただいまのお話につきまして質問のある方がございましたら受けたいと思います。
はい。どうぞ。
【質問者A】 後の方でご説明がありました千曲川通船という大きな「船」になっておりますが、その使い分けはどうなっているのですか。
【勝山氏】 そうですね、規模といいますか、私もよく分からないんですが、日本海を走る「船」との違いですか。
【質問者A】 海を航海する船はああいう「船」という字を使いますね。川の場合には「舟」を使っているんですが、この場合に千曲川通船というこの「船」を使っておりますが、使い分けは特にそそんなに神経質になることではないんですね。
【勝山氏】 私も詳しいことは分からないんですが、川のほうは小さな舟ですので、海を航海する大型の船とは自ずと違うのではないかと、こんな程度なんですが。(※「通船」という用語ですから、船の大きさには直接関係していない)
【質問者A】 だんだんと舟が大きくなったと理解すればよろしいですね。
【市川塾長】 先ほど申し上げましたが、海船は江戸時代一番大きいのは千石船で、重量は150tと申し上げましたが、千曲川の場合は明治5年に重量トン別に船の数が出ています。それを見ると先ほど申し上げたように、75石、11.25tが最大です。これが千曲川のその後におきましても、これがリミットだと考えております。
他にございませんか。
勝山先生、どうもありがとうございました。ここで5分間休憩をいたしまして、休憩後、尾田先生からご報告をいただくことにしたいと思います。
【市川塾長】 それでは再開したいと思います。
今年の3月「第3回世界水フォーラム」という国際的な会議が京都、大阪、大津で開催されました。今日はその際世界水フォーラムの日本の事務局長をされた尾田先生がおみえでございます。琵琶湖、淀川の水運を中心としたお話をこれから享け賜わりたいと思います。皆様ご承知のとおり日本で内陸水運の一番発展しているのは琵琶湖でございます。大化の改新という革命を成し遂げた天智天皇が、なぜ近江の宮、言いかえれば大津京に首都を移されたかというと、新羅などとの戦いを意識して日本海側に近い戦略的な要地であり、しかも水運の便のある大津に都をつくられたといわれております。古代・中世の琵琶湖、淀川の水運についても、尾田先生からお話をいただきたいと思います。
【尾田氏】 尾田でございます。先ほどは勝山先生から千曲川のお話がございました。本来この千曲塾は流域にお住まいの方たちの研究成果を聞かせていただく場ですので、私がここに上がるのは大変場違いであります。ただ、先ほどの勝山先生のお話と関連した水運や舟運に関して大変貴重な発表が、今年の3月に京都、滋賀、大阪で開かれた「第3回世界水フォーラム」でも大きく取り上げられましたので、それについて手短にご紹介をさせていただきます。皆様のお手許にある印刷物はこの「第3回世界水フォーラム」の名誉会長を務められました皇太子殿下の記念講演でございます。ぜひ後ほどご覧いただきたいと思います。第3回世界水フォーラムでどのように舟運の問題が議論されたかをご説明し、千曲川の舟運の問題を考える一つの参考にしていただければと思います。
そもそも「第3回世界水フォーラム」はどういうものかといいますと、今まで水の問題というのはいろいろな分野の専門家が分かれて別々に議論をしてきました。例えば飲み水の問題は衛生工学、川の問題、洪水や渇水の問題は河川工学、灌漑の問題だと農学、環境の問題ですと生態学といった形で、縦割りで議論されてきましたが、水の利用がこれだけ進んでくると縦割りでは問題解決ができない、いろんな分野の人が一緒になって考えないと本当の意味での解決にはならない、ということがわかってきました。そこで始まったのが「世界水フォーラム」というものです。3年に1回ずつ開かれます。
第1回世界水フォーラムは1997年モロッコのマラケシュで開かれました。今から6年前です。これは普通の国際会議ですが、この場で世界の水ビジョン"World
Water Vision"をつくろうということが決まり、それを第2回世界水フォーラムで発表しようということになりました。
そして世界水ビジョンがまとまって開かれたのが「第2回世界水フォーラム」です。オランダのハーグで開かれ、156カ国から5,700人が参加をする非常に大きな国際会議になったという経過があります。
