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第1回議事録

第1回千曲塾

15:00〜15:15●はじめに 梅田 和男(千曲川河川事務所長)
15:15〜15:25●挨拶 市川 健夫(長野県立歴史館館長)、話題提供 市川 健夫(塾長)
15:25〜16:05●講演「寛保2年の天候」樋口 和雄氏(東信史学会会員)
16:05〜16:15●質疑応答
16:15〜16:55●講演「千曲川瀬直しに見る村人の反応」岡澤 由往氏(東信史学会会員)
16:55〜17:05●質議応答
17:05〜17:30●意見交換
17:30     ●閉会

 


 

司会:皆様、本日はお忙しいところ、大勢の方に集まっていただきまして、ありがとうございます。私は司会を担当する千曲川河川事務所の杉本と申します。どうぞよろしくお願いいたします。
 初めに主催者を代表して、国土交通省千曲川河川事務所長の梅田から、千曲塾の要旨について説明させていただきます。
梅田:千曲川河川事務所の所長をしております梅田でございます。本日は皆さま方お忙しいところ、大勢千曲塾にお越しいただき、ありがとうございました。開催に先立ち、千曲塾について説明させていただきます。
 私どもは千曲塾の旗を作りました。こちらにマークがありますが、これは切り絵作家の柳沢京子さんの方で作っていただいた、千曲塾のイメージということでございます。この旗は、いろいろなところで千曲塾や、現場などで機会があればこういう形で使っていきたいと考えています。千曲塾に入る前に、少しイメージをつかんでいただくため、千曲川の概要と千曲塾についてご説明させていただきます。
 まず、千曲川の概要ですが、これが長野市の赤坂地点の写真です。皆様ご承知のように、千曲川の源流は甲武信岳で、山梨、埼玉、信州との境界にあり、標高は2,475メートル、こちらを源流としています。
 一方、犀川ですが、源流は北アルプスの槍ヶ岳とされ、こちらは標高3,180メートルで、梓川と高瀬川に分かれた後、下流で犀川になります。ご承知の通り千曲川と犀川は長野市の善光寺平で合流し、新潟県に入って名前を信濃川と改め、途中で魚野川と合流し、日本海に流れています。
 ここでは善光寺平の千曲川と犀川の合流点、そして魚野川との合流点、さらに河口の様子を写真で見ていただきたいと思います。
 こちらが千曲川、こちらが犀川です。ちょうどこの地点で犀川が千曲川へ流れ込んでいて、現況河床が千曲川の方が低いということで、千曲川が本流であります。新潟県に入りまして、大きな川が合流、これが魚野川との合流点です。非常に流量が豊富でございます。そして河口に行き、新潟港で日本海へ注がれます。
 千曲川の語源ですけれども、もともと千曲川は万葉集にも歌われていて、「信濃なる 千曲の川のさざれ石も 君し踏みては玉と拾はれ」とあり、万葉集で1,300年も前の頃から千曲川と呼ばれていたことが分かります。そして鎌倉時代に入り、吾妻鏡や源平盛衰記、平家物語などにも出て来ます。そして江戸時代に入ると、これは吉沢先生からお聞きしましたが、魚野川の合流点まで千曲川と呼ばれ、明治に入って旧河川法が明治29年に制定されました。この時に新潟県境から先については信濃川と呼ばれるようになったということです。
 次に千曲川の歴史ということで、ご覧いただきたいと思います。まず古墳時代のことですが、古事記に日本で最初の堤防、「まんだのつつみ」が仁徳天皇によって築かれたとあります。先ほど言いました通り、万葉集に千曲川が歌われています。さらに平安時代、これも千曲川のサケが都に献上されたという記述があります。そして鎌倉・室町時代ですけれども、この時代は庄屋を中心として、主に千曲川の流域の支で河川の改修工事、あるいは自然堤防を利用した水との共存が行われていたと思われます。
 次に戦国時代の初期にかけてですが、この時期は本格的な河川の工事が始まったということで、皆様ご承知の通り、例えば武田信玄の信玄堤とか、あるいは加藤清正といった戦国大名によって治水工事が始まった時代でございます。現在分かっているところでは、古代から江戸時代末期にかけての主な河川工事は約百件で、そのうちの約半数はこの時に築かれたものとされています。やはりこの戦国大名が領民の安全と国を豊かにする、自らの力と富を蓄えて、領民と武士が一体となって行われたのであろうと思います。
 一方、信州についてですけれど、この千曲川流域はご承知の通り川中島の合戦があり、武田・上杉の争いの場になったものですから、他の戦国大名のところとはやや違ってなかなか大規模な治水ができなかった。それで江戸時代に入ってからの千曲川流域ですけれど、松代の真田藩、これが10万石ですが、流域に中小の藩とその間に幕府の天領があって細分化されていました。従って、どちらかというと各領内での治水や利水はありましたが、統一的な対応がなかなかされにくい状況だったと思われます。そして明治・大正に入ってからですが、千曲川は初め村々が管理し、その後県の管理となりました。
 そして明治10年、この頃はオランダの技術が入り、千曲川でも「ケレップ水制」が作られたということで、去年・おととしの8月の洪水の時にこういうのが河床から出て、現在現地で保存されています。
 明治29年に1級の河川管理令が出され、本格的に河川工事にとりかかるきっかけとなったということで、特にこの同じ時期に千曲川では明治最大の洪水が起こっております。これは当時書かれた絵とか、洪水位標で分かります。
 千曲川は現在、国土交通省が管理していますが、国が千曲川を管理するようになったのは大正7年、当時内務省という役所が改修工事に乗り出したのが最初といわれています。これは、昭和16年に完成いたしまして長野県の管理とし、戦後は建設省で管理を再開したという経過がございます。従いまして、国で管理するようになったのが大正7年、1918年ですから、今日で約80年になります。
 次に昭和の状況ですけれども、大きな洪水としては昭和20年10月、そして24年9月の2回。20年10月には飯山と犀川の青木島で大被害が発生しております。それで、24年のキティ台風の時は須坂と上田で洪水警報が発令されております。こういった状況を踏まえて、昭和24年、いったん長野県に返した管理を、建設省の方で工事を再開したということです。そして、その後39年8月に大きな洪水がありました。そして、ご承知の通り57年、58年にも大きな洪水がありまして、57年は樽川と千曲川、58年は飯山で破堤しました。平成9年の河川法改正を踏まえて、河川管理の整備、河川整備計画に地元の皆さんの意見を反映させた制度に変わってきました。それが千曲川における昔から今日までの経緯です。

