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第19回議事録

第19回千曲塾 現場検証会

テーマ(仮):〜千曲川から信濃川へ〜(新潟中越地震復旧現場視察)
開催日時:平成18年10月17日(火)
行程(バスの旅):長野駅〜西大滝ダム(休憩)〜十日町市〜魚野川合流点(見学)〜
             小千谷総合産業会館サンプラザ(昼食)〜妙見崩落現場(見学)〜旧山古志村(見学)〜
             鈴木牧之記念館(見学)〜中里村〜長野駅

*1号車(市川健夫塾長)、2号車(滝澤公男講師、浅野井講師)に分かれて乗車


 


 

[1号車]
─出発(バス内)─
【千曲川河川事務所・上原技術副所長】 おはようございます。私は、本日同行させていただきます国土交通省千曲川河川事務所の上原と申します。前回、善光寺地震のお話がありましたが、今日は、平成16年10月23日に発生した新潟県中越地震の現場である長岡市妙見町の大規模土砂崩落現場、車ごと土砂崩れに巻き込まれた宮川優太君が奇跡的に助かった場所ですが、それから旧山古志村の土砂崩落現場等を見学いたします。
 妙見の土砂崩落現場は、現地に行っていただくと分かりますが、非常に大きな10mくらいの岩がゴロゴロ落ちていましてびっくりすると思います。そんなところを見ていただきたいと思います。
 旧山古志村については、私のほうからも善光寺地震のときにお話させていただいてますけれども崩壊土砂量が110万m3くらいあって、流域にたまった水量が二百数十万tくらいありまして大きな湖ができてしまった、10数戸の家が水没してしまったという悲しい結果となってしまいました。聞くところによると川上から土砂が流れ込んできて、水というよりもほとんど土砂に埋まってしまったそうです。その現場まではバスは行かないと思うのですけれど、国道291号に対しては既に復旧が終わって道路が通れる状態になっているそうです。 
 現地では専門スタッフがお待ちしておりますので、ゆっくり見ていただきながら、スタッフに質問もしていただければと思います。よろしくお願いします。

─屋島橋(バス内)─
【上原技術副所長】 今、渡っているのは屋島橋です。ここから下流のところが千曲川で一番川幅が広くなる場所です。もう少し下流に行きますと約1kmあります。今年(平成18年)7月の豪雨の際の水量は、今水が流れているところだけではなく、高水敷のところまでたっぷり水が浸かりまして、堤防の上から2mから2m50位まで迫り、河川敷のリンゴやモモなどの果樹がほとんど水没した状況でした。 
では、市川先生、よろしくお願いいたします。

【市川塾長】 おはようございます。今、川幅が1kmあるというお話しがございましたが、昭和4年にできた信濃川の万代橋は309mです。明治19年設けられた万代橋は、774mでした。それが大河津分水路などによって流水量がカットされたため、万代橋の長さは400m以下になっています。これから下流に行きますと三本に分流いたします。そういうわけで信濃川水系の中ではもっとも大河らしい景観がこのあたりです。
 河川勾配をみますと屋代が1/900で、屋代から落合で犀川と合流した地点が1/1000と緩やかな勾配になります。飯山に行きますと、これが更に緩やかになり平均1/3600になります。千曲川に沿っていきますが、たいへん緩やかな川です。これが越後平野に入りますと1/7000と、もう水が流れているか分からないほどの状況になります。中流に行きますと上田が1/190です。だから上田には港があってもほとんど使われない状況でした。
 なお福島の分村が旧柳原地籍の北屋島にあります。かつてひとつの島だったところが川で分かれたのです。南屋島の人たちの菩提寺が綿内にあるのは、そういうことを示しています。かつては北屋島、南屋島はともに高井郡であった。明治になって上水内郡になったのです。
 福島宿に竹内という船問屋があり、水運に関する資料がたくさん残っています。北国街道松代道の宿場である福島宿は千曲川の港でもありました。大笹街道の正式な起点は、この福島宿です。島という名が道筋に多いのが特徴です。牛島、福島‥‥いずれも沖積地にある集落を島と言っています。これは新潟県の越後平野にいっても同様のことが言える。島というのはislandの意味ではなくて沖積地という意味です。
 福島にしろ村山にしろ、蚕種製造の非常に盛んなところでした。幕末にフランスやイタリアなどヨーロッパの養蚕国が微粒子病にやられまして蚕種がなくなってしまった。そこで日本から蚕種を輸入することになり、このあたりの農村で蚕種ブームが起きたわけです。

