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第27回千曲塾 

テーマ:「地図から見える治水と歴史」〜全国に先駆けて千曲川で治水地形分類図を更新〜
開催日時:平成22年3月10日(水) 13時30分〜16時30分
開催場所:長野市生涯学習センター 4階「大学習室1」

 



(司会) 
 それでは、千曲塾の開会に当たりまして、千曲川河川事務所長の安達よりご挨拶を申し上げます。

(安達氏)
 千曲川河川事務所、所長の安達でございます。
 本日は本当にお寒い中、また、足元の悪い中、非常にたくさんの方に集まっていただき、本当にありがとうございます。
 また、こういう形で千曲塾を継続できる、これについては本当にわれわれも嬉しく思ってございます。千曲塾も現在、第27回ということとで、第1回から数えまして、聴講された方々も3000人に届くかと、そういうところまで来てございます。
 一方、やはり公共事業に対しては、非常に厳しいものがありますが、こういう場をお借りして、情報発信、われわれが何をしているのかというのを、多くの方に知っていただきたい。そう強く感じてございます。そういう意味で、本日は、昭和50年代に治水対策を進めるための基礎資料として用いました「治水地形分類図」、これを、千曲川でまず全国的に一番に更新しようということで、動きがあったと。それについて今回集まっていただくパネラーの方々から貴重な取り組みの足跡、そういうものをお示ししていただくとともに、そういう血と汗が滲むものをわれわれが今後どうやって使っていけばいいか、そういうことを皆さんと一緒に議論できればなと考えておる次第でございます。
 最後になりますが、うちの事務所といたしましても、千曲塾の場において寄せられました皆さまからの貴重なご意見を踏まえながら、やはりわれわれとしても安全・安心の確保に向けて頑張っていきたいという気持ち、事務所一同思ってございます。また、今後とも千曲川が人々に親しまれ、活力ある地域づくりにつながるような、そんな整備を頑張っていきたいと思ってございます。
 最後になりますが、今後ともご支援・ご協力を賜りますようお願いし、第27回千曲塾の挨拶とさせていただきます。本日はよろしくお願いします。

(司会)
 ありがとうございました。続きまして、当千曲塾の塾長であられます市川塾長様からご挨拶をいただきます。お願いいたします。

(市川塾長)
 今日は最新の地形測量をした地図をテキストにして色々なお話をしていただけるかと思いますが、日本は、地形図の面でも世界的にみても先進国です。学校では、5万分の1・2万5千分の1の地形図を見て、地図を読むことがなされておりました。特に長野県の場合は、上田を中心にして条里制遺構水田が広く分布しておりますが、上田市では『上田市史』別巻の2号におきまして、この地籍を中心にいたしました上田市の土地割りの状況を示した地図帳が発行されております。これは信毎に出たときに、私は書評を頼まれてやったことがございますが、日本でも一流の地籍図だと思います。
 地図というのは、一間一分、6百分の1です。これだけの大縮尺の地図が明治の初めに作られたということは、いかに日本の地図学が世界的なレベルにあったかお分かりいただけると思います。
 地籍図の発行から1世紀以上を経たこんにち、地籍図土地割りと土地利用を示す資料として利用されていたことを示しています。
 私も大変興味持って参加しています。


(司会)
 塾長どうもありがとうございました。それでは、千曲塾を進めてまいりたいと思います。
 本日のテーマは、右側の壁に掲示をしておりますが、「地図から見える治水と歴史」というテーマでございます。サブタイトルで、「全国に先駈けて千曲川で治水地形分類図を更新」というふうに書いておりますが、全国で初めて千曲川で更新をいたしました。
 これからワークショップの中で、地形分類図とは何かというところから、順番に入っていきたいと思います。
 それでは、本日のワークショップのパネリストと、コーディネーターの皆さまをご紹介したいと思います。
 パネリストの皆さまは、私のほうで紹介をさせていただきますので、紹介をさせていただいた順に登壇いただきたいと思います。よろしくお願いしたいと思います。
 まずお1人目、千曲塾塾長 市川健夫様。市川様は、元長野県立歴史館館長、東京学芸大学名誉教授、信州全般にわたる歴史あるいは文化・自然・風土の第一人者でございます。
 続きまして、温泉資料館館長であります滝澤公男様。先生は、元長野県立歴史館資料調査員でございまして、千曲川・犀川治水史研究会のメンバーとして、ご活躍をされておりまして、川の流れと地名の関係などをまとめていただいております。
 続きまして、国土交通省国土地理院地理調査部長でございます福島芳和様。福島におかれましては、国土地理院でご活躍をいただいておるわけですが、地理院はご承知のとおり、日本全国の地図を作っている国の機関でございます。今回の図の更新に当たりまして、大変なご尽力をいただきました。ご紹介いたします。
 続きまして、須坂市まちづくり推進部長の樽井一郎様でございます。樽井様は、平成16年・18年の水害時に、当時建設課の職員として昼夜を問わず災害対応に当たられました。平成21年4月から現在の部長職を務めておられます。
 最後に、治水地形分類図利活用研究会委員であります熊谷清様でございます。熊谷様は、元国土地理院参事官でございまして、今回の治水地形分類図更新の、まさに立役者でございます。地図の見やすさ、あるいは使いやすさを考えられまして、利活用研究会の先鞭をつけられました。本当にご尽力いただきました。
 最後になりますが、コーディネーターは千曲川河川事務所長の安達が務めさせていただきます。どうぞよろしくお願いしたいと思います。
 以上の皆さまで、こののちパネルディスカッションを進めてまいります。こののちの進行は、コーディネーターの安達所長にお願いいたします。よろしくお願いいたします。

(安達氏)
 本日、先ほど副所長のほうからございましたとおり、第27回千曲塾「地図から見える治水と歴史」ということでさせていただくことにしてございます。また、ホームページの中では、こういう形で一枚物を作らせていただいているところでございます。
 果たして、治水地形分類図、なかなか耳慣れない言葉だと思います。じゃあそれは一体何者なんでしょう? という話と、では、それが更新されてどういうところに役立つんでしょう? そういう話の観点から、このパネルディスカッション進めていければと考えております。
 それではまず、治水地形分類図、これは何かということで、国土地理院の福島部長さんのほうから、ご発表いただければと思ってございます。よろしくお願いします。

(福島氏)
 ご紹介にあずかりました国土地理院地理調査部長の福島と申します。本日はこのような、千曲塾という歴史と伝統と知識の世界の中に呼んでいただきまして大変感謝申し上げます。
 最初に、「治水地形分類図」という、非常に長い名前で、記憶しにくい名前でございますけれども、これがどういうものなのかということから説明させていただきたいと思います。
 まず、皆さま方よくご存知だと思いますが、地形と水害というものには、非常に密接な関係があります。なぜかと申しますと、言うまでもないことでございますけれども、低地の地形は河川による浸食、あるいは土砂の運搬堆積作用という、そういうものによってできている。他にも火山活動や、活断層とか、色んな地形を形成する要因がございますけれども、そういうのを除きますと、基本的には水の地形に対する作用というものでできあがっているということでございます。したがって、地形を見ると、水や河川がどのように土地に対して作用を及ぼして来たのかということを見て取ることができますし、さらにもう一歩進めて、その土地の地形の成り立ちを注意深く見ていくと、その土地の地質など、表面が泥のような状況なのか、砂地なのか、そういう土地の地盤などもろもろのことも分かってくるという、地形を見るということには、2つの内容がございます。
【@−2参照】
 治水地形分類図には、2つの大きな流れがございます。こういう地形と水害に関して地図を作るということには、2つの流れがあり、このスライドのポツの2つ目の地図と3つ目の地図がそれです。1つめの流れの地図ですけれども、これは水害、洪水そのものに関する地図です。昭和34年の伊勢湾台風の経験によりますと、土地の性状やその変化の過程、土地の高さというものが分かれば、洪水や高潮のときに危険度の高い場所が分かります。きれいに定量的に分かるかというとそうではなくて、ある程度分かりますよというところで定性的なものでございます。
 2つ目の地図が治水地形分類図の流れでございます。河川の想定氾濫区域内の土地利用が高度化して、堤防や河川の構造物の重要性が増大してきたところ、昭和50年代の初めに、岐阜県安八町での長良川破堤で大きな被害が生じ、それをきっかけに堤防の安全性の再確認が必要とされ、治水地形分類図の整備が昭和51年から53年にかけて、3年間という非常に短期間の間に整備されました。これが治水地形分類図でございます。
 今日のワークショップは、これを更新していくという流れの中で行われているものでございます。
【@−3参照】
 まず地形と水害、洪水に関するものです。国土地理院では土地条件調査というものを随分昔から、50年近くかけて行っています。
 1947年のカスリーン台風で関東平野で大規模な水害が起きました。そのときの被害の状況を調べて、旧河道(きゅうかどう)とか後背湿地(こうはいしっち)とか自然堤防という地形が、洪水時の水の高さ、水深にかなり密接に関係しているということがわかりました。
 そして、1956年(昭和31年)には、濃尾平野で水害地形分類図というものが作られました。その地形分類の結果と、あとで説明申し上げますが、1959年の伊勢湾台風での浸水範囲が非常に似ていたということから、そのあと水害予防土地条件調査と、名前が途中で変わるんですけれども、最終的に「土地条件調査」という名前で本格的にスタートしました。
【@−4参照】
 左側の地図は濃尾平野の水害地形分類図、いわゆる土地条件調査と同じ流れの地図で、伊勢湾台風の前に作成したものです。木曽の3河川のところでの地形の分布です。右側の地図は、伊勢湾台風のときの洪水の被害の状況を示した地図で、洪水後の湛水期間を示したものです。
 この水害地形分類図を見ていただくと、川沿いに自然堤防があり、川によって形成された微高地は黄色い色で書かれてございます。この黄色い色の間に、ちょっと薄い青色が見えると思いますけれども、これが三角州でありまして、特に異常な湛水時に冠水するような地区ということです。もっと南のほうに行きますと、もう少し低い三角州があり、洪水時に最もよく湛水する薄い緑色です。最も色の濃い部分が新田ということになります。この順番、自然堤防・新田・三角州という順に洪水の湛水期間が長くなります。この地図は被害後に、国土地理院の前身の地理調査所というのですけれども、地理調査所が作成した。水害地形分類図と洪水被害状況図とが、大体一致しているということから、前のスライドにあったように新聞記事として「地図は悪夢を知っていた」というものが載りました。これが土地条件図の作成を始めた大きなきっかけでございます。
【@−5参照】
 今の整備状況ですけれども、非常に時間のかかる調査でございまして、50年間かけてこの黄色い部分が整備されてきました。対象としているのは、日本の低平地でございますので、広範囲にできていないということがございますけれども、この千曲川周辺で言えば、信濃川の河口の辺りを中心に整備されているというところでございます。
【@−6・4参照】
 こちらは治水地形分類図の流れのきっかけでございます。昭和51年の台風17号の長良川の破堤でございます。破堤の場所を南から見ています。写真の中央を東海道新幹線が左右に走っていて、右側を長良川が奥から手前に流れています。写真の外ですが右には新幹線の岐阜羽島という駅があります。
【@−7参照】
 この長良川の破堤のときに、地形を調べてどういうことが分かったかというと、左の写真のここが破堤の場所です。右側の地図が土地条件図ですが、ここが破堤点でございますけれども、破堤点のすぐ左が、実は「落堀(おっぽり)」と呼ばれる地形ではないかということが言われたわけでございます。
 落堀というのは、堤防が壊れると、堤防から堤内地に水がいっぱい入って来ますけれども、その堤内地に水が入って来ると土地が掘られて低くなります。そういう掘られた地形でございます。正しいかどうか分かりませんが、地図では薄い青い色がございますけれども、小さな池か水溜まりのような水面が見られます。そういう落堀と呼ばれる地形は、過去にも同じ場所で決壊したことを示していて、今回決壊した原因の1つかもしれないということでございます。この落堀という地形は、土地条件図には書いていなかった。そこで、治水用の地形分類図が新たに必要になったと、そういうきっかけでございます。
【@−8参照】
 先ほどの長良川の決壊は昭和51年(1976年)9月でございますけれども、すぐに治水地形分類図を整備すべきだということで、その年のうちに治水地形分類図というものの凡例も決めて整備がスタートしました。76年から78年まで3年間かけて現行図ができています。
 整備目的は、当時の資料を調べてみますと、河川堤防の立地する地盤条件の把握、それから堤防の詳細な地点調査を行うための基礎資料ということでございます。
 地形分類の考え方としては、低地以外は土地条件図よりも大幅に簡略化し、洪水の関連の深い微地形を図示する。また、堆積物の性質が推定できるような地形区分をします。こういう3つの基本方針が決められて、実施は河川事業費を使って、国土地理院が土地条件図という技術を持っていましたので、地理院が作りました。
【@−9参照】
 治水地形分類図は、全国104水系。縮尺25,000分の1で、全国の一級河川について作成されています。この治水地形分類図は、現在インターネットで誰でも閲覧することができます。ここに書いてございますので、自宅にパソコン等を、お持ちの方は見ていただければいいかと思います。全国で854枚作成されています。
【@−10参照】
 地図の一部分の紹介ですけれども、低地について詳しく、自然堤防、川が谷間から平地に出てきたところで土砂によってできあがった扇状地、それから昔の河道、旧湿地、落堀という、そういう水害と関係の深い地形を抽出しています。この水色が旧河道ということになります。
【@−11参照】
 治水地形分類図は基本的には治水のために使うことが第一の目的であるわけですけれども、同時に、先ほども言いました水害のときに地表がどのくらいの高さなのかを知るためにも使うことができまして、これは三条地区で平成16年の五十嵐川の破堤によるものです。川が地図の外ですが左上に流れていて、破堤によって浸水した水が左上から右下に流れて来ていて、この青で囲まれた範囲が浸水しました。この黄色い地域が自然堤防でございますけれども、自然堤防というのは川の氾濫によってできあがったちょっと高い地形でございます。そういうところは浸水しにくいという傾向が読み取れます。全ての自然堤防が浸水しないかというと、場所によっては浸水することもあります。
 氾濫平野は浸水しやすく湛水時間も長いということになります。こういう平地は水田に使われる場合が多く、自然堤防のところは畑であったり居住地になっているという、そういう大まかな土地利用の傾向がございます。
【@−12参照】
 治水地形分類図と堤防の被災との関係でございます。
 左の地図は、47年のカスリーン台風で利根川が決壊した場所と、治水地形分類図でございます。過去、流れていた河道があり、利根川の堤防の北を、南にある破堤口に向かって流れています。この旧河道が多分利根川を越えて南側に来てると思うんですけれども、利根川の南の堤防で破堤したということで、旧河道上に破堤する傾向が一般的に大きくて、必ずというわけではございませんけれども、破堤しやすい傾向があるということで、治水地形分類図が堤防の管理に役に立つということです。
 右側の地図は、場所は出雲市のそばです、この図の右上が出雲市です。ここを流れる斐伊川という川がありまして、川の下流を右にずっと行きますと、宍道湖があるんですけれども、斐伊川の右側の14qの地点で、平成18年7月に堤防の法面が陥没しました。ここをよく見てみると、赤く囲ってございますけれども、ここが古い河道であったということです。
 そういう意味で、こういう旧川道と交差する点は堤防の管理上、気を付けなきゃいけない場所ではないかという事例でございます。