 次に千曲塾について、私どもがこれを取り上げたきっかけですが、過去にさかのぼること80年でございます。しかしながら、先程見ていただきましたように、万葉の時代から千曲川はこの地域の文化に密接に関係している。そこで千曲川と地域のかかわりをさまざまな視点で、いろいろな切り口で説き明かすことで、理解を深めたいと思うのです。
 実施方法ですが、皆様方といろいろ相談しながら、柔軟に対応していきたいと思っています。いろいろなテーマで地域の方から、特に詳しい方から話題を提供していただいて意見交換していく。あるいはこういったものをひもといたりして、私どもも一緒にお手伝いしたい。それをまたその場で皆さん方にお返ししていきたいと考えております。
 参加予定者ということで、塾長を本日の会長であります長野県立歴史館館長の市川先生にお願いしました。この千曲塾ですが、塾長と講師以外の皆様はすべて塾員ということですので、みんなでいろいろ見たり聞いてもらえればと思います。
 テーマに関する専門家ということで、8月にこの千曲塾の前段というような形で講演会を開いた時に、市川先生と併せてご講演をいただきました。2001年に日本で「世界水フォーラム」があり、世界各地から専門家がお集まりになります。その日本事務局も担当されます尾田楽生舎舎生、それと長野県立歴史館、史学会、郷土史一般の皆様方。それと、学識者ということで信州大学工学部、関係機関から河川管理、行政関係者、あるいはお手伝いいただいている北陸建設弘済会、さらに希望と関心のある方ならご自由に参加できる、というような形でございます。
 それで、この塾をどんなテーマで行うかということですが、私どもとしてはいろいろ意見を伺おうとは思いますが、一つは歴史的洪水、今回は寛保の洪水となりましたけれども、これ以外にも歴史的洪水に関して、水害とか、あるいは昔の伝統的な河川の工法、あるいはかんがい用水ですね。水がどのように利用されているか、水にまつわる神々、水神など地域の伝統行事、いろいろあります。それと川ですね、千曲川沿線の地名をよく見てみますと、川に関係してついた地名がたくさんあります。地名と川は関係あるんですね。また、川というと漁業とか、千曲川の昔の漁法とか、あるいは街道には渡しがあります。ほかにもいろいろテーマはあろうと思いますが、そんなことをやれたらと思っております。
 いくつかイメージということですが、これは歴史的洪水かと思いますけれども、善光寺地震で犀川が浸水したときの絵図ですね。
 これは大正7年に、内務省で堤防工事が始まった時のものです。幕末以後についてはこういった写真が残っておりますが、江戸時代、幕末以前はありませんので絵図になります。その写真を見ていただきますと、例えば伝統工法ですね。昔の千曲川はこうだった。これは当時の護岸工事の時の舟ですね。昔はこうした舟で護岸工事をしていたという記録です。これは上山田温泉です。当時昭和10年の上山田で手づかみで鮭を捕っていたということですね。江戸時代後半から千曲川では渡し船で年貢米を運んでいた。明治に鉄道が開通する前は渡し船が交通機関として使われていたわけです。
 次にこれも同じく舟ですけど、これが昔の小布施橋です。現在の橋になる過程でこういった舟走りですね、舟をたてて、走るやり方が行われていました。
 それで今回は第1回の千曲塾ということで、テーマを「寛保の洪水」といたしました。講師として、東信史学会の樋口先生から寛保の洪水、天候がどのように記録されているかを。それと岡澤先生から寛保の洪水に関係して松代藩が大規模な工事をしたといったお話をしていただきます。
 今なぜ寛保の洪水かということですが、これは事務局で、私どもの方で独断で決めたわけです。千曲川が57年に大規模な破堤をしたように、千曲川は増水でたびたび破堤しています。昭和58年には飯山で破堤しております。両岸に対して破堤したということで、具体的にこういった動きがあったわけです。善光寺平に今「昔の洪水」を示すものが残っておりまして、こちらに堤防沿いにある妙笑寺というお寺、そしてこれが長野新幹線の車両基地の近くにある善光寺平水位標であります。妙笑寺のお寺の本堂の柱に何年何月と、代々の住職さんによって受け継がれています。これが境内にこういった形で残されています。これが1742年の寛保の洪水で、当時一番大きな洪水なんですが、飛び抜けて高く、これに関しては各地で論議がなされているということで、取り上げてみたわけです。
 同じようなのが小布施地方にもあります。それで1回目、2回目の話をちょっとさせていただきますと、とりあえず寛保の洪水、これは話題がけっこうありますので、次回も取り上げたい。しばらく寛保の洪水を取り上げた後、千曲川のサケについて年に3回か4回ほど行いますので、皆様方にお越しいただきたいと思います。
 それと併せて、私どもの事務所で昭和62年に「千曲川の今昔」という資料を地域の先生方のご協力でまとめています。次回は新しいこの本を2回目に参加いただいた皆様にお配りして、参考にしていただきたいと思っています。
 以上で終わらせていただきます。ありがとうございました。

司会:どうもありがとうございました。それでは当千曲塾の塾長であります市川健夫先生にごあいさつをお願いいたします。
市川:市川でございます。本日はこの千曲塾に多数の皆さんにお越しいただき、まことにありがとうございます。
 千曲川は先ほど所長からお話がありましたように、日本で一番長い川でございます。流域面積では利根川の方が広いのですが、長さにおいては367キロと日本で最長です。長野県下では、佐久、上田、長野、飯山の諸盆地を経て新潟県の十日盆地に入ります。下流の越後平野は日本最大の沖積平野です。この沖積平野の厚さは千メートルに及びます。この沖積土のほとんどが信州から運ばれたものです。現在私達がいるこの歴史館における沖積土の厚さは94mです。長野盆地で一番深い所の沖積土が200メートルです。
 なお、この変化に富んだ千曲川・信濃川ですが、そこでいろいろ研究テーマがあると思います。千曲の川べりを見ましても地域の文化は風土をよく反映しています。
 大正15年に田中阿歌麿呂先生が「野尻湖の研究」という、分厚い本を書きました。その中に小布施の山王島の舟大工が造ったといわれる川船の設計図が入っています。ところが今、山王島へ行って舟大工のことを聞いても分からないのです。しかし、飯山に一人の舟大工が元気でおられます。私もお会いしたことがありますが、その方は和船を造る和釘を持っておられました。もしも機会がございましたら、この会に生きた証人としてお呼びして、千曲川の川船はどのようなものがあったのか、学習したいと思います。
 通船や渡し舟ですが、用途によっていろいろな舟がありました。川船が舟橋の下を通過する時、帆を倒して橋をくぐったならば、すぐ立てないと船は止まってしまいます。そこで素早く行動しなければなりません。また、冬でも法被の帯を締めません。そこで体が冷えるので、船頭達の寿命は40年代で終わったといわれています。
 このように長年信州人と歴史の中で付き合ってきたのが千曲川です。これを歴史とか民俗とからのみでみるだけでなく、これからは経済学など社会科学、自然科学、河川工学などいろいろな分野から学際的に勉強していきたいと思います。きょうはお二人の先生に貴重な報告をいただくわけですが、いろいろな問題提起をいただければ、この会が大変有益なものになるかと思います。よろしくお願いします。
司会:どうもありがとうございました。ではさっそく第1回の千曲塾を開催させていただきます。