第1回がアフリカ、第2回がヨーロッパだったので、第3回はアジアでということになって「第3回世界水フォーラム」が日本で開かれることになったわけです。どういう形で開くかということを我々は議論し最終的に水の問題は人類すべてに関わる問題だ、すなわち今地球上に生活している60億の人たちすべての思い、考え方を集約できるような、そして60億人の知恵で水問題を解決に向かえるようにしたいと考えました。具体的にはまず三つの基本理念をおきました。そしてそれを実現する道具立てとして「ヴァーチャル・フォーラム」と「"水の声"プロジェクト」をつくりました。そしてそれを第3回世界水フォーラムにつなげたいと考えました。
では3つの理念とは何かというと、開かれたフォーラムにしたい、全ての人が参加できるフォーラムにしたいということが一つ。それから参加者が単にフォーラムに参加するだけではなく、参加者自ら作ってもらうフォーラムにしたいというのが一つ。3つめは議論のための議論ではなくて、今困っている水問題の解決に向けての議論ができ、そこから具体的な行動が生まれてくるというフォーラムにしたいと考えました。次に理念を実現する手段として「ヴァーチャル・フォーラム」と「"水の声"プロジェクト」の2つを準備しました。「ヴァーチャル・フォーラム」というのはインターネット上で議論を3年間続けようという試みで、最終的に166の会議室が儲けられ、6,000人近い人たちが議論に参加しました。
一方、「"水の声"プロジェクト」というのは、世界中のいろんなところで水で困っている、あるいは水問題を考えている人たちの水に対する考え方をデータベース化するもので、最終的に世界全体から27,000の"水の声"が集められました。今、全部データベースに入っています。私どものwebにアクセスをしてもらいますと、こういう"水の声"やどういう議論が行われたかという内容すべてご覧いただけるようになっています。
それではフォーラムそのものはどういう形で成り立っているのかといいますと、フォーラムそのもの、閣僚級の国際会議、そして「水のえん」―水のフェスティバルという3本建てで構成されます。
「水のえん」というのは、琵琶湖、淀川流域において草の根レベルで水問題に取り組もうというもので、京都では「文化と芸術」、大阪では「都市産業技術」、滋賀では「いのち・自然・環境」というテーマをそれぞれ建てました。そして流域全体でのさまざまな取り組みを1つに結ぶ役割を舟運に期待をする、というところで今日のテーマに非常に深くかかわってくるわけです。
数字でざっとご覧いただきますと、フォーラムの参加者は24,000人を超えました。これは実際に登録した方の数です。延べ人数ではなく、本当に24,000人の方に参加いただきました。私ども、当初8,000人ぐらいと見込んでいましたが、その3倍に達しました。海外からの参加者も6,000人を超え、参加国数が182カ国および地域ということになっています。
開催された分科会の数も351になりました。閣僚級国際会議への参加も170カ国及び地域に達し、国連等の国際機関も43を数えました。また参加された現職閣僚が100名を超え、地球温暖化をめぐる京都会議の規模をはるかに凌ぐ規模になりました。さらに昨年ヨハネスブルグでの地球環境サミットの参加者は2万人にいっていないので史上初の大規模な国際会議になりました。
「水のえん」については21万人の来場者を得ることができ水問題の重要さを社会の人に知っていただく良い機会になったのではないかと思っております。
フォーラムの経過をざっと御説明いたします。第1回が開かれたモロッコも第2回のオランダもどちらも王国です。日本は天皇制ということで、開会式には皇太子殿下が3人揃われる非常に華やかな開会式になりました。また、本来フランスのシラク大統領の参加も決定しておりましたが、残念ながらイラクのあのような状態になり、来日できずにビデオでメッセージをご覧いただくというということになりました。皇太子殿下からは「京都と地方を結ぶ水の道」というテーマでのご講演をいただきました。中世・古代において、京都という内陸都市がどうして世界に結ばれた都市として機能しえたか、それはまさに舟運にある」という内容です。是非ご一読いただければありがたいと思います。