〈小布施ハイウェイオアシス(休憩)〉


─小布施(バス内)─
【上原技術副所長】 ただ今の道路は千曲川と並行して走っている場所がございまして、ちょうど千曲川の堤防を補強しているような形で、この間を少し盛り土をし、堤防強化も兼ねて町のほうで桜を植えてもらっています。先ほども申しましたように、1kmくらいの川幅があるところで、この下流、立ヶ花橋のところで200mくらいにギュッと狭まってしまいます。千曲川として一番弱点になる場所です。そんなわけで今の小布施のパーキングから右岸側が高速道路と並行して許可されています。
 前回の千曲塾のときに黒岩先生からご紹介があった断層が走っている場所が、赤い鉄塔が立っている、その周辺です。断層が走っている場所が善光寺地震のときに河床が1mくらい上がったと言われた場所です。もうちょっと行きますと上今井橋になりますが、その下流が明治の初め、瀬替(せがえ)をされた場所です。善光寺地震のために河床が上がって水が流れなくなって瀬替をした。右手は延徳田圃ですが、このあたりが非常に冠水しやすくなったために千曲川の流れを変え、瀬替を実施した場所です。

【市川塾長】 今、前面に丘陵が見えていますが、これが長丘丘陵です。いずれも断層線によって切られております。地図を見ていただくと分かりますが、千曲川が一番ぐにゃぐにゃした流路を通って蛇行しているのがこの地域です。こういう地形を「穿入蛇行(かんにゅうだこう)」といっています。またこのような川を「先行性河川」といいます。犀川も筑摩山地を穿入蛇行しています。
 延徳田圃というお話が出ましたが、室町時代の延徳年間に開拓が始められた。長野盆地でも屋代田圃とか町川田の田圃は、弥生時代から稲作が行われていた。それに対してここは200mを超す沖積土が堆積しておりまして、遠洞湖という湖があった。それを室町時代から開拓した。
 今千曲川を渡りましたが、川は蛇行しています。水深は深いわけです。しかし、蛇行していると流れが悪くなりますから上流地域の水害が甚大になります。明治2〜5年、先ほどの上今井で瀬替工事が行われたのですが、この工事は非常に大規模でした。なお元の流路跡が水田化されています。 
 上今井橋を渡ると蛇行して流れた流路がはっきり分かりますが、高速道からは見ることは出来ません。
 上今井は千曲川通船の人夫が一番多くいたところです。普通、千曲川通船は船頭がいて舵を扱う人が一人、船を曳く人夫がいたわけです。このあたりだと四人、急流では八人で曳いていました。そのような人夫が一番多くいたのが上今井です。真冬でも半被を着て帯を締めなかった。川に落ちた場合でもすぐ泳げるように帯を締めない。非常な寒さに体を痛めつけられ、四十代で大体一生を終えてしまったといわれております。
 斑尾山が左に見えております。斑尾、妙高、黒姫、飯綱、戸隠などが北信五岳です。フォッサマグナに噴出した富士火山帯の北端がこのあたりになります。富士火山帯はフォッサマグナに沿って噴出してできた火山帯です。聖山、あるいは美ヶ原、蓼科、八ヶ岳火山、それから富士山、箱根、伊豆半島、伊豆諸島、小笠原諸島、遠くはマリアナ群島まで延びております。その北端が斑尾山をはじめとする北信五岳です。この火山帯の長さは約3000kmあります。
 高速道を下りて、国道117号を通って北上します。高社(たかやしろ)山と大町の中綱湖を結ぶ線から以北、これが日本におけるというより世界における有数の深雪地帯になっています。これから森宮野原駅の前を通ってまいりますが、ここに昭和20年2月3日の積雪量7m85cmの記録計が立っています。日本で最高の積雪地と書いてありますが、これは間違いです。新潟県板倉町柄山(からやま)では昭和2年2月13日8m18cmという記録、それが日本の最高の記録です。右手前方に高社が見えています。高社山が境で、このあたりから日本的な深雪地帯の中に入ります。
 この道はほとんどまっすぐですが、これも信濃町に続く断層線に沿っています。右手に見えているのが高社山です。
右手に千曲川が見えています。明治35年島崎藤村が小諸義塾の教員をやっておりまして飯山に二回来ています。そのときは小諸から信越本線に乗って豊野で下車し、歩いて蟹沢の港まで来ております。蟹沢港から、一日二回の定期船に乗って飯山に来ております。「千曲川スケッチ」の中で「川舟」という章にルポルタージュとして書いています。飯山の雪祭りにはカマクラが造られて来たお客を楽しませています。
 右手に西の茶屋があります。ここでは謙信寿司を出しています。謙信寿司は、昭和49年に生まれた新しい呼称です。上杉謙信が通って食べたといわれています。笹寿司とも言っていますが、現在の押し寿司と伝統的の押し寿司とはずいぶん違います。本来のこのあたりの押し寿司は杉で作った寿司箱に隈笹の葉を敷いてご飯を入れて、さらに具を挟んで何段か重ねて重石で押します。以前は運動会や遠足など何か行事のある時に、この地域の人たち、特に富倉の人は大量に作りました。今は簡単に一枚一枚の笹に酢飯と具を乗せるという製法に変わってきています。