「寛保2年の天候」
樋口 和雄(東信史学会会員)
司会:それでは、東信史学会の樋口和雄先生に寛保の大洪水ということで、天候や気象などについて話題提供をお願いいたします。
樋口:樋口でございます。千曲塾の第1回の勉強会に話題提供の機会を与えていただきまして、ありがとうございました。私は寛保2年の天候ということで、日本気象資料から寛保2年の気象状況を調べたわけですが、日本の雨の降り方、特に豪雨の降り方について話をしたいと思います。日本気象資料の寛保2年の分については全部、きょうお配りしたコピーの中にありますので、ご覧いただければと思います。私のつたない話が防災の方に少しでもお役に立てれば幸いと思います。
 千曲川では、いまお話があったように寛保の洪水が最大のものですが、江戸では天明6年の記録に、寛保もひどかったけれど、それを4尺程上回る水が出たという伝えがございます。
 それから寛保の時に、秩父の矢那瀬の磨崖碑によれば、「荒川のごときでは実に60尺の増水があった」と書いてあります。これがどうも事実のようでして、この千曲塾とも今後いろいろかかわっていかれるでありましょう井出孫六先生が、去年の秋にここを見て来られたというお葉書をいただいております。なお雨というのは局地的なものですので、天竜川では未満水として、1715年(正徳5)のものが語り継がれております。
 この天明も寛保も、また天竜川も全部、いわゆる小氷期と呼ばれる、今よりも寒冷な気候のもとで起こったことであります。その辺についても後でお話をしたいと思います。
 それでは今日の資料のナンバー2をご覧いただきたいと思います。これは長野市出身の倉島厚先生の書物ですけれども、東日本と西日本で雨の降り方が違うということがお分かりいただけると思います。東日本の方は梅雨が北上していって、それから秋雨前線が南下していることが非常にきれいに分かります。北海道には梅雨がないと言われる理由がこの雨量のピークがほとんどなくなっていることで、お分かりかと思います。
 それに対して、西日本の方は圧倒的に梅雨が突出しているわけで、秋雨の方はそんなに降っていないわけですね。台風銀座と呼ばれる西日本でも、平均すると、やはり梅雨の頃の方が雨が多いのです。この資料のナンバー6をご覧ください。この中ほどに御代田の雨量が出ていますけれども、御代田の場合には、梅雨と秋雨前線の2つのピークがきれいに出ており、典型的な東日本の形だということがお分かりいただけると思います。
 次に資料3をご覧いただきます。これは鈴木秀夫先生の「氷河時代」という講談社文庫からコピーさせてもらったものです。ここには上が1月、下が7月の世界の気候が出ておりますけれども、この糸屑が絡まったようなものは、この1か月の前線をすべて地図の上に落としたものです。だから前線のところでは、なにがしかの雨が降ると思っていただければいいわけです。
 下は7月です。これもいわゆる前線については一緒なんですけれども、赤道あたりのところで、NITCとSITCの間に矢印が示してあります。これが赤道西風と呼ばれるものでして、1月の頃はオーストラリアの北の方を通っていたものが、7月にはインドの方へ来ています。この赤道西風というのは、冷たくて多湿で背が低いのです。ですからヒマラヤ・チベット山塊が暖められて上昇気流が発生すると、そちらの方へ赤道西風を呼び込むのですが、赤道西風はヒマラヤ・チベット山塊を越えることはできません。それでもチベット山塊の東側で高度が減少した辺りで、一部が勢い余って北上してくるわけです。それが日本に非常に多くの雨を降らせるということが、最近分かってきたわけです。
 ナンバー4をご覧下さい。これは今お話しした赤道西風がどうやって日本に入ってくるかということを非常にうまく表したものです。一番上の図は、5月13日、梅雨の前の時には3,000メートルの上空でまだインドでは東風が吹いております。それが同じ18日になりますと、インド南部では南西風、赤道西風が入ってきます。それで5月28日までの10日の間に、インドから東南アジア全部が、南西季節風に覆われて、その一部がさらに北の方へ来ている様子が分かります。それが東南アジアの雨期、モンスーンの始まりで、これが日本の梅雨とも関連するわけです。
 続いてナンバー5をご覧ください。これはアメリカからもらったものです。右の方に1月が、左の方に7月の雲の平均分布が出ております。1月の時には赤道西風はオーストラリアの方へいきますから、東南アジアは乾期であります。7月は東南アジアも雨期になるわけですが、雲の平均分布はこのようになっています。
 ナンバー5の下は梅雨最盛期における水蒸気の輸送分布で、これが実に驚くべきことを示しています。インドの西のベンガル湾の方から、水蒸気が東南アジアと中国大陸を通って日本の方へ来ております。1972年(昭和47)ですけど、この年にはゲリラ豪雨といって、あちらこちらでものすごい豪雨が降ったんです。そのうちの幾つかは前線も低気圧もないのに豪雨が降った。気象関係者は非常に慌てました。その後、詳しく調べていく中で、水蒸気の輸送がこの図のようだったということが分かったわけです。
 ではなぜインドで水蒸気が落ちなかったというと、インドの辺りはこの年、乾燥していて下降気流だったんですね。下降すると断熱圧縮で温度が上がりますから、水滴は落ちないんです。それが日本の辺りに来て急激に上昇して、断熱膨張でものすごい雨を降らせたわけです。ですから今まで大雨というと、特に梅雨の雨というのは太平洋の小笠原高気圧と、オホーツク海の高気圧との間の梅雨前線というだけの理解で、今もって教科書にはそういうものしか出ていないんですが、実際にはこのインドを越えた水蒸気の輸送というものが確かめられている、という話になるわけです。
 次に、ナンバー6をご覧下さい。去年の2月と8月のジェット気流の平均が載っております。2月の方が強くて、南に下がっていることがお分かりかと思います。日本よりも南に行ってます。それから8月になると弱まって北の方へ行く、これが毎年繰り返されているわけです。このジェット気流が冬の間、ヒマラヤ・チベット山塊よりも南を流れていたものが、夏は北へ行くわけです。そうすると一度ヒマラヤ・チベット山塊にぶつからざるを得ないわけです。実はこの時が梅雨の始まりなのです。夏弱まっていたものが、大陸の大気が冷えてきて、ジェット気流が強まりながら南へ下がってくる時に、もう一度ヒマラヤ・チベット山塊を今度は北から南へ越す時が、秋雨の頃にあたるわけです。
 1742年の寛保の頃は、先ほど申しましたように「小氷期」で寒冷な時でした。寒冷と言えば1993年、平成5年も寒く、米ができなくて外米を輸入せざるを得なかった。あの年は梅雨明けがはっきりしなかったのです。梅雨前線と秋雨前線とが間断なく日本付近にあって、本当の夏らしい夏がなかった。おそらく小氷期の時は、そういうことがほとんど当たり前だったんじゃないかと思うわけです。
 私は先ほど小氷期、小さな氷期という言葉を使いましたが、ナンバー7をご覧ください。こちらには左右に2つの図が出ていますが、小氷期というのはいろいろな言い方がございます。ヨーロッパの学者は、「1430年くらいから1850年くらいの間は小氷期で寒かった」ということで、日本の多くの学者もそれにならっていました。左の方に山本武夫さんが作られた非常に面白い図が載っております。一番上にヨーロッパの気候変動があり、ロンドンは南西風の頻度が大きい日は暖かい、少ない日は冷たいとあります。オランダの1月の気温とそれとは、うまく合ってますね。その下の「日本災異誌による気候変動」でみますと、1400年から1500年の間は洪水や大風、台風の襲来がその前後に比べて非常に多いということが、このグラフで分かります。またこの間は天候が不順だったことから、土一揆の回数も多くなっています。
 次に右の方の「岩手県災異年表」によりますと、1751年から1800年くらいのところに非常に明確な特徴が見られます。この時、大雨、洪水、飢饉等、いずれも多くなっています。これも天候の悪い時であり、農村騒動の回数も増えてますし、東北地方では人口さえも減っています。1400年代のものは1460年・1461年の寛政の大飢饉に対応しますし、1700年から1800年に関しては天明や天保の飢饉が相当するわけです。これは山本先生がほかの人の研究資料を用いて、自分の主観を抜きにして小氷期というものをうまく説明していると思います。
 この小氷期とされる1813年、22年、24年には、「摂陽奇観」という書物に淀川が凍ったとあります。1824年は「川々凍り通船相成らず。淀川筋30石舟上下止む。川々之氷の上を渡って往来したため、氷の薄い所では氷が割れて溺死する者が多かった」という記録が載っております。一方で、暖冬の記載も多いのです。暖冬冷夏という年が多く、天候が不順な時は揺れが大きくなっています。
 小氷期の夏が寒い時には雨が多い、ということも事実で、1742年も寒かったわけです。資料8が、日本気象資料のこの年のものを一部を除いて洪水や暴風雨について全部載せてあります。この日本気象資料は、田口龍雄さんという方が神戸の海洋気象台に採用されたその頃、昭和9年に室戸台風で大水害が起きました。そこで気象台は、田口さんに命じて古記録を掘り起こすという事業をやってもらいました。田口さんは5年をかけて完成させました。日本気象資料はどこの気象官署にもあるようですけれども、原書房から復刻版が出たわけですが、絶版で手に入らないということで私はコピーを持っております。
 それで、きょうの最後の方に出ている資料12には、私が「寛保2年の天候」と題して東信史学会の「千曲」107号に書かせてもらったものがあります。その中に(1)から(10)まで、こういう言い伝えがあるという項目だけ並べてございます。この頃は非常に雨が多かったわけで、日本気象資料によりますと九州福岡辺りの「石原家記」に、「当年5月末より雨繁し、同30日より大雨、6月1日洪水、その後雨降り続き…」とあり、「7月の盆の後までに大水、小水、33度に及ぶ」とあります。非常に洪水が多かった。それが寛保2年の5・6月であります。
 それから、左上の段の「小県郡史の餘篇」に出ていますが、「寛保2年、前年寒中より雨しばしば降り、この年の春に至りなお雨の日多く、夏に至りてまた降雨打ち続き、7月中ほとんど雨を見ざるの日なし、なかんずく7月27日の夕刻より降り出し…」ということで、8月1日の寛保の洪水につながるわけです。ここにも地元の記録として雨が非常に多かったことが書かれています。菜種梅雨という言葉がありますが、寒中から菜種梅雨、そしていわゆる梅雨前線から秋雨前線へと絶え間なく雨が続いたのです。8月1日は新暦に直すと8月31日ですので、秋雨前線です。
 寛保2年の雨量は次の図のように推測されます。
 梅雨と秋雨前線による二つのピークが出現する東日本型に対して、