この期間中大変残念なことに、3月20日にイラク戦争が勃発しました。本当に偶然ですがちょうどこの日に「中近東と地中海の日」というテーマで議論されましたし、また「水と平和」というテーマでも議論が盛り上がりました。大変皮肉なことに"Water
for Peace"平和に向けての水というテーマで議論されている日に戦争が起こったわけです。多くのジャーナリストから「こういう状態で国際会議を続けていていいのか」という意見もいただきました。ところが世界から参加された皆さんが「イラクの戦争も大変大事かもわからないが、我々が今行動に結びつけようと議論している水の問題は、ある意味ではイラクの問題よりもっと大事なんだ。8秒に1人子供の命が失われている。それも安全な水が飲めないことからくる病気で命が奪われている。こういう現状をいかに解決するかということは、イラクの問題よりずっと大事だ。最後まで我々の議論を続けよう」。こういう声が続々と寄せられました。私どもとしては大変勇気づけられたわけであります。
また、この期間中、水道の民営化反対を叫ぶグループが議場を占拠する事態が起こりました。幸い暴力的な行動には繋がらずに解決できたことは大変ありがたいことでした。
3月22日は「国連水の日」です。日本では7月7日の「川の日」の方がより知られていますし、「水の月間」は確か8月だったと思います。日本人にとっては水の問題は夏ですから、7月8月なんですが、どうしてか国連では水の日は3月22日です。この時に世界水アセスメント計画というのが発表されます。国連機関にはユネスコとかユニセフとかいろんな機関があるわけですが、水に関するものだけ集めると23あって、水の問題を解決しています。この23の機関が一緒になって水の問題を取り扱ったのは第3回世界水フォーラムが始めてです。そういう意味では、国連にとっても画期的な試みになりました。
閣僚級国際会議は22日23日と議論が続きました。最終的な閣僚宣言が取りまとめられ、エビアンで開かれたサミットでも続いて提案されたということで、今後大きな展開をしていく端緒になりました。
閉会式では皇太子殿下と妃殿下に再びお揃いでおいでいただきました。この席上水の問題解決に向けていろんな取り組みをしてきた世界のNGOの中から、グランプリに今後の活動資金として5万ドルを提供いたしました。
この8日間、実に幅広い議論がされました。「水と平和」、「水と貧困」、あるいは「水と気候変動」、「水と都市」等々の問題について非常に幅広い議論がなされましたが、大きなテーマとして「水と交通」あります。
皇太子殿下とオランダの皇太子殿下もこの問題は非常に大事だということでご出席されたわけですが、地球の環境問題を考えるときに物流に際して水運はほとんどエネルギーがかかりません。上流に行く場合はいくらかかかりますがエネルギー効率が非常にいい。CO2の削減にもつながります。ヨーロッパではいまだに運河を掘って新たに水運を確保しようという動きも出ています。このあたりは日本とは全く違うわけですが、非常に幅広い視点から議論が展開されました。
象徴的な写真をお見せしたいと思います。ごらんになった方もあると思いますがゴッホのはね橋の絵です。このようなはね橋が今も見ることができるのは驚きです。
橋がはね上がると両側にずっとトラックが並びますが、その下を通っているのはプレージャーボートです。遊ぶための舟が通っているわけです。もし日本でこんな事をすれば大問題になるし、皆様方も多分反対されるのではないかと思います。要するに水路が先にあって後から陸上交通がきた。だから当然前の水上交通の利便性を確保する、ということをやっているわけです。先ほどの勝山先生のお話にもありましたが鉄道が入り道路が入ってくると日本の舟運は廃れてしまいます。全く見捨てられました。それは日本人の基本的なものの考え方によっているんだと思います。一方世界では全く別なものの共存を模索する、ということを考えている人たちもいるということです。
フォーラムの結びとして、どういう成果が出たかということですが、いろんなレベルでの報告書がでました。ですが、一番大事なことはこういう報告書ではなしにフォーラムに参加した24,000人、特に発展途上国から参加した人たちが国に帰って水問題の解決策をどう考えていくかということです。我々日本人にとっては舟運、水運をどう考えるのかということをもう一度見直す良い機会になればと思っております。