(安達氏)
 どうもありがとうございます。今のご発表で治水地形分類図とはいったい何かということでございますが、こちらの部長さんに用意していただいたパワーポイントのとおり、この作成目的ということで、堤防の立地するところの地盤条件をいかに包括的に把握するかという話でございますとか、あと、低地外は大幅に簡略して洪水と関係の深い微地形を図示したり、さらに堆積物の性質を把握するように努力をされたということを、パワーポイント発表のほうからお伺い知ることができました。また、治水地形分類図につきましては、自然堤防・扇状地・旧河道・旧湿地、そういう水害の関係の深い地形を抽出・区分されているということもいただいたところでございます。
 それでは次のコメンテーターということで、利活用研究会の委員をされています熊谷さんのほうから、全国に先駈けて、千曲でなぜ更新を着手されたかというところについて、教えていただけると思います。よろしくお願いします。

(熊谷氏)
 ご紹介いただきました熊谷でございます。私はこちらの千曲川の事務所にも勤めていたことがございまして、平成3年から6年の6月ぐらいまで勤めておりました。パワーポイント開けていただければと思います。
 そのころやっていたのは、これは千曲川の中流部の松代の辺りですけれども、これは自然の川に見えますけれども、実はわれわれが掘って十数年経つと、こんな自然の川になっているという。ちょうど当時「多自然型川づくり」とかそういった事業もありまして、そんなことをやっていました。またもう1つ開けてください。
 皆さんご存知だと思いますが、こういうものも当時やったりしております。こういった事業をさせていただきまして、やっぱり事業の考えるときの基本というのは、その土地の営みなり、そこで起こる水の働きというのが非常に大事だというようなことを思っておりまして、前々から治水地形分類図の存在は知っておりました。
 たまたま、ちょうど今から3年ぐらい前になるんですけれども、ご紹介いただきましたように、国土地理院のほうで仕事をさせていただくことがありまして、ほんのわずか1年ぐらいのわずかな時間でしたけれども、その間で何をしようかなと考えるときに、そう言えば治水地形分類図が25年前にできているけれども、十分に活用されてないようなこともあるし、もう1つは、後ほどちょっとご紹介しますけど、非常に技術革新があって、航空レーダー測量という、地形を非常に精密に、水平の密度で30pぐらい、高さで15pぐらいの精度で測れる技術が発達して来ました。
 そういうことなので、地球の表面の凹凸を10pぐらいの単位で、平面的に全て測れるというようなモデルが作れることができまして、そのやはり技術を生かした形で地形図をもう一度見直してみたらどうかというようなことが、今思うと、この治水地形分類図を考え直してみようというような、1つのきっかけだったんじゃないかと思います。
 物事には、始まりがあって、飛躍する際、変化する際には、きっかけ・飛躍がいるということで、治水地形分類図も始まりは誰かと言いますと、先ほどの福島部長からお話ありましたけれど、大矢雅彦さんという、やはりこれは国土地理院の大先輩なんですけど、その方が「水害地形分類図」というもので、伊勢湾台風の3年ぐらい前から作っておられました。
 なぜそれをやったかと、これが物事のきっかけの部分ですけれども、それは日本が戦争に負けたからなんですね。日本が戦争に負けまして、資源を開発してみんなが飯を食えるような国土にしなきゃなんないということで、「資源調査会」というのができました。その資源調査会の委員として大矢さんは水害地形分類図を延々と作り続けていたというようなことなんです。
 それで水害地形分類図の最初の第1号と言うかオリジンは、大矢さんが作った水害地形分類図でございます。
 次の飛躍は何だったかと言いますと、それが伊勢湾台風ですね。伊勢湾台風のときに、この地図は「悪夢を知っていた」という新聞記事になっていますけれども、実はこれをもって、当時国土地理院に勤めておられました大矢さんは、大蔵省のほうに説明に行くんです。ここまで水害の水が上がったことが非常によく分かると。この赤い線が大体0m地点のところで、河川と川がちょうどせめぎ合う高さで、そこまで高潮が上がったというような説明を、治水地形分類図の上で大矢さんは伝えていたわけです。非常によく分かるということで、大蔵省のほうは予算をつけてくれました。
 これが第一期の治水地形分類図にならずに、国土地理院では地形分類図という仕事でずっとやっていました。1つのきっかけで、そういった国土的な基本的調査をする技術が発達してきたわけですけれども、長良川の破堤の際に、その良さが理解されたものですから、第一期の治水地形分類図編纂事業が興ったわけです。そのときに800面の地図を3か年で瞬く間に作り上げたわけです。それをわれわれが河川の事業をやる際にも利用させていただいていました。
 25年経ってそろそろ見直したらどうかというときに、私がたまたま地理院に行ったのですから、何となく全てお膳立てがある中に、ひょこっと誰かが出ていったと。誰がいなくてもできたということでもあるし、みんな居なきゃできなかったなというような思いでございます。
 あと、ご参考までにご紹介しておきますが、やはりこういったプロジェクト、これは5年ぐらいで500面ぐらいの再編纂をやろうという大プロジェクトになってます。地図の世界ではですね、大体1面100万円ぐらいはかかりますから、500面やりますと5億円というような大プロジェクトを行うということになるんですけれども、始まりは非常に小さな一滴、水の一滴みたいなものです。それを生かし続けてくださったのが、実はこの千曲川工事事務所ということになります。
 地理院に居たときに、編纂事業をやるということになりますと、実は地理院にあまり予算がないということなので、治水地形分類図ですから、治水のためになる地図だろということで、河川局のほうに相談に行きました。治水の役に立つようなものであれば事業としてできるでしょう。
 これは、人に非常に恵まれまして、関さんという長野県出身、のちに、この北陸地方の河川部長、現在は北海道のほうでお仕事されている方が治水課長でおられまして、話は聞いてくれましたが宿題がありました。つまり、役に立つものであるということを証明しろというのが宿題です。これが1つのハードルになりました。これに関しては現在私も所属させていただいているような感じになってますが、委員会を作って検討して来たということなんですが、委員会の中で議論する資料作りは、地理院の杉原さん以下みんな頑張ってくれましたが、ブツがないと議論になりません。実際に再編纂をしてみようということで、その最初の舞台になったのが、この千曲川です。
 ここで二十数面、新しい再編纂した地図を2年かけて作りました。この地図をベースにして議論をして来ました。次の有効性を説明することもできるし、あと、援軍も1つありました。堤防を質的にも丈夫にしようということで、堤防の全国点検調査というのが起こりまして、これにこの地図が非常に役に立ちました。内容については、また後ほどご説明があると思います。
 そういったことで役に立つという検証もできたということで、千曲川工事事務所で細々と二十数年命をつないでいたこの地図が、全国で500面一気に展開しようということになりました。それを決断してくれたのも本省の河川の調査の治水課の中に河川保全企画室というのがあるんですけれども、そちらの室長さんが事業化の決議をしてくれたということで、本格的に事業が興って来てるのが去年ぐらいからということではないかと思います。
 いずれにしても物事にはオリジンがあって、またそれをつなげていく人がいて、その力の中で何とか今があるということですけれども、いずれが欠けてもできなかったのですけれども、いずれもそのように多分存在していたものが形となった。要するに期は熟していたのではないかということではないかなという事を、私の最後の言葉にさせていただきたいと思います。
 ありがとうございました。

(安達氏)
 どうもありがとうございます。今のお話につきましては、熊谷さんが二十数年前、うちの事務所におられたというご経験もあり、また、治水地形分類図を既に作られていて、見直しのタイミングがちょうど熊谷さんが国土地理院に行かれたころあって、役に立つ物をというハードルを越えて作られたというようなところを紹介いただいたところでございます。
 それでは、これはじゃあどういうような形で更新していったのか、リニューアルしていったのかというのを、再度国土地理院の福島部長さんのほうから教えていただければと思います。よろしくお願いします。