 (1) 梅雨前線と秋雨前線の活動がつながって、夏がなかったので2つのピークは連なった。
 (2) 暖冬で冬から雨も多く、菜種梅雨も盛んであった。
 (3) 台風が前線を刺激して大洪水が発生した。
 ということになります。
 1993年(平成5)は、まれにみる冷夏で、翌年1994年は一転して数十年の記録を破る暑夏になりました。両年の夏平均500hpaの東西風速をご覧いただくと、500hpa、すなわち5,000m上空の強風域が冷夏の1993年には西日本の上空にあり、太平洋高気圧が発達できなかったこと、夏らしい夏がなかったことが分かります。

 1993・1994年と冷夏と暑夏が隣り合わせに出現したことは「日本旱魃霖雨史料」でも1600年以降しばしば発生しています。1600年から1850年までの250年で旱魃と霖雨とも無縁であったのは23年だけです。深刻なものは旱魃より霖雨の方が多いです。霖雨は6年間で5回も深刻なものが発生している例もあります。隣り合わせの出現もしばしば見られます。小氷期とは気候変動期ですので、気象災害が多発しています。
 日本気象資料によりますと、寛保2年は6月3日は摂津で大雨洪水、13日には讃岐で大風、16日には江戸で風雨、7月2日には陸奥で洪水、7月11日は近畿で大風雨と、いろいろなことが出ています。きょう、私が作って1枚だけお配りしている紙をご覧いただきたのですが、表題が「寛保2年8月の洪水」というものです(資料9)。ここでは7月21日から8月12日までを時系列に並べてみたわけですけども、「続日本王代一覧」では、27日の未の刻より五畿内大風雨ということで、いつ雨や風が強くなったかということはよく分かりません。近畿の方は27日から雨が降ったということだけは分かります。ところが、その右の方にある武江年表では8月1日の昼、八つ半の時に大風雨になったとあります。風がいつ吹き始めて、夜通しやむことがなかっということも書いてあります。
 その次に「金地院記録」いうのでは、28日からの天気が書いてありまして、28日の頃から雨が降り出して、8月1日には午の刻より寅まで、東南の風が激しかったと書いてあります。これは非常に長いですね、16時間にも及ぶわけですから。これは台風か熱帯低気圧か分かりませんが、それが足踏みした、停滞をしたということですね。この記録をそのまま信用すると、ずいぶん長い時間強い風が吹いた。で、翌日の午後4時位に雨がやんだとあり、2日後には利根川の土手が切れています。その右の続むさしあぶみでは、8月1日九ツ半時、これより大風雨で、風は北東の風で、夜の10時位に南風になったと、風が変わることまで書いてあります。それは江戸の西側を台風が通りすぎたという説明になると思います。
 「出水1件」というのに至っては、8月1日両国の大川筋で水位が段々増してきて、朝六ツ時過ぎに満潮だったこと、その時の水位は8、9尺も高くなった。夜中から南東の風、すなわち台風が通りすぎた吹き返しで、海の方から逆流していることが書いてある。
 こういうふうに、台風が1日の夜から2日の朝にかけて通り過ぎるわけです。江戸の金地院記録では、3日から6日まで晴れるわけですね。台風一過ですが、実は5日に利根川の堤が切れたということで、結局、台風は過ぎたけれども、利根川の源流ではまだ雨が降っていた、増水が続いたということになると思います。それでこの年には、8日に江戸並信越諸国大風雨、洪水ということで、特に新潟県がひどくやられたようですけれども、金地院記録には、午後2時位に風がやんだと書いてあります。
 それから、「徳川実紀」には、「関東の国々、あまたの所出水し浅間山崩れ、松代、小諸、そのほかの関宿の城みな大破し…」と書いてあります。ところが調べてみると、松代も小諸も、お城がやられたのはどうも8月1日、2日のあたりなんです。小諸のお城がやられた時に中沢川というところで鉄砲水が起きたことは分かっていますが、山が崩れたのではありません。高峰山の少し左側、今、赤ゾレと言ってますけど、ここに大きな崩壊の跡があります。今はそこに道路があって通るにはちょっと怖いくらいです。それが深沢川に落ちて、「押出」という地籍を作った。昭和47年には押出に地滑りが発生して信越線が一時期、ちょっと危ないところまでいったことがあります。これは大雨の後で大地が飽和状態の時に、もう1回台風が来ると非常に被害が大きくなるという1つの証拠になると思うんです。
 この後の資料を説明する時間がありませんが、昭和57年の台風10号と18号について調べたものが、資料として載っています。この年には2つの台風が上陸して21号が本州をうかがったが、幸いに少し東にそれてくれたから良かったのです。3つ目が上陸していたら、長野県の災害は本当に恐ろしいものになったのは間違いないわけです。
 その頃、57年の洪水の時は飯田よりも軽井沢の方で雨がずっと降った。これはどういうことか、資料に載っていますから後でご覧いただきたいと思います。
 次にレジメの2枚目にある「妙笑寺本堂の水位記録」というところです。私は「長野郷土史研究会」からお借りして、慶応元年に4番目の洪水があったことを記しました。今回いただいたご案内で、それは慶応元年ではなく明治元年だということが分かりました。これも日本気象資料で調べたわけです。旧暦の明治元年5月に「慶応4年5月9日に洪水があった」ということで、戊辰戦争の戦記に「信濃川が増水して、小千谷の水位一丈八尺に及び濁浪怒號」ということで、間違いなくこれは明治元年の洪水だったということです。いただいた資料の方が正しかったわけです。
 レジメの7はいくつかの豪雨についてです。特に昭和34年の伊勢湾台風、36年6月の伊那谷の「三六災害」、同年9月の第2室戸台風と相次いだ風水害をきっかけに、災害対策基本法ができるようになりました。その辺をちょっとお話しようと思っていましたが、時間をオーバーしましたのでこれで終わらせていただきます。