 前方に安田橋、別名綱切橋が見えます。綱切橋はどういう意味かと申しますと、武田軍がやってきて飯山を占領しようとした時、上杉方が舟橋の綱を切って防戦したといわれております。これが綱切橋です。
 このへん見ていただくと分かりますが河川勾配が1/3600、たいへん緩やかです。
右手の低い土地は俗に言う地割慣行地です。国有地を借りて作物を栽培しています。見てください。波が立っていません。1/3600という勾配は3600m行って1m下がるという緩勾配です。
以前は飯山港は中央橋のたもとにあって大きなケヤキがありましたが、伐られてしまいました。藤村の文学碑も千曲川の堤内地に移されてしまいました。バスの左手にここにあった藤村の文学碑があります。
左が飯山城址です。地形的には分離丘陵で城山(じょうやま)公園と言っていますが、普通「じょうやま」と呼ぶのは、長野市の城山もそうですが、中世の城のあったところが城山です。近世の場合は城山(しろやま)といいます。
左を行くと富倉を通って新潟県新井市に出ます。直江津からの塩はここまで馬に載せてきて飯山から船に積んで輸送していました。長野県には塩尻という地名が三か所あります。松本の南の塩尻市、上田市の塩尻、栄村の塩尻の三か所です。直江津から飯山に通ってくる塩と、新潟から十日町を通ってくる塩の接点が栄村の塩尻です。昔は14軒ありましたが、今は2軒になってしまいました。
今、堤防の上を国道117号が走っていますが、春には菜の花が咲いてきれいです。このあたりは千曲川の氾濫原ですから水害が起きやすい反面、土地が肥えていますから常盤牛蒡の産地になっています。長芋の栽培も多い。水害の常習地帯ですから宅地は盛り土をしています。盛り土の高さを見ると、その家の富が分かるといいます。昔は「盛り土の高さを見て娘を嫁に出す」と言われていました。土蔵は母屋より一段高くする。土蔵には滑車が備え付けられていて、万一洪水で水に浸かった場合には味噌桶を吊り上げた。これは水害地域に住む人々の知恵です。亡くなった国会議員の木内四郎さんのお宅はこのあたりで一番立派な母屋と土蔵があります。
左手に見えている山は、信州では関田山脈、新潟県では東頸城丘陵と呼んでいる山地です。国土交通省も東頸城丘陵と言っています。稜線の向こうが新潟県です。長峰丘陵の上には飯山照丘高校があります。
向こうにずっと見えているのが旧太田村の民宿です。「農民民宿の発祥の地」といわれています。関田山地にスキー場が開けているのが分かります。
まもなく常盤大橋です。段丘は狭まっていますが、あそこを歩いて船を引っ張っていく道路がついています。
常盤大橋を渡ります。川面が静かです。段丘の一番上を走っています。飯山は長野県中で一番多く紫米を栽培しています。市営のみゆき野塾で私が紫米の栽培を勧めましたが、紫米を使って酒や米麺が造られています。右に行くと紫米を扱っている瑞穂精米というお米屋さんがあります。
千曲川も小布施あたりと違って幅が狭くなっています。河川敷も200mないです。
 このあたりは旧瑞穂村でかつて下高井郡であり、下水内郡ではなかった。「日本のフォスター」と言われた中山晋平が代用教員をしていたのが瑞穂小学校です。中野地域では小学校唱歌「故郷」の作詞者高野辰之、作曲家の中山晋平が出ています。ともに記念館があります。
戸狩の眞宗寺以北が市川谷です。中世市川氏が支配した地です。
 まもなく左手に湯滝温泉が見えてきますが、飯山市営の温泉です。千曲川には、湯滝など、十日町までに滝と付く地名が六か所あります。滝はfallではなく、早瀬という意味です。浚渫しないと船が通れない。千曲川通船の終点は西大滝です。湯滝の地形がよく分かります。右に入っていきますと野沢温泉です。関田山脈の手前の丘陵は旧岡山村の上段(うわだん)といわれています。
 今通って来たところも段丘です。旧市川村と豊郷村が合併して野沢温泉村になりました。
右手に市川小学校のスキー場があります。長野県でただひとつ、学校に併設したスキー場があります。元はもっと鄙びた校舎で全国の僻地教育の大会が開かれたことがありました。僻地給1級で、本俸の5%僻地手当がついていました。秋山郷は当時5級地で、25%ついていました。今は交通の便がよくなったので手当が下がっています。
 杉の木を見てください。先が尖っています。積雪が滑って落ちるような樹形になっています。長野あたりの杉の木は樹冠が丸みを帯びています。木を伐ると、木の材質が黒いので熊杉と呼ばれています。今盛んに出没している熊が黒いので熊杉と呼んでいます。杉はスギ科スギ属ですが、表日本の表杉と積雪地に多い地域の裏杉の二つに分けた研究者がおります。去年はブナが大豊作だった。餌が豊富だと熊が流産しません。ところが餌が足りないと流産する。自分の身体を守るためです。それで今年は子熊が増えて親子連れがたくさん出没しているわけです。