(福島氏)
 全国に先駈けまして、千曲川で治水地形分類図を更新しました。その更新に当たりまして、随分色んな考え方がありました。先ほど熊谷様からご紹介のありました治水地形分類図の利活用研究会の中で、本省の河川の方、それから国総研の方、それから土木研究所の地質の方、河川管理のプロの方、その他、もちろん千曲川事務所も相当力を入れてやっていただきました。
【@−15参照】
 現行図の課題のところ、先ほど熊谷様がおっしゃいました。ちょっと飛ばしていいと思います。
 全国の治水地形分類図の更新に当たり、どういう項目を描くのか、地形をどういうふうに分類するのか、その分類の考え方、それから更新する個々の場面での技術的な地図作成の方法について検討するということでございます。千曲川・犀川で先行的に作ってみて、それを堤防管理の実際の場面において試験的に使ってみて、地図への記載項目を再検討すると。いわゆる製造から使用まで、またスタートに戻るという、そういうサイクルを1つしっかりやってみました。
 平成20年度、昨年度になりますけれども、中上流域の千曲川で試行し地形分類項目を決めました。今年度は信濃川・阿賀野川で試作し下流域の地形分類項目を決めていくという手順で行っております。
【A参照】
 これが、皆さんのお手元に「資料A」と番号がついていると思いますけれども、これが治水地形分類図の凡例でございます。
 この薄い水色の部分が、この資料Aの凡例の中にありますけれども、「氾濫平野」でございます。河川の氾濫によって形成されて、主に水田に利用されていて、洪水被害を比較的受けやすく、建物を立地する場合には注意が必要だというような地域でございます。
 青い色で「旧河道」とございますけれども、昔、川がここを通っていて、今は普通に歩いて見ても分からないけれども、ここは昔は川だったんですよという地形でございます。昔は川があって、今は川じゃないということですが、相対的に地盤が低いと。もちろん盛り土してあれば別ですけれども、相対的に地盤が低い。それから、水田に利用されて洪水の被害は比較的受けやすく、地盤も軟弱であるという、そういう地形。
 次に「微高地」、黄色い色でございますけれども、これは洪水によって形成される少し高い土地です。氾濫平野に比べて相対的に地盤が高く、洪水の被害は比較的受けにくいため、集落や畑に利用されていて、水はけも相対的に良いということでございます。
 「後背湿地」でございます。このピンクの部分は山でございますので、山の部分と、河川によって形成されました微高地、自然堤防。この両方の高い部分の間には後背湿地というものができることがあります。両方の高いところに挟まれた低い地形でございますので、水が溜まりやすく、極めて軟弱な地盤でもあります。湛水侵や湛水時間も長いという、非常に被害を受けやすいところでございます。
 こういうのが主な地形分類の事例でございますけれども、主に堤防管理や水害という観点から地図を試作して、凡例を決めたということでございます。
 資料Aの最初のページをめくっていただくと、凡例の図式項目がいっぱい並んでいるものがあると思います。次のところはこのサンプルでございます。1つ手前に書いてある、置かせていただいたA4の縦長のページでございます。ここのページを見ていただきますと、地形分類の考え方をどう整理したかがわかるかと思います。治水地形分類図の新しい地図、更新図の方の凡例は、一番左に大分類、その右側に中分類・小分類、さらに細かな分類というように、階層化してございます。
 大きな分類では山地。台地・段丘というのは、山ほどではないけれども丘陵地帯、段丘は川によって形成されたんだけれども、昔、川が高いところを流れていた時代に形成された地形を、段丘と言います。
 その他、人工改変、その他の地形等、河川管理の情報は、またあとで説明をいたします。
 この治水地形分類図は、低地に焦点を当ててございますので、低地の分類が非常に細かいということです。低地の中もいくつかに分かれていて、山麓の堆積地形は、山から雨によって土砂が崩れて来たりして、山麓に石が堆積しているという地域です。
 扇状地と言いますのは、谷間から川によって土石流や小石が運ばれて来た扇形になっているようなところです。
 砂州・砂丘はいわゆる砂でできていて、新潟では海岸沿いに波や風でできている砂丘があります。
【@−17参照】
 作り方でございます。先ほど、航空レーザーで高さを調べるという話が出ましたけれども、航空機からレーザーを発射いたしまして、そのレーザー光線が地上に行って、地上で反射して戻って来て、飛行機に来ます。その時間差を計って地表の高さを測りますということに関する説明があったと思いますけれども、治水地形分類図で地形を分類するためには、まずベーシックによく使われるのは空中写真を使って地形を判読することです。同じ地表の場所を違う方向から見た写真を2枚使うと、地表が立体的に見えるということがございます。そういう原理を使いまして、ここの地域は高いなとか、この地形は低いなとか、ちょっと低くて全体が黒っぽく写真に映っているので、ここの土地は湿めっていて、旧河道じゃないかとか、そういうような知識を用いまして地形を判読する。空中写真を使いますので、相対的に早く広い範囲を面的にカバーできるという特徴がございます。空中写真だけでは全部分けられるわけではございません。地表が樹木に覆われているとか、色んな現況がございます。したがって現地に行って調べて来るということが必要になります。
 それから旧流路と旧堤防は、古い地図から持って来ます、あとで説明いたします。河川管理施設、これは国土地理院に資料がございませんので、千曲川工事事務所からしっかりしたデータをいただいて使っております。
【@−18参照】
 まず空中写真です。空中写真は、皆さんご存知かもしれませんが、大きさ24p×24pぐらいの四角い写真でございます。空中写真を撮るカメラというのは、皆さんのお手持ちの小さいカメラではなくて、重さ70sとか90sもするような重いカメラで、大きさで言えば縦横高さが60cmから70cmくらいの大きさのものでございます。下にレンズが付いていて、航空機の床に穴を空けまして、その穴から写真を撮るという、そんな機械でございます。ちなみに日本製はありません。ドイツ製・スイス製・アメリカ製、そんなところです。
 その空中写真を使って、この辺りはこういう地形ではないかということを判読して概略調べた上で、右側にありますように、現地へ行って露頭を調べます。ここの土地は砂地なのか、あるいは堆積物の泥みたいなものが多いのか、そういう空中写真でははっきりしないものを調べて来るわけであります。ボーリングも国、あるいは自治体で行われておりますので、そういう資料も収集するということもございます。
【@−19参照】
 日本が独立したという話が先ほど出ましたけれども、1940年代に米軍写真というのがあります。かなりの方がご存知かと思いますが、米軍が日本を攻撃する前後に撮った写真と、占領後に撮った写真と、何種類もございます。特に戦前のもの、あるいは戦中のものは、日本にそういう写真が残っておらず、アメリカの公文書館にそういう写真が残っていて、そういうものを取り寄せたりということもございます。1940年代の米軍写真を使えば、戦後の日本が地形を改変し、団地を作り、道路を作りという地形改変をやって復興したのでございますけれども、そういう地形を改変する前の状況が分かるということで、1940年代の写真というのは非常に有効でございます。日本全国あるわけでもなく、米軍として重要だと考えたところを中心に撮られた写真でございます。
 それから2番目が1960年代の写真。このころになりますとカメラの品質も随分良くなって、米軍のときに撮られた何か寝ぼけたような写真とは違って、かなりきれいな写真が撮れるようになってきました。
 なぜ1960年代の前がないのかと言いますと、その前は、日本の国なり民間なりが航空機を日本の上空に飛ばすことができなかった。いわゆる米軍が空域を全部占領してた時代がございました。それが昭和35年ぐらいまで続いたんだと思うんですけれども、解禁になって1960年代に日本が自ら写真を撮ることができ、日本が自らのために地図をつくれるようになった、そのため写真を撮ったという時代でございます。
 それから、ごく最近の2000年代ということで、さらにカメラの性能が向上して最新のきれいな写真を使います。
 この3つを組み合わせて、それぞれの過去の土地の状況と、現況と見ながら地形を判読していくという作業になります。
【@−20参照】
 左上は写真の判読の風景でございます。実体鏡という機械がございまして、こういうもので写真を判読します。右側にありますのは「予察図」といいまして、現地に行く前に、大体こんな地形じゃないかということを書いた地図でございます。左下の現地調査を行って、最終的に右下にあります編集原稿図を作ります。
【@−21参照】
 「旧版地形図」と国土地理院では呼んでいるんですけれども、この千曲川での治水地形分類図の更新では、この4つの時期のものを使いました。
 1つは明治末期から大正初期にかけたもの。2番目が大正末期から昭和初期にかけたもの。昭和20年代・昭和30年代から40年代という、ものでございます。
 国土地理院と今は称しておりますけれども、昭和確か35年だったと思いますけれども、そのときまでは「地理調査所」という名前でございました。当時の建設大臣が、「国土」という名前を付けるべきだということと、「院」というのがいいじゃないかということで「国土地理院」という名前になったわけでございます。
 その前は地理調査所、それは終戦時にGHQからの接収を防ぐために、地理調査所の前身は「陸軍参謀本部陸地測量部」でございますが陸軍の下でございますので、いろいろな情報を持ってるだろうと想像され、地図なり、色んなものを接収するんじゃないかということで、接収を逃れるために地理調査所という研究所的な名前を付けました。
 陸軍時代に明治の末期から大正初期にかけて、日本全国にわたり地図を作ってきました。
 昨年だったかと思いますが、『剣岳点の記』という映画が作られて、観られた方も多いと思いますけれども、日本全国の山に昇り、三角点を作り、当時50,000分の1の地図を作っていったと。地図を作ることによって国土の防衛を果たそうという、そういう主旨で始まったものでございます。
 明治末期から大正にかけて、このころ空中写真みたいな便利なものはございませんので、地表を一生懸命歩きながら、あるいは山の三角点の位置を定めながら作っていった。これが今でも重要な資料として役立っているということでございます。
 左が明治・大正初期がそういう状況。A・B大正末期から昭和初期というと、関東の大震災が起こり、それから景気が非常に悪化し、日本の政治情勢もあまりよくなかったと。そんな時期でございますので、日本国内での地図の更新というのは、あまり行われて来なかった。
 日本人の視点というものが、国内よりも海外のほうに向いていた時期ということでございます。したがって陸軍陸地測量部は当時は海外の地図を一生懸命作っていたということになります。
 したがって、今度は大正末期から昭和初期、そして昭和20年代というとこれは米軍の配下にありますので、そんなに力を持っていない、経済力も弱いということで、A・Bの時代はそんなにいい地図が作れていない。
 昭和30年代後半になってから、やっと日本人の自らの手による地図が復権したと言いましょうか、そんな地図作成の流れになっています。
 したがって、治水地形分類図によく使えるのは、あとで話があるかもしれませんが、@とCの時期の地図を使うことが通常ですということです。
 旧版地形図から旧流路あるいは古い堤防がどこにあったのかということも抽出してございます。
【@−23参照】
 河川管理施設は、管内図と河川基盤地図データを使用して作成します。この辺は私よりも千曲川の事務所の方のほうが非常に詳しいかと思いますので、私はすみませんが、多少省略させていただきます。
【@−24参照】
 治水関連数値データということで、現況の堤防ですとか、河川工作物として水位観測所ですとか、樋門・樋管などを抽出して、それらを最終的にGISという形で重ねていくということになります。
【@−25参照】
 最終的に更新結果と右側に書いてある図が皆さんのお手元に、似たような図があるかと思いますけれども、左側が昭和51年に作成しました現状の治水地形分類図でございます。左と右と比較していただきますと、当時の判読技術に比べて、現在はしっかりした技術を持ってございますので、いわゆる旧河道、水色で横線が入ってございますけれども、そういう部分がしっかり入っていたり、低地の区分も細かくなってございますので、微高地の部分もしっかり使うことができるという、そういう違いがございます。こういう正確な地形分類の地図を作らせていただいたということでございます。
【@−26参照】
 
 一番右に旧河道という写真がございます。旧河道のところは家も建っていなくて、低地になっていて、昔ここは川でしたというところでございます。右下の写真が微高地というところで、河川によって作られたちょっと高い場所というところ、こういうところは家が建っていたりします。周りの低いところから土を持って来て、土盛りしたような微高地もございます。
 その辺の細かい部分の判読は、現実問題難しくて、人が盛り土をしたのか、それとも自然で作られたのかと、細かいところにいくと、判断は難しいところでございます。
 これはもう説明済みですので省略をいたします。


(安達氏) 
 どうもありがとうございます。
 今の福島部長さんのご説明で、治水地形分類図、いったいどういうものなんでしょうかという見方を教えていただきますとともに、それを更新するとき、どういうような形でやったのかということで、写真・現地調査、さらにそれをチェックする1つ1つの地道な作業を積み上げて作られたと。その結果、微高地・旧河道の判読が、その精度が大幅に向上したということをお伝えいただきました。
 今の福島部長、さらには熊谷さんのご説明で、治水地形分類図とはいったい何なんでしょうかという話と、なぜ千曲川で着手したのか、さらにはどうやって作っていったのかというところが明らかとなりましたが、全国で初の更新作業を実施するにあたり、やはり熱い思いがあったということで、熊谷さんのほうから伺ってございます。それでは説明のほうをよろしくお願いいたします。