司会:樋口先生のお話につきましてご質問、ご意見などございましたらお願いします。
質問:私は治水計画を専門にしている関係から雨の量を把握する必要があります。ご説明いただいた資料から、雨の量をどのように推察したらよいのかお聞きします。
答:この研究会の何度目かにハザードマップというか、現在の地形の所にどのくらいまで水が来たかということを、千曲川河川事務所の方でお示しいただくようですけれども、昔の資料では雨の量は分かりません。ただ、新しいものに関してはきょうの資料の10・11のところで塩名田、生田の水位の変化が出ています。1982年の台風の水位をご覧いただけば分かるように、昔は雨量の観測はありませんので、最高水位で推測するしかないわけです。
質問:水位と水量の関係は非常に難しいと思うんですが、その辺はいかがでしょうか。
答:水位は立ケ花でもやっておりますので、最近の立ケ花辺りの水位と水量は分かります。妙笑寺辺りの最高水位から立ケ花の水量を推定するしかないんです。江戸時代の水位はあっても、水量はどこにも出ておりません。高さがどこまで来たという記録しかございません。詳しいことはちょっと無理じゃないかと思います。
質問:小氷期、寒冷期の時に雨が多いというご説明ですが、気候変動の議論では地球が温暖化すれば、降水量の幅が大きくなって非常に雨が降りやすくなる。そうすると、雨の降り方の変動が非常に大きくなるのではないかと、言われているんですが、温暖化すれば雨の降り方が少なくなるのか、何かお考えがあればお聞かせ願いたいのですが。
答:前段の部分では、ここにも出ていますけれども、長崎の豪雨というのは猛烈なものでして、これは赤道西風が入ってきたことがいろいろな書物に書いてあります。降り始めてから1時間で河川が氾濫して、2時間で土砂災害が発生しています。小氷期に雨が多かったというのは先ほど申し上げたように、梅雨前線とジェット気流が北へ上がれなかったために、梅雨前線と秋雨前線が日本の辺りでいつもうろちょろしてたんじゃないかと言える。現に平成5年もそうでした。
 ところが温暖化してくると、日本の辺りとか、アメリカの中西部の辺りはトータルで見ると乾燥するけど、局地的なすごい豪雨はあるらしい。それは私が「千曲」にも書いたんですが、気候帯が少し北へ移動したような感じで、最近の梅雨は、なんかえらく荒っぽい降り方をするということでですね。平成10年ですか、新潟・北関東でものすごい豪雨がありましたけれども、あれも典型的なもので、地表には赤道西風の湿った冷たい(冷たいといっても南から来るから暖かい)ものがあり、上空に乾いたジェット気流があって、上が冷たい、下が湿って暖かいという、大気の成層がものすごく不安定になって豪雨になった。時に豪雨が起こっても、総量としては温暖化すれば、日本辺りでは雨は減るんじゃないかというのが、大方の見方です。
質問:今日、配布された千曲川・犀川・梓川の「自然の猛威」というところの一番下に「台風の動きと洪水の関係」という統計があります。そこでお聞きしたいのですが、寛保の洪水はこの1番2番3番のうち、どれに近かったと思われるか教えていただきたいのです。
答:これから見ると3番みたいな感じがしますけれども、尾張の辺りの水害の記録はないんですね。ですから近畿の方で降って、江戸の方で降って、途中の東海道筋であまり大きな洪水が起こっていないというのは、台風がどう通ったかよく分からない。台風と別の熱帯低気圧がそれぞれ江戸と近畿でいたずらしたのかもしれません。
 徳川実紀(有徳院殿御実紀附録巻四)には、「寛保二年八月風雨はげしく、そのうえ信濃国浅間山、武蔵国秩父三国峠よりも山水多く湧出て関八州水害をびただしくわきて…」とあります。強風の中心が三国峠から浅間山までの関東山地であったわけです。
 しかし、江戸に来たのは台風で、台風の後で幾日か晴天が続きます。だけど利根川は増水を続け、3日位たって利根川がまた切れた。この頃は秋雨前線ですが、秋雨前線は北の方に停滞したのでしょうか。この1、2、3のどれかと言われたら、分からないというのが正直なところです。
司会:どうもありがとうございました。


「千曲川瀬直しに見る村人の反応」
岡澤 由往(東信史学会会員)