第3回世界水フォーラムにご協力をいただいた方もこの中にも多いかと思います。御礼を申し上げるとともにこれから非常に大事な水の問題、川の問題について共々に考えていただければありがたいと思います。ご静聴ありがとうございました。
【市川塾長】 ただいま尾田先生から世界水フォーラムについてのご報告を頂戴いたしました。せっかくでございますから何かご意見なり質問がございましたら、お受けしたいと思います。
【尾田氏】 せっかくの機会ですから、ご意見でも何でも結構です。特に第3回世界水フォーラムではダムの問題が大きな議論になりました。長野では「脱ダム宣言」が出されているわけでして、田中知事にもおいでいただいて議論ができればよかったな思っています。ダムの問題についてはいろんな視点から議論が行われました。そういうことでも結構です。ご質問等あればどうぞ。
【市川塾長】 せっかくでございますから、ご意見などもあったらお出しいただきたいと思います。
【質問者B】 長野市の桐原と申します。雨水をためて飲用にするとか、庭に撒いて生活の潤いにと、そんな試みが長野市におきましてそういう雨水の貯留槽を設置する場合に規模により上限がありますが補助金が出るということで、督励をしていますが、世界的に見た場合にそういう試みは何カ国ぐらいでどんな地域で行われているか、実際の具体例等がありましたら、お教え願いたいと思います。
【尾田氏】 どうもありがとうございます。雨水利用は第3回世界水フォーラムでも大事な論点でした。世界中のいろんなところで"rain
for harvesting"と呼ばれる雨水利用の議論が展開されています。特に雨の降らない乾燥地域においては深刻な問題です。日本ではいろんな形で雨水利用が進んでいるので、世界的にも雨水利用を進めようと日本側から強くわけですが、海外からの反応としては、雨水利用はいいことだけれども渇水のときはどうするのか、ずうっと雨が降らない渇水状態では溜め込んでいた雨水なんてとっくに底をついているのではないかというものです。雨水利用の限界ですね。雨水利用は川からとる水の量を減らして川の水環境をより良いものにすることはできる。だけど渇水時の対策として雨水利用がどれだけの効果を持つのかはそれぞれの実情をよく照らして考える必要がある、全て雨水利用にたよることになってしまうと、かえって困った問題が出てくるのではないか、などという議論も展開されました。雨水利用を勧めることに関しては誰も反対する人はいないのですが、その効用の限界についてはいろんな議論があったということです。
その辺の詳しいことは私どものwebサイト上に351の分科会での議論をすべて掲載をしていますので、ご覧いただければと思います。第3回世界水フォーラムというキーワードを入れますと、私どものwebサイトを簡単に見つけることができますので、どうぞ一度お試しください。ありがとうございました。
【市川塾長】 他にご意見ございませんか。あるいはご質問なりありましたらお出しいただきたいと思います。
【尾田氏】 ひとつだけ質問よろしいですか。この中で第3回世界水フォーラムに参加した方がいたら手をあげていただけるとありがたいのですが。残念ながら誰もおいでいただけなかったですか。私どものPRが事前に十分行き届かなかったことを反省したいと思います。ありがとうございました。
【市川塾長】 どうもありがとうございました。これで本日のフォーラムを終わりたいと思います。
【司会】 お二人の先生には大変ためになる話題を提供していただきましてありがとうございます。ここで勝山先生、尾田先生にもう一度大きな拍手をお願い致します。ありがとうございました。
これで第9回千曲塾を終わりますが、次回の予定ですが、昨年の10月に上流の方へ視察に行っております。今度は下流の方へ千曲塾として視察したいと考えております。前回と同様にバス1台で行くことになるかと思いますが、またハガキでお知らせ致しますが10月頃に考えております。定員がございますので抽選などで決めさせていただくことになるかと思いますが、よろしくお願い致します。
それではこれで千曲塾を終了致します。ありがとうございました。 |