(熊谷氏) 
 熱い思いを語れということなんですけれども、さっき冒頭に話したので、次は要するに測地的にいろんなことをこれから議論するということなので、この千曲川を題材にして、自分として治水地形分類図なり、こういった地図をどう扱って来たかというのをお話して、それに代えたいと思います。
 なお、ちょっと補足させていただきますと、先ほどの第1のところで、そもそものなぜやったの? という話ですね。
 1つは先ほど言った大矢先生のお弟子さんが実は地理院におられまして、私がよく知っている人だったんです。そういう人もいまして、治水地形分類図第1期作って3か年で作ったけどどうだったの? と言ったら、やっぱり出来の悪い部分もあると。直したほうがいい部分もあるしねという話もありましたし、ちょうどそのころ25年といいますと、技術が絶えるギリギリのときです。ですからやっぱりそういう時期に、こういった事業を興すことは意味があるのかなというのが1点でした。
 もう1つは、じゃあそれをつなげてく意味で、先ほど技術委員会を作ったと言いましたが、そこに千曲川工事事務所の副所長さんに無理にお願いして入ってもらいました。これは先ほど申し上げた、ちょっと命をつなげるちょっとした資金を出していただこうという、私もこの事務所におったものですから、その副所長さんもよく顔を知ってました。所長さんにもお願いをして入っていただいて、そういったことで細々とつながったのが大きな火になっていったということでございます。
 治水地形分類図を更新するに当たっての思いということで、ひと言で言うと、これをやっぱり利用してほしいということなんですね。みんなで使ってもらいたいということです。ですから、それは私なりにはどういうふうに使ったり、どんなふうに見てるかなというのを、ちょっとご紹介をしたいと思います。
 皆さん国土地理院で作ってる25,000分の1の地図というのは、ご存知だろうと思います。こういった地図で大体400円ぐらい、330円だったかな、で売っております。
 本当はこれを皆さんにお配りしたほうが良かったのかなと思いますけど。
 これに何が書き込んであるかと言うと、かなりのことがこの地形図だけでも分かるんです。地形の地表面の形がどうなってるかというのが、地形図に書かれてるわけですけれども、こう言っても分からないですね。
 まずこれが、今ある堤防です。堤防はこんなふうに作られてますよと。堤防がこういうふうに作られてます。この青いのが水面ですけれども、千曲川の中野市立ヶ花というところですけど、ここで狭くなっていて、上はこんなに広い堤防になってるという事が、これで理解できます。
 あと、この地形図でよく分かるのは、堤防の高さも分かるんです。ここに338ですね。338と書いてありますけど、堤防の一番頭の平らなところがありますね。「天端(てんば)」と言いますけれども、その高さが標高で338mですよということを表してます。
 あと地形図には、ちょっとここには出てませんけど、堤防の地盤下の高さが書いてあるものもあります。ここは私が計測しますと、大体330mぐらいが地盤の高さです。ですから、千曲川の下流側の堤防というのは、何と10mの高さがある。日本でも有数の堤防です。利根川の中流部も12〜13mの高さの堤防がありますけれども、千曲川もこの立ヶ花の上流側は10mというものすごい高い、屋根よりも高いような堤防で守っているということなんですね。
 この地形図には、等高線というのがあります。10m間隔で書いてありますけれども、ここではたまたま336mという線を太く書いてあります。これは何だ?ということなんですけれども、実は、江戸時代の今から二百数十年前に「寛保の大水」というのがありましたですね。寛保の大水のときの高さが、昔は尺で計っていて、36尺とか言われています。川の水の高さは、普段の水の高さを0として、それよりもどれだけ上がったか?ですから、36尺普段の水より上がったということですから、10mぐらい嵩(かさ)が上がったということなんです。普通の川は数mです。数mぐらい上がると、もう大水だということなんですけれども、千曲川のこの立ヶ花の辺りは10mも上がっちゃうという、そういう場所なんです。
 その寛保の大水のときの36尺、現在の標高に直すと336.5と言われてますけれども、ちょっと私そこまで、10m間隔の等高線なので、336で代表しています。そうすると336の線というのは、ここにありますね。こういうふうに大水になって堤防いっぱいいっぱいの水になったら、その水よりも下の場所はここだぞと。これが延徳沖という場所です。左岸側はどうかというと、こういう感じ。
 これが寛保の水のときには全部水の下になったということなんですね。今われわれが住んでいるのは、この堤防のおかげで、これは338m。大体堤防作るときには計画の、川の高さに対して余裕高というのを作って、川にも波が起こったりしますから、船縁と同じような考えで、船縁も水の高さと同じには作りませんね。船縁も水面よりも高く作ってます。それと同じで、余裕高というのを作って、堤防は少し高くなってます、船縁よりは。それが1.5mの余裕を確か千曲川では作ってると思いますけど、大体計画の満水になったときよりもちょっと高い、それより守るための堤防が両側に有為されてるいということで、今は大きな水が来ても昔は浸かってしまったところが、今は浸からなくなってるというふうに、この図で見ていただけると思います。
 じゃあ、どうしてこんな形の地形ができいるんだろう?というのが、実は治水地形分類図のミソです。ですから色が、この中で言うと…。大正元年の同じ辺り。これは実は50,000分の1の地図を拡大して同じ図角の場所を出しています。
 これは余談ですけど、50,000分の1の地図というのは、大体大正時代。昭和の始めには日本中全国で整備されます。軍部が整備したわけですね。25,000の地図は、昭和に入って戦後間もなくじゃないんですね、50年代になって全国制覇、4,000面できました。
 その大正元年のころの地図を見ますと、大体様子が分かるんですね。
 ちょっとこれ見にくいんですけど、この縦横の線が、これが水田のマークです。この横に細かい線が引いてあるのが、これが沼ですね。ですからこの辺が低くなってて、周りが田んぼになってるぞと。これもそうですね。
 そういうことで、先ほど言った延徳沖、それからこちらの赤沼・長沼の辺りというのは田んぼで低いところは作られていて、周りに家が高いところにちょっと囲ってある。小布施の辺りは、少し高いんです。
 先ほど336mの線を書きましたけど、小布施の町は何と336より高いとこにあって、寛保の水でも、水は来ないところに中心市街地ができてます。そういうことがこの地図で見てとれます。
 この辺りは水には浸かってない、土地利用も田んぼじゃなくて桑畑とか、そういった町になってますね。ですから、地図を読めて、高さとか考え見てられると、たいがいの地形遷移も分かってきて、どこが水害受けやすいかな、なんてのも理解できるんですけれども、それをもう少し地形判読をして分かりやすく書いてるのが治水地形分類図というふうにいただいてます。
 余談ですけど、大正元年のころの堤防は、こんなぐにゃぐにゃした堤防です。しかも、高さは3m。今は8m〜10m。非常に貧弱な堤防で何とか守っていたということですから、寛保レベルの水が来たら、やられてしまうということは、もうご案内のとおりです。
 あと、小布施の町なんですけど、これ見といてください。これが松川ですけど、松川のところに強固な堤防を築いて、町の中に水が来ないように。要するに南側のほうに川を固定しています。これは佐々成政が現形を作ったというふうにも言われています。千両堤というところです。
 これは、その前の治水地形分類図。扇状地もよく分からないような形、松川が作った扇状地、小布施の市街がある扇状地もよく分からないような画になりますけど、次新しいものを見ていただきますと、扇状地も表れてきている。
 大体見えますよね。水に浸かっている場所が。336mの場所が、よく見えますね。こういうふうに大体が、すーっと見えるようになってきました。非常に上手に地図ができているなというふうに分かります。
 新しい明治時代の近代治水になって、初めて統一的な考えで堤防作りをするということで連続堤で作れるようになったという、1つの時代の現れです。
 これは、先ほどのレーザーデータを使って、少し上から下流側を眺めて、治水地形分類図をその上に乗せてる。これは1対10で高さを誇張してますから、ちょっと誇張された図になってます。
 ここが延徳沖、低いですね。この辺が草間辺りですけど、こっち側が豊野ですけど、ここも低いです。
 色で分けてまして、これは扇状地ですけど、これが小布施の扇状地。それからこっちは中野の市街があって、これは中野の今は夜間瀬はこっちに行ってますけど、昔はこっちに流れ込んでました。こういう形で扇状地ができた。中野の扇状地の上にあって、千曲の水害は受けない形になってます。
 ここは沈降しながら土を落としてる場所なので川は広くなってます。ということになります。
 これを標高別にちょっと色分けしてみました。これが336mの線です。これが大体三百二十数m。沼がありましたね、2つ先ほど。沼も見事に現れてます。この辺が深くてだんだん周りに行くにしたがって浅くなっていて、寛保の水は、この茶色い線まで来ていたというふうに思います。
 これで見ますと、こちら側のほうが、こちら側よりも若干浅いと。仮に水に浸かったとしてもですね。そういうことも見てとれます。
 昔はこれだけの溜まった水を、今はこの900mの川幅の中に押し込んで抑えてると。この穴が狭いんですけど、多くの水を流せるようになったと、水はけも良くなったということになります。
 これが遠洞湖ができてるとき。この辺から見てます。これが千曲川ですね。これは先ほどの狭いところです。こちら側が延徳沖で、向こう側が豊野川ということになります。ここに大沼の集落が見えてます。先ほどの地形図で言うと、336mの線で整備してます、このぐらいのところが浸水するということになります。
 どれぐらい水溜まったんだろう? ということで、計ってみました。これも地形の上に水面を乗せることで計算できます。大体336mの水位がこの辺りまで来てますので、ここまででやめてあります。言いますと、延徳沖が10方キロぐらい。豊野のほうも10方キロぐらい。川の中が6方キロ。それで6,000万立方メートル、3,000万立方メートル、2,500万立法メートルということで、大体1憶トンぐらいの水がここに溜まって、下流に流れていくと。一種のダムになって下流に水を引き出してると。昔は堤防がなかったわけですから、これだけ広がって水位も上がらずに流れていたと。今は堤防があるので、少しの水でも水位が上がって早く水がはけると、こういうことにもなりますし、堤防で守られている土地は利用ができているということでございます。
 ということで、うんと基本的な地形図だけでも色んなことを判読できますけど、さまざまな知見を入れて、つまり地形判読というものを入れて、見やすい形で地図を作ると、非常に理解が進むということでございます。これは事業を計画する際にも使いますし、事業を説明する際に、また、予算を獲得する際にも活用できるということでございます。
 ぜひ、皆さんご利用していただければというふうに思います。ありがとうございました。


(安達氏) 
 どうもありがとうございました。
 今、熊谷さんのほうから更新に向けて、やはり利用していただきたいという熱い思いと、過去の歴史、過去はどうだったのかということについて熱く語っていただきました。
 今日のテーマでございますが、こちらのとおり「地図から見える治水と歴史」ということで、やはり治水地形分類図から過去が分かる、歴史が分かるということで、やはりここについてはわれわれもしっかり心にとめておきたいと思ってございます。
 それでは歴史につきまして市川塾長及び滝澤館長のほうから順にご発表いただければと考えてございます。よろしくお願いします。