司会:次は2番目の話題を提供して下さる岡澤由徃さんです。お願いします。
岡澤:ただいまご紹介にあずかりました岡澤でございます。昨年7月、東信史学会の中島先生のご紹介で、東信史学会の会員に入れさせていただきました。ほやほやでございます。
 「千曲」に投稿しました「千曲川瀬直しにみる村人の対応」がきっかけで、千曲塾第1回の講師としてお招きいただいたわけです。立派な諸先生、それから専門家の皆さん方を前にしてお話することは、まことにお恥ずかしい思いがするわけですが、これも私が住んでいます小島田町の地域おこしの一環になるかと思いまして、意を決して参ったわけでございます。
 私は物心ついてから現在に至るまで、千曲川と千曲川の中で育ち暮らしてまいりました。先ほど、最初の方で所長さんから千曲川の概略が説明されました千曲川の通船、渡し舟の話ですね。これは、千曲川から2キロも離れている私の家からも千曲川通船の帆が見られたと、私が母親から聞いたものです。それからサケの話ですが、私の家の裏側に鯨沢堰という大堰が流れております。犀口から取水した用水が千曲川へ流れていく大堰です。私が子供の頃、私の父が裏の川で鮭を捕まえました。鮭が千曲川から遡上したのです。大滝にダムができる前のことでしたので、多分昭和12年前のことだったと思います。
 このように母から千曲川通船の話を聞かされたことや、父親が家の裏の大川で鮭を捕まえたことなどを通して、私と千曲川とのかかわりが始まったわけです。
 千曲川が水増しになればなったで心がときめきました。それは父が川漁が好きで、戌久保という所に四つ手網場を持っており、父は千曲川が増水しますと四つ手網漁に出かけたからです。私は父の後について四つ手網に行きました。網を引き上げるごとに水音高く飛び跳ねる魚の姿に、時のたつのも忘れて見ていたものです。
 さらにこの戌久保というところに、畑がございまして、その畑に行くのも楽しみの一つでございました。家からこの千曲川端にある畑へは2キロほどありました。歩いていくのでだいぶ時間がかかりましたが、鎌を片手に草かきを担いで、あるいは鍬を担いで父親の後についていくのが楽しみでした。野良仕事が楽しかったわけではありません。父は魚釣りも好きで、畑へ行くと千曲川に投げ針をするのです。畑仕事が終わると糸を引き上げるのでした。このことが楽しみだったわけです。そういうことで、幼少の頃から千曲川は私にとって思い出の多いところでありました。
 さらにですね、今日は小島田地区の町内会長として、近代的護岸工事が進められております千曲川と、千曲川の長堤を生かして町おこしをしたい。こんなふうに考えまして、昨年の10月頃に、長野市長との行政懇談会の中で、千曲川護岸工事の仮設道路を利用して、親水道路を造ってほしいという要望を提言しました。私は緑地公園課の回答を待っていたのですが、どういう弾みか、農政部長さんが答えてくれました。そして圃場整備をしたらどうかと、いうわけです。そうすれば、国や県や市から助成金が出ると。その制度を利用したらどうかという回答があったわけです。そこで私は親水道路がほしいと理由を説明しました。親水道路というのは、千曲川に素晴らしい護岸工事をしていただいた、あの川べりで親子が散策する、あるいは河原まで行って千曲の水に触れる、そういう道路を造ってほしい。だから農政の問題ではなく、これは緑地公園課か河川課で考えていただく問題です。だから十分検討してほしい、こういうような要望をいたしたわけです。
 それから、1枚お配りしましたのは更北地区の地籍図です。これは「更北の地名」という本に掲載したものをコピーしたもので、地籍の名前が全部出ております。私の町には十の自治会がございまして、この自治会長さん方にも、地域を知っていただく資料としてお配りしたものです。それを増し刷りして皆さん方に資料としてお配りしました。
 この小島田地籍の千曲川の左岸が、一昨年の8月14日の千曲川の大増水で崩落しました。私は農業委員でもありますので、その崩落現場を調べに行きました。涙が出るくらいに悲しく切ないものがありました。哀れなその岸辺を見まして、胸が締め付けられる思いでした。  
 ところが何が幸せになるか分かりません。建設省が緊急災害復旧として護岸工事をやってくれることになったのです。皆さんもぜひ、この千曲川河川事務所でやっていただいた、あの1,500メートルに及ぶ千曲川の情緒豊かな素晴らしい岸辺を見ていただきたい。生まれ変わったこの護岸工事ですが、旧村時代は川辺に木杭を打ち、並べた杭木による護岸工法でした。その工事が終わるたびごとに、小さな村でしたが、村をあげてその工事の竣工記念をやったわけです。
 千曲川河川事務所でやっていただいたこの護岸は、コンクリートのブロック張りによる護岸工事で、陸辺と川辺への法を見ますと、法面が緩やかで幼稚園行くような子供も親に手をひかれて、千曲の川辺まで行けるわけです。そういう素晴らしい工事をやっていただいた。しかも、250年前の千曲川の瀬直しでできた、自分達の町の千曲川の岸辺が、ようやく川岸の土地が流されることなく、素晴らしい千曲川の岸辺を見ることができた。そういうことで、昔の先人達のやったように、この千曲の護岸工事竣工記念事業の資料として、これを皆さん方にお配りしたわけです。記念事業は昨年の8月頃から提案をしておいたのですが、なかなか自治会長さんには理解していただけませんでした。「そんなことはやる必要ない。今までやったためしがない。それは国のやることだ」というんですね。乗ってくれないんです。それはなぜか。過去の千曲川を知らなかったという、ただそのひとことに尽きる、と私は思いました。
 そこでこれを見せて、皆さん方どうですか。小島田の地籍は千曲川に沿って約3キロあるんです。皆さん方の土地は今は千曲川の河川敷になり、川の中に小島田の人たちの土地があったのではないかと。こういうふうに工事がなされないと、曲流部に当たる小島田の土地は限りなく日本海へ運ばれていく。それが止まったのだと。こんなに嬉しいことはない。そういうことを皆さん方に知っていただくために、私はこの資料を出しました。そして何とか理解していただき、ようやくやることになりました。こういうことで物心つく頃から今に至るまで、私は千曲川のかかわりが深い立場にありました。 
 本題に戻りますが、寛保2年の洪水の後、松代藩では千曲川の瀬直しをしたわけですが、当時の松代の殿様あるいは藩の役人達が、田中知事が言うような、目線でもって手直しを考えていたならば、小島田の土地は削られるということはなかったのではないか、というふうに思うわけです。
 千曲川の瀬直しにつきましては、慶長期から宝永期にかけて飯山藩で行われた瀬直し、それから明治3年から明治5年まで、中野の安源寺の丸山要左衛門らが中心になって行った千曲川の瀬直しがあります。これらの瀬直しは千曲川の氾濫を防ぎ、洪水を防ぐ、そうすることで農地を守る。農民や住民の暮らしを守るという、こういう観点からのものでした。
 ところが、松代藩の瀬直しの目的は何かといいますと、松代城を水害から守る、松代の城下町を水害から守る、そのために瀬直しをしたわけです。ですから、飯山藩や丸山要左衛門の瀬直しとは、全く観点が違ったのです。松代藩の瀬直しは領主の立場でやりましたから、瀬直しに当たった村や下流の村々が被害を被ったということになるわけです。
 それで、その皆さん方にお配りしました松代藩領内における千曲川の瀬直しと村人の反応ということですが、これは「千曲」107号に掲載させていただいたところへ、4ページ以降を付け加えたものです。
 2ページの上段のところに、真田松代藩成立期の松代城郭図というのがあります。下の部分が北側です。昔の地図はこういう形です。千曲川が流れておりますが、その真ん中が松代城です。本丸がありますね。それで千曲川と松代城の石垣ですね、松代城の石垣は千曲川とどのくらい離れているかというと、そこに「石垣より川端まで21間」と書いてあり、40メートルほどしか離れていません。だから寛保の大水のときは、お城の庭から2メートルの水があふれたというわけです。
 それから本丸の建物は、1メートル50センチほど床上浸水しました。殿様は舟に乗って西条村の開善寺に避難しました。そこでお城を水害から守る狙いで瀬直しをする。だから飯山藩や丸山要左衛門の瀬直しの精神とは目的が全然違ったんです。
 だからこのとばっちりで流末の村々は被害を受けるようになったわけです。瀬直しをどのへんからやったかといいますと、大体赤坂橋の少し上流、小学校のある辺りから始まりました。それと千曲川の流路は土口の出っ張りから小森にかけて北東に流れていました。塩崎の唐猫の辺りはですね、屋代の辺りから北流した流れは東に向きを変え、雨宮の渡し辺りのところで、斜めに南東の方向へ流れました。これは聖川が流れていますから、その流れに押されたわけです。それで雨宮の方へ流れて行って、今度は森の方から流れてきた沢山川によって北東の方へ押し上げられました。
 こうして川の流れに押されて土口の出っ張りから小森へ北東に流れが変わりました。小森に回った千曲川は今度は犀川三堰によって南東に流路を変えさせられます。犀川三堰は川中島地方の主要用水路で上堰、中堰、下堰といいます。これらの堰は、かつての犀川の支流でありました。この支流を改修して、三つの用水路(堰)にしました。だから犀川が増水しますと、旧支流に当たる低い土地、すなわち上、中、下の三つの堰筋にどーっと流れてくるわけです。こうして今度は千曲川の流れが押されるわけですね、千曲川の流れが。土口から北東に向かったら、今度は犀川から流れてくる三堰の流れに押されて松代城へ向かって流れたのです。こう見て来ますと、千曲川の旧河道はどういう河道であっただろうかということが推測できましょう。
 滝沢先生が作られたこの資料1でございますが、「信州川中島の村々」というのがありますね。これは江戸時代初期の川中島地方の村々であります。今では大体これ等の村は大字になっております。今の大字は江戸時代の村であると考えていただければよいと思います。千曲川に沿って郡境があります。左下の横田村、会村は更級郡、岩野村は埴科郡で、それから東福寺、西寺尾は更級郡ですが、東寺尾は埴科郡、杵渕、西寺尾、小島田は更級郡です。柴村は埴科郡、牧島村、下小島田村は更級郡ですね。上の方にある牛島村は更級郡。それから高井郡大室村、これは今は埴科郡です。
 上の方、下の方に川合新田村、大豆島村、これは更級郡ですね。千曲川・犀川という大きな川が流れているのに、川の向こうが更級郡であったり、千曲川の左岸の地に更級郡があるというはずがないわけです。大きな川のセンターラインぐらいが郡境、あるいは村境というようなことが境界設定の常識と思います。にもかかわらず千曲川の左岸に更級郡があり、それから犀川の左岸に更級郡もある。このことは、かつては川がそういうところを流れていたということになるわけです。だからこの寛保の頃はですね、大体この郡境くらいをセンターラインとして、千曲川が流れていたのではなかろうかと推定できるわけです。
 それから今度は資料2ですが、これは大正2年の松代町付近の地形図です。これがほぼ現在の千曲川の流れです。堤防はありません。この千曲川の落合までの連続堤防が、5万分の1の地形図上に出てくるのは昭和9年です。昭和5年には堤防はありません。ところどころに堤防がありますが、これは千曲川の本流が集落へ入り込まないようにしたものです。ですから昔は洪水の時には薄く広く、お互いに痛みを分けましょう、ということで、昔の堤防を作った人は博愛精神があったのでしょうか。また連続堤防を造る材料がなかったことや技術が発達してなかったこともありましょう。
 ところで高井郡だった大室村が埴科郡になるのは明治22年で、市制、町制の施行に伴って、合併が行われます。その時に大室村は更級郡の牧島村と、それから小島田村のうちの荒屋、釜屋という集落と牧島村、東寺尾村、柴村が合併して東寺尾村になりました。牛島村は更級郡から上高井郡に、それから大豆島、川合新田は上水内郡に変わっていくわけです。
 かつての川中島の戦いで川中島地方はえらい被害を受けましたが、明治22年の郡境の変更によって、更級郡の一部がまた変わるという経過があります。それで千曲川がかつて流れた跡は、これではよく分かりませんが、よく見ていただきますと、真ん中ごろに西寺尾という集落があります。ここを南へ下がっていただくと、海津城――松代城があるんですが、そのぐるわに池が残っています。これがかつての千曲川の流れた跡です。千曲川は大体長野電鉄の河東線沿いに流れてきたと考えていただければいいかと思います。
 次に大正2年の松代付近のこの地図は、千曲川の瀬直しから約250年後のものです。250年もたちますと、旧河道は分かりませんが、今度は資料の2を見てください。大正2年の今井村付近の地形図です。瀬直しが完成したのが明治5年ですから、大正2年といえば40年ほどしか過ぎていないわけです。だから千曲川が流れていたという、川の跡がはっきりと地形図の上に出ているのです。上今井の集落がありますが、その集落の右の方に上水内と下水内の郡境の線が出ています。この郡境が旧千曲川の流れた真ん中です。従って川の流れは地形図の上でもきちんと確認できるわけです。
 寛保の大水の時ですね、松代城や城下町を水害から守るために、千曲川の上流の瀬直しをするわけですけれど、この2ページの「千曲川瀬直しの推移と村争い」というところを見てください。東福寺にある区有文書からは、延享4年と推察できます。この着工年の計画書、今でいえば測量設計図というところでしょう。それを見ると新川の川幅は14間、総延長は341間でした。瀬直しが緊縮財政のためか、小森から下流にかけては気ままに流れてくださいというわけです。古川をせき止め、途中で新川を掘って千曲の流れを止めちゃおう、だから下流はたまったもんじゃない。西寺尾は村の真ん中を千曲川が通る。小島田は上組村と下組村になっており、下組村を分断するわけです。
 村が分断されることはどういう結果を生むのでしょうか。今はコメを作っちゃいけないといいますが、昔の農民の願いは畑じゃないんですよ。田んぼなんですよ。荒れ地を開墾する、山の傾斜面を開墾する、そしてとりあえず畑にしとくわけですよ。
 分断された村もかつては水田地帯でした。畑作農民と、水田農民とは考え方とか、人生観が微妙に違うんですよ。そういうように村が分断されることで、犀川の三堰の水がかからなくなっちゃった。そうすると、今までの田どころの村が畑の村になる。生産基盤が違っちゃう。生産基盤が違うと物の考え方も違ってくる。だから村が分断化されると意思の疎通が図れなくなる。共存関係がこじれにこじれました。それで小島田村は明治22年に荒屋・釜屋の2組が分村しました。しかし西寺尾村はそうはいきませんでした。西寺尾村は昭和30年、松代町と合併しました。合併したら川の西側は篠ノ井町への主張を通すため、中学生は松代中学への集団登校拒否となりました。村の中学生たちを公会堂へ集めて教えるという骨肉の争いになりました。これは、松代藩が領民の生活の安定を考えない瀬直しをした結果といえるのではないかと思うのです。
 平成12年の3月に千曲川護岸工事を建設省が実施し、やっと長年の問題が解決しつつあります。しかし瀬直しによって千曲川沿いの下流の村、松代藩領の村々は300年近く、泣いてきたのです。それがようやく21世紀の出発点で光が当たった。こういう歴史的な変化と、先人たちが千曲川にどのように接したかを知ることが大切です。と同時にこれからどう接していくのか、これが今後の課題だと思います。それから千曲川の歴史を正しく子供や孫に伝えていくのが、現在の私たちの使命ではないかと思います。 

司会:岡澤さん、ありがとうございました。松代藩における千曲川の瀬直しについて、ご講義いただきました。これについてご意見・ご質問がありましたらお願いします。
司会:特になさそうですので岡澤さん、補足がありますか。
岡澤:東福寺区有文書を見ますと、村人は借金をしちゃいけないと、毎年のように村規定を出しています。その背景には村人の借財に苦しむ姿があります。なぜ借金するのでしょうか。水害の度ごとに被害を被る。だから借財が増えることも一因と、東福寺の置かれた地理的条件を知る者には水害と結びつけて推測してしまいます。ですから村の規定で借財について規制すると思うのです。明治7年の長野県町村史誌を見ていただければ分かりますが、千曲川沿いの村々にとって、年貢を免除してもらった土地がどのくらいか。それを調べるとまた面白い。
 瀬直しにかかわった村、瀬直しと関係のない村にかかわらず、千曲川沿いの村々には、この川欠け、永荒れという形で年貢を免除されている土地があります。千曲川や犀川沿いの村ですが…。瀬直しの関係で川欠け、永荒れを見ますと小森村ですね。ここは瀬直しに関係がなかった村ですが、畑の約2割が免除されています。ところがこれが中沢村になりますと、年貢免除地は畑の5割で、西寺尾村は出ておりませんけれども、小島田村のうち下小島田というところでは9割が川欠けですね。古い公図を見ますと、2割はみんな千曲川の本流の中にあります。川の中にね。
 それから、小島田に花立遺跡というのがあるのですが、その遺跡は今の千曲川の流れの真ん中です。それから千曲川の川端は篠ノ井辺りの横田でも千曲川の川岸は崩落してますが、この小島田辺りへきますと崩落の規模が違うんですよ。崩れているところは、陸地の面と川の面とはその落差が段違いなんです。しょっちゅう削られている。小島田の千曲川本流は東寺尾辺りから曲流してくるわけです。
 水勢がもろに当たる中沢という部落は、一昨年の千曲川の大洪水がなければ、建設省も護岸工事をしてくれなかったでしょう。10年、20年たったら中沢の部落はまたどこかヘ行ってしまう。水害が幸いして護岸工事をし、対岸の堆積土を排除して瀬直しをした。20世紀の最後の年に。松代藩で瀬直しをして250年、それがようやく建設省の護岸工事で貸しを返してもらえたと思います。と、こんなうれしいことはないわけです。ですからこういうことで記念碑を建てたいと思うわけです。本当に千曲川の歴史を知れば、そういう思いが出てくるわけです。そのためにも過去を知ることは大事です。
 特にございませんでしたら、この辺で。