(市川塾長) 
 それではご提案のとおり、この千曲川流域は劇的な変化をとげてきました。それについてお話をいたします。
 先ほどちょっと挨拶の中で、古代においては上田盆地を中心にして、信州にも条里制水田が相当広範にあったというお話をいたしましたが、土地割りを通じてこの条里制遺構水田の分布を知ることができます。これを見ますと、上田が一番多くて、それから上田からさらに北に行きますと坂城広谷(さかきこうこく)、それから千曲市屋代地区に条里制水田があります。また、犀川扇状地(川中島平)にまいります川柳地区などに条里制がございます。また長野市街地におきましても栗田など条里制遺構があります。
 このように奈良時代の終りから平安時代の初期にかけまして、条里制の水田が造られたのはどういうことかと言うと、当時気候が非常に温暖で稲作の生産量が高まったことがあげられる。
 また、人口も奈良時代は800万だったものが、平安時代になりますと1,000万人に増えております。
 ところが、鎌倉時代は温暖ですが、室町時代は小さな氷河時代に入ります。ですから、いろいろ内乱が起きるのは、そういうような冷夏が続く、室町寒冷期と言われる時代がやってきました。そういう中で室町時代の末期になりますと、各地でいろいろなことが出てまいります。
 そういう中で、信州はどうだったかと言うと、延徳田んぼの開発がございます。この延徳田んぼが開かれたという延徳年間というのを調べてみますと、15世紀の終わりです。このころ延徳田んぼの開田が始まったわけです。そしてわずか3年で年号が変わっちゃいますが、この地域で現在に至るまで延徳田んぼという地名を使っておりますが、古い地図を見ますと遠洞湖。越後平野で福島潟とか紫雲潟湖といったような潟湖(せきこ)がたくさんございます。湖は「lake」ですが、潟湖は英語では「lagoon(ラグーン)」と言います。そういう状況の中で、江戸時代に潟湖が残っておりました。
【C参照】
 そこでCの図を見てもらうと分かりますが、湿地帯が残っておりますね。これは明治時代の5万分の1の地形図を見ましても、延徳田んぼに沼沢地が残っております。信州では湖のことを「海」と言います。諏訪の海で魚多しとか、小海町だとか海ノ口だとか、「海」という地名がたくさんございますが、これは湖を指します。湖もこれは湖の典型だって聞いたんですが、流れ込む川が沖積土壌を持ってまいります。そういう関係で、300mの堆積層があると考えられておりますが、諏訪湖と共に信州で最も堆積物が厚いのが延徳田んぼです。ただし、この延徳田んぼは古代中世までは全くありません。これは開田が成されてなかったからです。そういう辺で、この室町時代の末期、言い換えれば戦国時代から、各地で農業土木工事が始まります。その一つが堰改めだと思います。、その典型が福島正則の堰改めです。江戸初期まで小布施町の上松川で北流していた松川の流路を、現在の流路であるように西流させた。その結果、松川は終止東から西へ向かって流れています。そして千曲川本流に合流しています。松川扇状地の右扇です。小布施扇状地は地形的に見ると松川扇状地の右扇です。そこには十四ヶ郷用水と飯田堰が設けられて、生活用水に主として利用されていました。扇央・扇頂にはそれまで平地林があった。それが堰改めと利水工事によって新田開発が行われている。松川扇状地右霞扇頂には旧河床に最後まで平地林があり、現在住宅団地になっています。
 このような瀬改めで新しい流路を変えたものに、裾花川があります。八幡川の見ていただきますと、ここに西光寺という名前、刈萱堂というのが通称ですが、県庁のすぐ南に、この旧裾花川であった八幡川が流れております。この八幡川の流れは、400年前の裾花川の流路でございます。そして、刈萱堂へ行きますと、凹地がございます。この凹地が旧河床です。そして七瀬へ入りますと、かつては裾花川が、いくつかの瀬をつくって流れていて「七瀬」。それから「高田」というのは、旧裾花川がつくった段丘面です。段丘面に「高田」という地名が付いている。それから朝陽を通って柳原、長沼まで千曲川に合流したのが旧裾花川の流路です。
 江戸時代の治水は、これを見ますと、戦国時代から江戸時代の初期にかけまして、全国的に大規模な治水工事を行っています。それを代表してるのが武田信玄の甲州流という治水技術で、この甲州流は堤防が紀州流の連続堤じゃなくて、霞堤(かすみづつみ)と言いまして、不連続になってます。完全に水を堰き止めるのではなくて、水害を分散させる手法が霞堤堤防です。
 先ほど熊谷先生からお話がありましたが、堤防の高さですね。昭和24年9月に決壊いたしました須坂市の相之島の堤防を見ますと、堤防の高さが江戸時代と同じ6尺(1m80p)の堤防です。ちょっと水位が増加すると、堤防を乗り越えてくることから、「乗越え堤(づつみ)」と言っております。
 このように近世、霞堤と乗越え堤を併用した治水工事がよく行われています。そして総体的に洪水の被害が減り、安定していく課程で、新田開発が各地で進められ、江戸時代初期の人口増加がもたらされました。
 江戸時代で2,500万あった人口が、明治になって増えるわけですが、明治になりましても平地林を開拓している地域は、この辺りでは少ないわけです。東北信の盆地はより土地利用が進んでいた。それは、治水工事と利水工事が並行して行われた結果だと。そのいい例が、この前の塾で申し上げました地割慣行地です。地割慣行地は水害の常襲地帯で一定の地域を個人有ではなくて共有している。一軒で所有してると全部の耕地が流されてしまう恐れがあるわけですが、共有していると、水害も分散すると。それから新しくできる「起返り(おきかえり)」と称する新しい開拓適地もできるということで、地割慣行地は江戸初期から始まるわけです。地割慣行制度が最も進んだのは木曽川の下流域と、信濃川水系です。
 越後平野の地割慣行地は、昭和43年までで全部なくなりました。ところが千曲川の流域で、坂城広谷から始まる千曲川の本流の地割慣行地が残ってるわけです。この地割制度は生活の知恵かと思いますが、千曲川の流域は非常に土地が肥えてる。先ほどから自然堤防の話が出ましたが、自然堤防には堆積しています。そこが特定の野菜の適地になっているわけですね。かつては桑を植えて養蚕をやっておりました。きょう蛆(そ)と称する蛆蝿(うじばえ)が桑の葉に寄生するわけです。ところが千曲川沿岸では、風が強いもので振り落とされてしまう。日本で一番蚕種の生産の適地は千曲川の中流地域です。小諸の大久保から東部町・上田を通って、上田の塩尻を通って、元のとこはいったような東部橋を通り、それで上田・塩尻・坂城・屋代・須坂の福島までの東北信では全国の蚕種の3分の1を生産した時代がありました。
 そういうことで、東北信は時代の先端を行ったわけです。それを助けたのが千曲川の風土であったと言えます。また、大正時代から千曲川の沿岸の自然堤防ではゴボウが作られした。このゴボウは現在は長芋に変わってきておりますが、当時ゴボウは北陸三件は、浄土真宗に盛んで、この法事が盛んのきんぴらごぼうを作ることで、ゴボウの需要が多いわけです。今でも軽井沢辺りは盛んに作っていました。戦前、このゴボウはシベリアへ輸出されてます。シベリアは、冬が長くて野菜の供給が不十分で、根菜類のゴボウが作られて新潟から輸出されていました。
 それから日本には3,000種類のナスがあると言われています。このナスの中で味の良いのは丸ナスです。千曲川沿岸では旧篠ノ井地区東福寺の小森ナス。川中島ナスとも言います。あるいは小布施町の山王島には小布施ナスという丸ナスがあります。千曲川の沖積地がナスの適地になっています。丸ナスは寒いと、よく成長しません。そこで適当に夏の期間があり、それから土地が肥えていないと忌地(いやち)になってしまう。河川敷で河川の氾濫が適当にあると、忌地現象がなくなる。日本で一番美味しいこくのあるナスはこの千曲川の沿岸である定評があります。
 このように千曲川の沿岸は、土地利用の面でも非常に特徴があります。そういうことはもう、ここにお集まりの皆さんはみんなご存知だと思います。それで、土地利用図の中には普通畑の場合は栽培作物は記載が皆無で書かれていません。そういうことで、軍事的な目的で作られたために、そういうシェルターにならないので栽培植物が表示してない。今後、土地利用図のにも出てくることを期待して本日の私の話を終わりたいと思います。


(安達氏)
 どうも塾長ありがとうございました。
 裾花川・松川を事例にとりまして、治水地形分類図見ながら説明いただくとともに、霞堤、さらには土地利用、そういうところまで幅広く話をしていただき、どうもありがとうございます。
 続きまして、滝澤館長のほうから治水地形分類図から読み取れる地名の由来等について、ご説明・ご講演いただければと思います。よろしくお願いいたします。

(滝澤氏) 
 ご紹介いただきました、千曲川・犀川治水史研究会の会員の滝澤でございます。よろしくお願いします。
 私のものはDの裏表に8枚ほどありますので、それをご覧いただきながらお願いしたいと思います。
【D−1参照】
 最初のこの図ですが、これは東福寺地区の文書を利用させていただきました。これは延享4年の千曲川の瀬直しの計画図であります。延享4年というのは、先ほどの戌の満水のとき、松代の城下が大きな被害を受けまして、殿様が西条村の開善寺へ舟で避難し、お姫様がやはり舟で大英寺へ避難するというような大きな被害を受けまして、そのことが1つのきっかけになったかどうか、文書がありませんのでよく分かりませんが、恐らく松代藩がこの瀬直しの計画を立てた1つのきっかけになったのでないかというふうに思われます。
 この瀬直しを計画したのが原八郎五郎という家老ですけれども、その図が1枚東福寺地区にありまして、これは計画図でありまして、古い千曲川が描かれています。これは寛保2年の洪水のあとの、堤防を新しく作った堤防であります。
 それからこの地区に1番から13番までありますが、これはそれぞれの農民が持っていた土地の面積、石高ですけれども、それを書き上げたものであります。ここには、赤坂の渡し付近のところから千曲川を堀割りして、そして新しい堀川を作る図かと思います。
【D−2参照】
 この図は宝暦12年のものですけれども、この図で見ますと、先ほどの計画図では川幅が14間という狭いものだったわけですけれども、この部分が上石砂原という地名が書いてありまして、千曲川の流れが古川から新しく掘り上げた堀川のほうへ流れているということが、この図で読み取ることができます。そればかりか、この川幅が44間、上石砂原が33間、川幅が当初の計画の5倍強というふうに広がっております。これから察して見ますと、千曲川の本流が古いほうの川と、それから新しく堀川を掘ったほうと、両方へ流れていたということが見ることができるのではないかというふうに思います。ということは、松代藩がお城のそばを流れていた千曲川をこちらへ変えまして、水害を防ごうとした1つの意図が、この図に現れているというふうに思います。
 しかし、実際には洪水のたびに古川を本流のように流れましたので、松代城下のこののちの水害状況を見てみましても、大きな被害を何回も受けております。
【D−3参照】
 これは、宝暦13年の東福寺村と中沢村、それから清野村、この3つの村がかかわる旧千曲川流域ですけれども、これが勘太郎橋です。それから新馬喰町がありまして、これが清洲町になります。清洲町のほうから勘太郎橋を通って、北国街道松代道が開かれて、この図ではここで途切れておりますが、かつての松代道はこちらの、地蔵の木を通って、妻女山を越えて土口へくだりました。これが文化年間にようやく現在のように笹崎を通る道に変わるわけですけれども、この千曲川がある程度落ち着いた段階で、3つの村が、かつての古い川と、掘り割った堀川の間のこの部分の土地をどのようなふうに利用するかということで、論争になりまして、これは論所絵図であります。
【D−4参照】
 このような瀬直しの状況というのは、これは大正2年の地形図ですけれども、これが東福寺です。こちらが小森、岩野、それからこれが松代ですね。西寺尾村とありますが、西寺尾村はかつての西寺尾村、左岸と右岸に分かれるわけです。小島田村は左岸と、それからこの牧のほうで2つに分かれます。それはこの堀川を掘ったというのが大きな原図になるわけですが、今日のこの地名につきまして見ていきたいと思います。
【D−5参照】
 この図は、先ほどご説明のありました昭和51年の治水地形分類図。そこに明治初年の地名を記入しました。地名というのは大変厄介と言っては何ですけれども、名称は江戸時代からのを見ておりましても同じ場所でもどんどん変わっております。
 治水史研究会では千曲川・犀川流域の地名を見ましたもので、1つの基準として明治初年の地名を取り出して、この治水地形分類図に記入しました。その中のこれは一部分ですが、先ほどの大正2年の図にありましたように、この部分が東福寺です。それから小森、それから岩野、こちらが清野、これが西寺尾になります。
 この中に地名を記入してみますと、いくつかの特徴が出てまいります。先ほどのご説明のように、この分類図の中から、この地名が生じて来たいくつかの理由、はっきりとは断定できないんですけれども、それが見えてまいります。
 今日はご用意しませんでしたが、この上流に塩崎から下流の地名が書いてあるわけですが、塩崎から下流、この地域までの地名を見てみますと、河原地名というのが大変多いわけです。河原地名が約44あります。その次多いのが「島」という地名です。この「島」という地名は、恐らく先ほどの微高地を表す地名かと思います。それから微凹地を表す地名では「池」とか「窪」とか、そういう名前の地名がございます。その河原地名44のうちの65%は、塩崎の現在の千曲川左岸の部分にあります。もちろん堤内ですけれども、この部分はかつて江戸時代には本流が流れておりましたものですから、河原地名が非常に多いわけです。
 それに続いて多いのが、この東福寺から寺尾までの、特にこの西寺尾・東寺尾地区のここに河原地名がございます。ただ、同じ河原地名なんですが、塩崎のほうの河原地名というのは、先ほどのように千曲川の本流が流れておりましたので、文字通りの「河原」なんですね。それが大正7年に始まる改修事業で堤内に入りましたもので、現在行きましてもかつて堤外と言うか河川敷にあったということは想像できませんが、千曲川の河原に付けられた河原地名と見ることができます。
 それに対してこちらのほうは、かつての微高地の部分に河原地名や島地名が残るということになります。というのは、なぜかと申しますと、この昭和51年のこの分類図でも分かるんですけれども、旧河道があります。それから堀川があります。この堀川というのは、表題にあります瀬直しに当たって、その瀬直しのために川を掘りまして、そちらに水を流すということになります。
 この部分が西幅下というところです。県庁の付近にもありますけれども、幅下というのは一種の小さな崖なんですけれども、千曲川が作った崖の部分がここに残ってます。そのほか「川式」であるとか、起目であるとかそういう地前が残っておりますし、それから、この旧河道の部分にはいくつかの「瀬」というのもあります。この微高地の島地名というものが出て来たこの部分には、河原地名がありますが、この河原地名というのはかつての微高地が堀川によって変化したものだということで、この分類図から見ましても、その同じ河原地名でも、その由来が違うのではないかということが、断定はできませんが、かなりはっきりと読み取ることができるようになります。
 そういう面で、この治水地形分類図というものが現代の立場から古い時代を探っていく1つの手掛かりになる。と、申しますのは、先ほどの論所絵図のように、かなり詳細に書いてあるようですけれども、現代の地図の技法から言いますと、かなり大雑把になります。ですから、そのものを読み取ってものを考えるということは、大変難しいことになります。どうしても、現在の地形の中に、その絵図を読み取って落とし込んでいくと。それによってはっきりと歴史の1つの姿、川と人々との営みの姿が見えてきます。より確かにそういうことが言えるようになるには、絵図そのものはたくさんあるんですけれども、できるだけはっきりした、ある時点をベースにしまして、それからだんだん遡っていく。それからさらにそれを遡っていくということが、歴史地理の上からは大変大事な手法ではないかというふうに思っております。そういう意味で、この河原地名や島地名、あるいは微凹地の地名というのが生きてくる元になったのが、この分類図であるというふうに考えていいかと思います。
【D−6参照】
 時間の関係で簡単に申し上げたいと思いますが、これは嘉永5年の松代藩が作った大変優れた絵図であります。測量図と言ってもいいかもしれません。いくつかの記号がありますが、未(ひつじ)年の御普請堤防。それから古い堤防、申(さる)年の御手普請の堤防等がこういう形で書き込まれております。これは鼠宿の近くののですが、この記号が次のところに出てまいります。
【D−7参照】
 ここに見えますのは、下横田村。こちらが上横田村。これが岡田川です。この辺が唐猫になります。この図から先ほどの地名とは多少ずれますが、当時の江戸時代後期の治水事業がどのように行われたかという1つの特徴が読み取れるのではないかというふうに思います。というのは、江戸時代の水害は、江戸中期から以降、大変増えるわけですけれども、その中で治水事業が行われます。洪水が起こりますと、すぐに検分の願いを出すんですけれども、藩の役人や幕府の役人が検分に来るのは、早くてその年の暮れか、翌年になります。それから計画を立てまして、治水事業を行いますので、結局取りかかるのに3年ぐらいかかります。3年ぐらいあとに事業が行われますと、その間に大体3年に一遍、かなりの洪水が起こります。5年に一遍は大きな洪水が起こります。ですから、せっかく作ったその川除け等も流される場合が多いわけですね。
 そういう意味で、江戸時代の後半の治水事業を見てみますと、この図にありますように堀川というのが掘られるわけです。上横田・下横田の堀川。それから、そののちの堀川。それからこの小森の堀川というように、小さな瀬直しによって水害を防いでいこうと、そういう治水事業が盛んに行われるようになります。それをこの中流域では、特に際立って見ることができるわけです。
【D−8参照】
 これで終わりになりますが、こちらが小森です。小森の堀川がこうありまして、そして松代藩の大きな瀬直しがあります。その上流のこの部分というのは、先ほどの治水地形分類図では恐らく旧河道というのが描かれていると思いますが、この堀川によってこちらへ流そうということで、工事が嘉永5年に行われます。それがこの部分に出てまいります。このように、かつての絵図、あるいは測量図と言ってもいいかもしれませんが、これが現在の治水地形分類図によって、かなりはっきり跡付けることができます。
 現地の地形調査を加えますと、相当正確に出て来るのではないかと思います。その中でも、特に小森の場合では、小森区の方々がここの発掘と言いますか調査をいたしまして、江戸時代の嘉永年間の出し(水制の一つ)がどんどん出てきたという、素晴らしい成果がございます。それが出て来た元になる考え方は、やはり今の分類図から推測していって、絵図からこの辺ではないかということが分かって来まして、それで無駄のない調査ができたというふうに思います。これは小森の方々の努力の結果なんですけれども。
 このように私は治水地形分類図と、それから絵図、それから地名というものが、かなり強いつながりを持って古い歴史が分かるのではないかというふうに思っております。以上ですが、ありがとうございます。