司会:私どもの災害復旧工事のことにまでふれていただきまして、ありがとうございました。災害復旧の時には、これほど奥深い話があるとは、実は私どももよく伺っておりませんでしたので大変参考になりました。貴重なお話をありがとうございました。またぜひいろいろと教えていただき、ご指導下さるようお願いいたします。
質問:いただいたレジメの中で、ちょっと気にかかるところがあるものですから申し上げます。一番最後のページに「つぶれ百姓」の話が出ました。このつぶれ百姓は、どの村にもありましたし、どの村でも村定めとして、村の決まりとして作っていました。ですから必ずしも東福寺村に限っていないように私は思います。それと村百姓の約束をなぜ作るのかということが問題です。享和3年(1800)の頃、実はお百姓さんたちは別の仕事に精を出すようになるんですね。別の稼ぎに。そうすると借財をためて村を出ちゃう。村を出てしまうと、残された借財は全部隣組の五人組が背負わなければならない。だからどうしても村定めを作っておく必要がある。ですから山手の村でもどんどん作っています。水害と「つぶれ百姓」を直結させるのはどうかな、という感じがしました。
 最後のところに、いろいろな身分階層があったとありました。「一打百姓」が少なくて「判下百姓」が他の村々に比べてとても多いと述べておられますが、判下百姓が多ければ即、貧しいとはいえないと私は思います。つまり百姓の間には階層はあったのは確かですが、一打百姓でないものが貧しくて、一打が豊かだったということはないので、江戸時代の後期になるほどそれが現れてくる。そういう事実もたくさんあるので、ただちに貧しさと判下百姓とを結び付けて述べてしまうのはどうかなという感想を持ちました。
岡澤:千曲川の瀬直しが、すぐ借財に結びつくとは私も思いませんが、借財をつくる一因としては城下町に近いこともあるかと思います。城下町の貨幣経済がもろに村に入って来る、このことも借財をためていくことになったんでしょう。東福寺村には百姓の身分の細分化が見られます。この辺は農民階層が多いんですよ。私の村、小島田村には人別帳に帳下、合地などの記載は見られますが、家来なんという身分は出ていません。東福寺のその人別帳を見せていただいた時にびっくりしました、あまり多すぎて。松代藩の平均判下百姓の割合は3割程度ですから、6割近い判下百姓は他に比べて非常に多いと言わざるをえません。
 千曲川沿いの村々を襲う水害が貧しさを生んだすべてとは決めつけられません。しかし小島田村には下小島田と上小島田があります。江戸時代、借財するために抵当に入れた土地ですが、下小島田の方は農地の約7割が抵当に入っています。上小島田は2割くらいしかない。その原因は、下の方が千曲川沿いに多くの田んぼがある。そのため、洪水の度ごとに、借財を重ねている。そういうことで、抵当権設定の農地が7割も生まれたのではないかと思うのです。
司会:どうもありがとうございました。これで討論を終わりたいと思います。

所長:一応今年度は第1回ということにして、次回、来年度はゴールデンウィーク明けくらいにでも行いたいと思っております。それで千曲川にとって寛保の洪水というのは非常に大きな過去の出来事ですので、これも引き続きもう少しやりたい。それで私ども事務所の方でも、寛保の洪水について皆様方から寄せられた資料をもとに、グラフィックで分かりやすく再現したものをつくろうと、今準備しています。したがってあと2回ほどしたら、寛保の洪水をやろうと思っています。きょうご参加いただいた方々にはまたご連絡いたしますし、私どものホームページとかでやっていきたいと思います。
 次回には「千曲川の今昔」という本を皆さん方にお配りできると思いますので、出席いただければその場で差し上げます。
司会:ではこれで第1回の会をお開きにさせていただきます。皆さんどうも長い間ありがとうございました。

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