(安達氏) 
 どうもありがとうございました。
 今、市川塾長と、また滝澤館長のほうから説明いただきました、後半のトップバッター滝澤館長におかれては、やはり地名を見ると、やはり例えば河原地名、島地名、又は堀川地名、こういうものがやはり今作られている治水地形分類図と大きなつながりがやっぱり出て来るんじゃないかということを教えていただきました。
 それでは今回のテーマということで、地図から見える治水と歴史の治水の部分についてお話をいただければと思ってございます。
 治水につきましては、漏水対策ということで、須坂市の部長さん、樽井部長さんと、あと現場のほうで一緒に現地説明、うちの副所長はじめ一緒に入ったりしてございます。うちの副所長のほうからも治水地形分類図制作担当ということもございますので、両面から皆さんにお話させていただければと思います。
 まず、樽井部長のほうからよろしくお願いいたします。


(樽井氏) 
 どうもみなさん初めまして。長野市と千曲川、その川東にあります須坂市から今日はまいりました。まちづくり推進部長の樽井一郎と申します。よろしくお願いします。
 それでは私から申し上げていく内容でございますが、過去の水害ということで、平成16年・18年に水害が発生し、そしてその被害は堤防からの漏水が各所に表れたということ。そして、その漏水に対して、地元の消防団・水防団、それと地域の皆さま方が懸命に今防水活動を行って、被害を最小限に止めたということの報告。そして、そういった発生している箇所は、昔「みずみち」という、今日のテーマの中であることを教わったと。それは、地元の皆さま方が堤防の強化に対して、懸命の要望と言うか、国のほうへ堤防強化の工事のお願いをし、そしてその堤防対策工事に取り組んでいただき、ずっとこの間、現在も進めていただいていると、こういう状況の中の部分で報告をさせていただきますが、よろしくお願いします。
【E−1参照】
 ここの今映ってる写真なんですけども、これは真ん中下に村山橋。このごろ新しく村山橋が完成ということでなっておりますが、そこからずっと下流を臨んでいます。左が長野市、右端のところは村山町。そして、そこから相之島町、北相之島町、左にあるのが堤防ですけどね、その堤防ずーっとある。そして、高速道路があって、先ほどの松川という川もこの写真に写っております。小島町、八重森町、ここらが一番の須坂市の中では低地ということで、水害に見舞われてる地区でございます。
【E−2参照】
 これが16年・18年の状況。ここで18年に撮影をいただいた写真です。まさに堤防いっぱいに水が増水しております。川の中の農地と言いますか、耕作地があるんですけれども、こういった樹木、モモとかリンゴとかがありますけど、先端の木の部分だけが水面から顔を出して、あとの実を付けた部分は全て水没しているという、こういう状況です。
 この16年の10月の台風23号、ここでは立ヶ花の観測所では過去5番目の水位を記録していると。また、18年の7月の梅雨前線豪雨では、同じく観測所で過去2番目の水位を記録しています。これにより漏水及び内水湛水が発生した。これ以前にも、須坂市は昭和24年のキティ台風では村山町の堤防が決壊して、大被害が発生したと。また、昭和56年の、これは支流のほうの上流の鵜原川の下から土石流災害が発生しまして、その下流の鮎川を通って、この千曲の河川まで土石流が砂が来ました。この河川敷の中の流木、そしてまた運んで来た砂の復旧・撤去作業ということで、私も当時農業土木にいまして、その畑の中、農地施設の関係、復旧に対して経験をさせていただきました。この当時の川の中の流出というのは、国のそういう部係とか色んなのがなくて、本当に災害査定のときもいろいろ勉強させていただいたものです。
 その昭和56年・57年・58年と、須坂市は大水害に見舞われております。
【E−3参照】
 ここでは18年の関係ですが、左側の赤い丸、この地積は村山地籍との中で、水田と畑のちょうど境目からの、堤防の法先からの漏水であります。民家からはちょっと離れた場所で、ともすれば発見できずにいれば、大変なことになるというぞっとするようなことが起きていました。
 これも地元の皆さまや消防団が、過去の経験からそれぞれ堤防のところを点検して歩いた中で、これを発見いただき、そして対処をしていただいた場所であります。
 右なんですけども、右は福島町内の住宅の庭先でございます。確か留守にされておりまして、中の住んではいらっしゃらなかったんですけれども、ここのからの漏水。これも堤防の法先からすぐ隣接した住宅であります。
 この住宅の犬走にいる方、これは当時の千曲川河川事務所の長野工事事務所の熊井所長さんです。当日から今の水害の状況を飛んで来られて、色んなところをつぶさに見ていただきました。ちなみに、写真を撮ってるのが私なんですけれども。それを言いたかった訳じゃないんですけれども、こういう写真の活動というのも、あとで申し上げますけれども、大切だなと。即座に水の出てるこの状況を撮る。引いちゃえば分からないんですね。こういう漏水してる状況というのは。まさに元に戻っちゃう。ここを撮って歩くので、本当に全部の箇所が一緒になって、連携すればあれなんですけれども、見ていただいてご指導いただいたと、こんなようなことであります。
【E−4参照】
 消防団の皆さんによる月の輪による水防活動で、16年も同じような状況だったんですけれども、当時は水防活動を現地でやることが一番の目的でありまして、さっきの写真というのをほとんど忘れちゃったんです。それが反省点ということで、みんなでその教訓を生かし、役所でもそんな徹底をしながら、地域の皆さまにも、撮れたら写真撮ってほしいとか、そういったことのお願いをした中で、18年の先ほどの写真をたくさんおさめたわけなんですけれども、これがあとの災害復旧、地元が要望していく中で、大変役に立ったということでございます。
 千曲川全体では48箇所。須坂市内では13箇所の1つの集団として、漏水が発生されました。
 水防団の活動であります。約300名による水防活動で、甚大な被害を防いでいたと。土嚢は須坂市全体で3,000袋を使用し、水防団のみでは対応し切れない箇所も多数あったわけです。人海戦術では限界があることを痛感しております。
 須坂市では、万が一に備えて、自主避難要請を行ってまいりました。その後、これらの度重なる異常出水を受けて平成19年の6月に避難勧告等の発令基準を定めました。県内の19市では、個別に発令をする基準はありますが、豪雨、それから台風等による洪水災害や土砂災害を想定した市内全域に対する発令基準としては、県内で始めての取り組みであります。
【E−5参照】
 次の内水湛水ということで、これは須坂の千曲川の、須坂市の中では一番最下流に位置する部分であります。左は北相之島町の団地。右にある住宅というのが団地内。真ん中に水防壁というのがあります。左が農地になるんですけれども、内水氾濫としては写真のようにこれだけの周りは水位の上昇があったということです。この右のほうについては、団地の入り口部においては、地域の皆さんが土嚢を積んで、町内への流入を防いだと。また、その下は保育園が完全に水に浸水になったという状況でございます。
【E−6参照】
 次に、日本河川協会からの河川功労者賞の受賞ということで報告をさせていただきます。日本河川協会では、毎年水防活動では自然保護、河川護岸などの活動に関して、功績のあった個人や団体に対し、功労者表彰を行っております。私どもは平成21年度の河川功労者表彰を前須坂市の消防団長の塩崎貞夫様が受賞されました。平成18年の発生した水防活動、これの水防団を統括して、特に危険度の高い相之島地籍での水防活動、昼夜を問わずに尽力をし、大災害の発生を未然に防いだということで、評価をされ、大変名誉ある表彰を受賞されたものであります。団長からは出水のときは、必死になって土嚢を積んだが、地盤の沈下がひどく、積んでも積んでも下に潜っていくと。こういった第一線での経験話も聞いております。
 この写真が相之島機場の横で土嚢積みの水防活動を行ったときの写真でございます。ここでは2,000個の土嚢を使いました。そのうち、その日のうちに、今しかし河川事務所さんのほうで、大型の土嚢をここへ持ち込んでいただき、応急の対応も施していただきました。
 ちょっと余談ですけれども、団長さんここで還暦を迎えたそうですが、家族で俺はこれまで家族と何をどんなふうに働いて来たんだというふうに家族と話したら、奥さんのほうから直ちに、あなたは消防団でしょと、こんなふうに言われて、大変な評価を受けたというふうに本人は言っておられました。また2月の末には娘さんが結婚されたそうで、そのときの娘さんからの親への謝辞の中でも、お父さん、消防・水防のことで一生懸命やられてましたねと。こんなことも言われていたということを聞いております。ちょっと余談です。
【E−7参照】
 千曲川の課題ということでお願いします。
 立ヶ花地点で、平成18年の7月豪雨による出水量が約6,000立法メートル。そしてこれは立ヶ花地点での計画流量、毎秒9,000立法メートルの7割以下でありました。しかし、狭窄による流下能力不足で、上流の北相之島地籍では写真にありましたように、計画洪水をオーバーして、堤防の天端に迫る勢いでありました。
 狭窄部の解消というのは、長野盆地全域の悲願であります。一日も早い解消をぜひともお願いしたいと思っていますが、この解消には下流部の治水事業が不可欠でもあると考えます。
【E−8参照】
 八木沢川樋門の改築ということであります。これも地域の長年の悲願でございました。八木沢川、旧百々川樋門というふうに呼んでおりました。平成20年3月に完成をいただきました。流下能力が50立方/毎秒から70立方に向上し、これにより八木沢川の平常水位は改築前に比べて、1.5m程低くなりました。内水被害の軽減に本当につながったものと考えております。
 また、排水機場の運転回数は改築前では年に7回ほど、雨がちょっと降るたびに出動していたと。これが改築後は現在まで一度も運転をしなくております。これからも恐らく、3年から4年に1回あるかないかということで、それぞれ機場運転は職員が担当するんですが、本当に職員がこのお陰で変わったなと、随分気分が楽になったという安堵の気持ちも報告いただいています。
 この八木沢川樋門の水位、これが千曲川河川事務所のホームページからも見れるようにしていただきました。とても便利で助かってます。また、先ほどお話した千曲川及び八木沢に対する避難勧告の発令、これもこの水門の水位によって行っておりますので、併せてとても便利で助かっております。
【E−9参照】
 八木沢川樋門の竣工式の状況写真でございます。20年の8月5日、地元の期成同盟会で主催をしていただき、手作りによっての竣工式ができたということであります。セレモニーではテープカットに合わせて、右下の須坂市消防団ラッパ隊によるファンファーレの吹奏。また、子どもたちの稚魚の放流。保育園児のカヌーの体験等、この日行われました。
 ファンファーレを吹奏した須坂市消防ラッパ隊、ちょっとPRさせてもらいますけれども、長野県消防ラッパ隊で、吹奏大会で8連覇中でございまして、同年には日本の武道館でも代表で、また、東京ビックサイトでも吹奏を披露をされております。ちょっとこれもPRで余談でございます。
【E−10参照】
 治水地形分類図で分かる千曲川堤防の状況ということでお願いします。この図面により、堤防がどのような位置に作られているかが分かります。旧河道上の堤防がある場所は漏水しやすい状況となっております。千曲川沿岸の皆さまは昔から川の恩恵を受けており、感謝をしているわけですが、ひとたび洪水となれば大水害となり、幾度となくその被害を経験されております。この教訓を後世に伝えるべく水害の記録・体験・教訓を収めた本というのが発刊されております。先ほどの豊洲地域の皆さんは、昨年21年の6月30日と書いてある、ふるさと豊洲−記録・体験・教訓ということで、本を収めてございます。
 そして、昨日ちょうど一昨日なんですけれども、井上地区で、まさにみんな堤防沿岸の下が一緒の地域ですが、『井上の地域の水と生活』という本が、またこれもすごい詳細なものを地域の方々が何年間も記録を収めようということで、長老の方からの言い伝えや色んなことを、語り継いだものを文面にしたと。それと、この地図が本当に私びっくりしたんですけれども、ほとんど一致するというような、こういうここで報告されていることが、まさに言っていることがこういう地図に表れてるなというのが感じました。
【E−11参照】
 漏水対策工事のほう。これが先ほど要望して、取り組んでいただいている工事の状況ということであります。現在もやっていただいております。
【E−12参照】
 これは工事中の実は写真でございますが、この左のほうで3人並んでる方。これは地元の福島町、去年の区長さん、三役さんです。これは鋼矢板、また後ほどで工事の内容等説明いただければと思うんですけれども、鋼矢板の打設に地元の方が、最終打設、記念の打設に立ち合っていただきました。これも非常に世紀の大事業というかね、そういう工事の中で、地元の方がこうやって一緒に記録に残って収めていただくというのは、これは大変ありがたいことだと思っております。
 実は、ここで立ち合った翌週には、まだ工事は終わってるわけじゃないんで、地域の方みんなに見ていただくと、工事見学をしていただくということを計画していただいておったんですけれども、雨降って天候が悪くて中止となりました。今年もまだ工事やってく中では、そういう工事をやってく中で地域の人にどういう工事だというのを見ていていただくのはとっても大切だよ、ということを所長、また市長さんから言われておりまして、市もともどもで一緒にまた計画をぜひさせてもらって、地域の人たちがこの工事の内容をしっかり見て、記録に残していただくというのが、それが大事だということを言われております。
 以上でございます。


(安達氏)
 どうもありがとうございました。
 それでは、事務所の石川副所長のほうからもよろしくお願いします。

(石川氏) 
 千曲河川事務所で予算と工事を担当している副所長 石川と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
 今日は、タイトルのとおり「地図から見える治水の歴史」ということで、各々のパネラーの皆さんが各々の立場でご発言をされました。私のほうは、少し立場を変えて、河川管理者という立場でこの地図をどうやって使っているかということについて、ご説明をいたします。
【A・F−1参照】
 まずは、いろいろと各パネラーの方からご意見がありましたが、まずこの地図です。
 これは資料Aの後ろのほうにA3版で付いておりますが、例えば、専門的な地図なので、こういう県庁とか市役所とか道路とか、こういうものが入ってないものは持っておられる方はおりますが、例えば橋の名前とか地名とか、こういうシンボリックなものが入っている図面をお持ちなのは、皆さんだけです。
 例えば、ここに裾花川、これが犀川、それでこれが千曲川と、こうなりますけど、裾花川は江戸時代にこう付け替えたわけですね。その昔はこういうふうに流れていたと。いわゆる屋島橋と村山橋の間に合流をしていたということですので、例えばうちの事務所は七瀬中町という町内会ですけども、私実は半年間部長をやってたんですが、何でそういうように言うのかなと分からなかったんですけれども、どうも諸先輩に聞いてみると、裾花川のここに大きな瀬が7つあって、真ん中の町だから七瀬中町だと。説はいろいろとあると思いますが、そういうことなのかなというふうに思いました。
 それとか、こちらのほうに犀川が松本に向かって流れて行きますが、この辺は犀川が暴れてたとこなんですよね。あとで詳しいことを説明しますが、こういうこの青いミミズみたいなのがありますが、これはみんな昔の川跡です。ですから、われわれ河川管理者というのは、堤防と、この川の跡、こういうものをきちんと調べて治水をやらないと、せっかく堤防を作っても、いざ大きな水が来たときには、皆さんの安全と安心を守ることができないということで、非常にこの図というのは重要です。
【F−2参照】
 例えば地理院の部長から説明がありましたとおり、現在ネットで皆さんが見れる図というのは、この現行図という図ですね。こちらが先ほど申し上げたとおり、松本に行く犀川ですが、昔ここが扇状地地形で、暴れてたというようなことはこの図からは分かりません。しかし、新しく更新をした図でいきますと、この水色のミミズみたいなのが分かりますよね。そうすると、扇状地であって、かつ、川がこういうふうに流れてたということが分かります。現地で見ると、旧の河道はこういう状況で残っているし、少し高い微高地なんかもこういうふうに残っているということが、現地でも確認できます。
【F−3参照】
 これは、長野市の小島田町ですが、これが今の千曲川の堤防ですね。これが昔はどう流れてたかというと、いわゆるミミズの跡、ここの旧路になるわけですけれども、ここに書いてあるとおり、右側の岸の集落を円弧状に取り巻く旧河道と書いてありますけど、これが旧河道であるということがはっきり分かります。ですから、こういうふうに流れていたんだろうと思われるわけですね。ここに集落が微高地、少し小高いところに集落が昔からあったんだと思いますけれども、こういう集落を昔は輪中堤で守っていたわけですね。それを、その昭和の初期から直轄施工してますけども、いわゆるこの輪中堤と輪中堤を結ぶ、こういう直線堤防で工事をやっていったわけですね。そうすると、こういういわゆる輪中で守ってた集落の間のこういうところは、いわゆる川が暴れてた上に、堤防を築いたわけです。だから、そういうところをきちんと理解をして、治水をやらないとまずいと言っている意味はそこにあるんですが。
【F−4参照】
 これは地理院さんがお持ちの、旧版地形図というものだと思いますけれども、これを使って大正と昭和35年を比較したというものです。これが裾花川、これが犀川ですけれども、この茶色いのは昔の堤防跡ですね。それがこの時代の変遷とともに、現在はこういうふうになっているというふうに見ていただきたいと思いますが、こういう地理院さんの地形図からでも、この旧の流れと旧の堤防は分かるということですね。
【F−5参照】
 ここからが本論です。これが私たち河川管理者に課せられた重要なとこなんですけれども、例えば千曲川の土手というのは、昔はこういう小さい土手だったと。それを何回も溢れたり崩れたり、まさに川なりなんですけれども、先人はどうしたかと言うと、切れないように高くしたり、太くしたりしていて作ったと。
 われわれ、この赤色の断面を「定規断面」と言います。三角定規の定規と一緒ですけれども、こういう堤防を作るんだということで、今まで進めて来ていたんですけれども、先ほど須坂の部長さんが言われましたけれども、実は私、一昨年の7月に長野に着任しましたが、長野というのは本当に治水で苦労してるんだと思いました。中野市なんかは、堤防がないところがあるんです。直轄河川でありながら堤防がないところがあるなんていうのは、全国でもあんまりないと思います。だから今中野に集中投資をして堤防を作ったり、須坂では漏水対策をやってる理由はそこにあるんですけれども、最近はこういう定規断面で堤防を作るのではなくて、どういうふうに堤防を評価するかと言うと、堤防を大根切りにすると、昔先輩たちが作ったこういう小さい堤防が見えてきます。それに一期改修・二期改修というような格好で、太らせてきた経緯が分かります。
 堤防は、まず形があるんですけれども、これを詳しく調べて、ここが崩れるか、あるいはここが崩れるか、それと洪水のときにこっちが水が溜まる川だと思っていただければいいと思いますけれども、こっちが宅地ですね。洪水で水位が上昇すると、この堤防を水が浸透していくわけですけれども、この堤防のところを後ろから噴かないかどうか。こういうチェックを計算してやります。
 長野はこういうリスクのほかに、もう1つ旧河道の上に堤防を作ったということがあるんで、この下は川なわけです、昔ね。そうするとここはツーツーのわけです。ですので、須坂市さんの場合、ご苦労されているのは、いわゆる昔の河原の上に少しだけ粘性土が乗ってるというような地質なので、どこでこうプクプクと噴くか分からない。宅地のまん真ん中で噴いたのでびっくりして、水防団の方が一生懸命、命がけでまさに月輪を築いて、いわゆるウォータークッションで急激に破堤をしないように、命からがら頑張ったということだと思うんですよ。そういう意味では長野の堤防というのは、こういう歴史がある堤防だということと、いわゆる川が暴れてた上に堤防を作ったという、そういう2つのリスクがあります。
 それでどうするかなんですけれども、堤防の設計をやるときには、当然千曲川では、このAの話に比べて、こういう物に加えて、治水地形分類図がなかったときにはできなかったんですけれども、これが堤防です。そこに旧の河道が入っていると。そうするとここは要注意であるということですね。昔分からないときは、ここだけに絞り込んで調査をするのではなくて、この辺一連で調査をしましたから、調査費もかかるし、適切な対処ができなかったんですけれども、今回の地図を作ったお陰で、具体的にこれは岩野橋の上流川の左岸側ですけれども、岩野橋の直上流、篠ノ井のとこですが、ここが旧河道だって分かってるものですから、こういうスウェーデン式のサウンディング試験というふうに専門的には言うんですけれども、こういう簡便な方法で、地面を突っついてみるんですけど、そうすると河原なのか、そうじゃないのかというのが分かりますので、調査費も非常に安く済みますし、集中的に対処できるということで、予算の適正な執行もできます。
【F−6参照】
 これがさっき須坂市さんが言われたとおりのお復習いですけれども、18年の7月には48箇所、うち須坂市が13箇所漏水がありました。ここでよく聞いていただきたいんですが、もう水防団は必死に水防活動をやったわけなんですけれども、対処できたのは21箇所。ですので、写真撮れたのも21箇所なんです。
【F−7参照】
 ここからが国の制度の問題かもしれませんが、災害復旧というのは、確かに水防活動をやったという写真がないと災害復旧費は来ないんです。そうすると手が回らなくて漏水してた箇所というのは、後送りされてきたという経緯があります。これは漏水箇所は、旧河道上に堤防を築いた箇所と、一致というのは書きすぎかもしれませんけれども、この赤丸の位置をご覧いただくと、一目瞭然だと思います。ですので、われわれ河川管理者としては、こういうところを注意をして漏水対策をやるということになっています。
【F−8参照】
 これはちょっと生々しいかもしれませんが、須坂市の漏水対策工事の全体計画でありまして、これが屋島橋、こっちが村山橋であります。先ほど災害復旧制度の課題を言いましたが、この緑色のところは、これは写真があったので、18年からすぐ災害復旧工事に入り矢板を打ちました。幅1m20pの、深さ15mの矢板を打っています。堤防の法面のところには、遮水シートという1pぐらいの防水シートを貼って、下は矢板を打っていますので、堤防の中に水を入れない、なおかつ、旧河道のところの川の水を矢板で遮断するという、そういう工事をやっていますが、今回、この福島というところと、こちらの中島というところで、今工事をやっているんですけれども、ここです。福島地区と中島地区は漏水はしていましたが、水防団が手が回らなかった。後回しに結果にされたんですね。それをどうして予算化したかということなんですけれども、地元からの要望もありましたが、治水地形分類図によって旧河道であるということを、いわゆるお金をくださいというところにわれわれが説明をして、科学的根拠に基づいたものですので、そうかと、ここはいわゆる旧河道なんだなということを理解してもらって、いわゆる緊急経済対策の補正予算というのも追い風でありましたので、予算化して、この屋島からこの村山橋の間、2.36qは全て矢板を打ち終わります。今、繰越工事をやっていますので、来年度のお盆ぐらいには完了するということになりますので、今度のお盆ですね、ということですので、そういう予算の使い方もできて、非常にこうスムースにこの地図のお陰で予算が取れたということです。
【F−9参照】
 ですので、先ほど部長さんからもご挨拶ありましたけど、これが業者の、やはり地域の人たちと一緒に、お世話になりながら工事をやってますので、町会長さんたちと話をしながら、お祝いをしたわけです。矢板の最終打設という、こういうものをやりまして、平日だったんですけれども、区長さん方が来られて、皆さん喜ばれて記念撮影をしたときの話です。
 いわゆる「堤防漏水の不安から安全・安心へ」という。
 この写真を今度は23日の日に、地元の公民館に飾ってほしいということで、贈呈をする予定にしております。
【F−10参照】
 今ほどとちょっとだぶりますが、われわれ今まで持ってた地図は、地形図のほかにこういう管内図とかいろいろなのがあるんですけれども、この赤丸の地点は、旧河道です。これは篠ノ井の例ですけれども、そうすると、こことここは手当しなきゃいけないということを、地元の皆さんに説明しなきゃいけないんですけれども、この図では地元の皆さんにそういうことは伝わりません。こういう地図を見せながら理解を得ていきたい。また、防災への活用ということなんですけれども、堤防のいわゆる宅地の地盤から上の堤防ですね。堤防については1q置きにボーリングをして、堤防の評価をやってるので、大体この辺が危ないなというのは分かっているんですけれども、これは中島の例ですが、それに加えて旧河道を意識して、再度調査をかけると、ここはやっぱり漏水がある箇所だというのは、大体分かってたんですけれども、治水地形分類図によって明らかに旧河道位置がはっきり分かりますので、やはりここは矢板を打たないと駄目だなということで、矢板を打つ工事を進めてるということでございます。
 それで、異常箇所の早期発見と被害拡大防止というのがわれわれのテーマなんですけれども、河川に洪水のときの監視用のカメラが付いておりまして、そういうのでこの災害対策室の中では、どういう川の状況なのかを監視しながら、もしここで異常があったら治水地形分類図でどういう場所なのかということをチェックして、そのほかに先ほどの堤防の詳細点検という、その図を見ながらどういう危険があるのかということを総合的に分析をします。
【F−12参照】
 これがアップのものなんですけれども。
 マスコミなんかが取材に来られたときも、こういうので説明すると分かってもらいやすいということですが、そういった意味で非常に高度な河川管理ができるようになりました。
【F−13参照】
 そういう意味では、千曲川は全国初で治水地形分類図を更新していただいたと、本当に感謝しています。そういった意味で、この大きな課題の堤防漏水箇所の基盤情報不足ということについては、いわゆるその100m下までの地層はまだ分かりませんけど、いわゆる宅地の面の表面の成り立ちとか、いわゆる基盤情報というのが大体分かるようになったと。ですので、堤防のいわゆる宅地からの上の堤防については詳細点検結果で、基盤については治水地形分類図を使ってということで、その設計から管理に至るまで、いわゆる全国でも先進的な利活用ができるようになったということでございます。
 堤防設計・地元説明・防災業務、これはデータベース化ですけれども、GISと呼んでいますが、こういったことを総合的に国交省として取り組めるようになったということでございますので、高度な管理が可能となったというのが、本当にありがたいことだなと思っているところでございます。
 現場の第一線の声でございますが、非常に今回の図を作ることによって、非常に皆さんに対して安全・安心を確実に提供できるようになったというふうに思っておりまして、いろいろとこれからお世話になると思いますが、どうぞよろしくお願いしたいと思います。

(安達氏) 
 樽井部長さん、さらには石川副所長、どうもありがとうございました。
 治水ということで、やはりこういう治水地形分類図をいかに活用できるかと、またいかに活用して来たかということを説明させていただいたものでございます。
 今までの話をまとめますと、1点目といたしましては、治水地形分類図、この聞き慣れない言葉というのは一体何なんでしょうという話を地理院の部長さんと、さらには熊谷さんのほうからご説明いただきました。
 さらには洪水被害、これは地域の歴史と密接に絡んでいるということを、市川塾長と、さらに滝澤館長のほうからいただきましたし、治水地形分類図等を通じて、過去を知るというのがやっぱり大切だというメッセージにつながってるものだと思います。
 さらに3点目でございますが、やはりこの治水地形分類図、せっかく作ったということで、これからの治水に役立てたいと思いますし、さらに冒頭のほうで熊谷さんのほうから、やっぱりこういうものを利用していただきたいという声が、やっぱりわれわれのほうにもございます。
 どうやればこの治水地形分類図の活用が進むかというようなアドバイスをパネラーの方から順番にいただいて、それで取りまとめという形にさせていただきたいと思います。
 それでは熊谷さんのほうから、ひと言ずつで結構でございますので、よろしくお願いいたします。


(熊谷氏)
 座長のほうから指名がありましたので、私のほうから簡単に話をさせていただきますけど、もう時間があまりないということなので。ひと言でいいから時間は自由にやっていいということなので、少し時間をいただきますけど。
 石川さん、それから現場のほうからは、須坂市の部長さんからお話を伺いまして、本当に治水地形分類図が現場の隅々で利用できるような形が整って来たなというふう感じております。やはりこの事例を生かしながら、どんどんと前に進んでいっていただければというふうに思います。
 仕事をしていく中で知恵は湧いてきます。ですからやはり使いながら、しかも現場を見ながら地道にやっていくことで、机の上で考えるのでなくて、手を動かしながら、汗をかきながらやってく中で恐らく答えが見つかってくる、そういうことだろうと思います。
 そういうことでぜひ進めていっていただければというふうに思います。そういうことでよろしいでしょうか。最後にまたひと言だけ言わせていただきたので・・・。


(安達氏)
 分かりました。最後にまたマイクのほうをまわさせていただきますので、よろしくお願いします。
部長さんよろしくお願いします。

(福島氏)
 国土地理院の福島でございます。治水地形分類図がこんなに使われて、こんなに役立ってるという話を、千曲川の特に石川副所長等からいろいろ聞かせていただきまして、これからもぜひいい地図を作っていきたいと思っております。他にもいろいろな使い方があって、今日皆さま方に配られた地図の色合いも、始めての地図の表現の形態であり、まだまだ進化していくのではないかなという期待感もございます。ぜひ頑張っていきたいと思っております。よろしくお願いしたいと思います。


(安達氏) 
 どうもありがとうございます。
 それでは塾長のほうからもひと言いただけましたらありがたいですが。


(市川塾長) 
 千曲川という河川は、物流に使われたり、あるいは農耕財文化、そういう意味で、この千曲塾によって千曲川がまた農産物の生産手段であるばかりでなく、地域の文化財として大きな役割を果たしております。今後もこのような会をひとつ開いて、千曲川を囲む風土と文化の探求をしていただきたいと思っております。

(滝澤氏)
 このような良い地形図がこれからの歴史や文化の面でも利用できるように、予算面ではなかなか厳しいかと思いますけれども、普及できるように計らっていただければ大変ありがたいと思います。

(樽井氏) 
 地域の皆さまや、また消防団・水防団の方が、こうした水防の点検や、その水防活動にもこういったことを見ながら生かされればいいなというふうに思います。また、行政の上でもいろいろ工事とか開発などが行われる場合にも、こういった地形の図面を参考にできたら大変いいなというふうに考えます。


(安達氏) 
 どうもありがとうございます。われわれのほうも、こういう地図を何とか多くの方に知っていただくような形で、今後やっぱり考えていきたいなとは思ってございます。
 それでは最後に熊谷さんのほうからひと言いただければと思います。


(熊谷氏)
 治水地形分類図はまさにその新しい治水の歴史を一つ作ってるものだなというふうに思いますけれども、実はわれわれの今ある、今日も堤防の議論があって、例えば相之島のところで漏水があって、それを守ったということですけれども、今ある堤防の形ができたのが、ちょうど今から昭和16年ということになりますから、50年ちょっと前ぐらいでしょうね、55年ぐらいになるんでしょうか。もう少しか。今年が70年ですね、もう。実は私が千曲川の所長をやっていたときに、千曲の改修五十周年というのが、ちょうどあったんです。その50年のときに、どんなことだったのかなというと、先ほど見ていただきましたように、堤防がバラバラにあって、非常に小さな堤防、3mぐらいの。ところが今は8mとかのすごい大きな堤防になってますけど、そのときの信濃毎日新聞に出たのがこんな言葉なんですよ。これはぜひ覚えといてもらいたいんですけど、「千曲の水難昔語り 今日改修工事竣工式 感慨深し二十三年」と。23年かけて今の堤防の基ができたのが、昭和16年。今から70年前です。そのあと、いろいろと指摘改良を進めながら今日まで来ていて、まだこういった漏水の問題も、一部堤防のないところもあると。これからも治水事業というのは絶え間なく千曲の中では進めていかなきゃいけない。
 その1ページの中に実は今日の治水地形分類図という新しい技術を使った堤防の質の向上、また、治水事業の必要性についての皆さんへの説明力を上げること、さらには堤防の危険箇所を素早く発見する技術、さらに安く調査をする技術。いろいろに新たな技術として治水地形分類図が登場してくるということだろうと思います。
 その中で、ぜひ忘れていけないというのはやはり、この基本を築いた全ての物事には始まりがあると言いましたけれども、実は始まりは今から70年前にできていた。その23年前に改修工事が行われたときに、こういったすごい石碑を作って皆さんが、これは改修紀功碑という、見たことある人多分いると思うんですけど、これは長野市の城山公園に建っています。これはぜひ見ていただければと。あとで、人間との対比も分かりますから見ていただければと思います。
 私は五十周年のときに、ちょっと周りをきれいにしてみんなと整備をいたしました。この千曲川の改修と礎と言いますか、事業を進めるのに千曲川治水会という推進団体が大正5年にできているわけですけれども、その会長が小坂順造という人でした。
 これがそのとき改修した石垣ですね。
 今日は延徳沖の議論がありましたけれども、延徳沖の治水事業を一生懸命やった4人組がこの方たちで、この人が柴本泰蔵さんという方だったですかね。いう方で、『延徳三十三年史』というのを書いてます。私もここに持って来てますけども、そういったこの人たちの働きもあって、千曲川治水会が生まれ、千曲川の改修工事が長野県の中で議会の議決を経て、今から70年前に堤防ができたということで、こういった人々の努力の流れの中にわれわれも一石を投じるというか、流れの中の1つに連なることができるということではないかと思います。
 今から20年ぐらい前ですね、五十周年のときにみんなで千曲川の、これは私が千曲川の事務所におったときだったんですけど、事務所の基本の始まりはここからだと。千曲川の改修が始まったことによって、事務所が存在して、恐らくこれからも世のために役に立ってかなきゃいけないんじゃないかなというふうに考えた次第です。
 今日、皆さんお集まりいただきまして治水地形分類図、話し合いましたけども、この治水の人の流れの中に、この分類図を作っている皆も加わりながら、千曲川のより安全で豊かな川にしていくということが、これからも絶え間なく続いていくということではないかと思います。ちょっと蛇足を言わせていただきました。ありがとうございました。

(安達氏) 
 どうもありがとうございました。
先ほど利用について、パネリストの皆さんから貴重なアドバイスをいただきますとともに、最後に熊谷さんのほうから、一期改修につきまして豆知識いただきました。それでは今日のパネリストの皆さんに拍手をお願いいたします。

(司会)
 それでは、大変ご苦労様でございました。以上で第27回千曲塾を終了いたします。どうもありがとうございました。
 



 

 

 

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