〈西大滝ダム〉 (休憩)

─十日町、小千谷へ(バス内)─
【市川塾長】  西大滝ダムの発電は17万7千キロワット、昭和16年に出来た当時日本最大出力の水路式発電ダムでした。当時は火力発電を含めても最大でした。ここから21km下がっていって落とすわけですね。その導水管を一年に一回水を止めて掃除するそうですが、導水管の中、泥土が5cmも溜まっているそうです。以前は冬来ると西大滝で紙漉きをしていました。右手に見えている集落がありますが、あれが東大滝、ここに分教場がありました。ダムが造られている地点は堅い岩盤が出ているところです。そこを削ってダムを造ればコストが安くて済む。小田切ダム、水内ダム、生坂ダム、笹平ダムはその好例です。
  この集落は白鳥(しらとり)です。白鳥は白鳥(はくちょう)ですね。日本武尊が亡くなって白鳥になって飛んでいったという白鳥伝説が日本各地にあり、そこにはよく白鳥神社があります。白鳥集落にも白鳥伝説があります。なお、東山道支道が栄村を通っていたという説がある。この林道を登ると深坂(みさか)峠があります。小谷村には三坂峠、阿智村には神坂峠があるが‥‥いずれも奈良時代7世紀に出来た峠道です。
  対岸の段丘に荷物を運ぶためのロープウェイがあります。今年はこの辺は4m50cmも雪が積もりました。
  鈴木牧之の『北越雪譜』には秋山郷では税が免除されていたと書かれていますが、これは間違いで、役人が検見して税金をとっていました。
青倉、ここが危険な場所で戦後雪崩で8人も亡くなった集落です。岩肌が黒くなっています。赤倉温泉のクラは倉庫の倉ではなく、?と書くのが正しい。雪が滑って岩肌が草木が生えなくなる。その岩の色が赤いと赤倉、黒いと黒倉。信越国境には33くらいのクラ地名の山があります。その一つがここです。よく見えないのですが、森集落の対岸にある集落が塩尻で、ここにはロープウェイがあります。
  左側が旧道です。ここには「信越国境」の碑があります。右に見えている川が志久見川。この川が、長野・新潟の県境になっています。これが宮野原という集落です。栄村に森、それで森宮野原という駅名がつけられています。
  やはり角さん(田中角栄)が地盤だったところは道路の整備が違います。なお栄村を走っているバスは越後交通です。
  大割野は津南町の中心街です。この町が大きくなったのは大正中期に中津川発電所が造られたのです。飯山線も発電所建設のために造られた。この小さな町に幾つも旅館があります。これも当時の遺産なんです。信濃川の段丘面に飯山線が走っています。豊野から越後川口まで飯山線が延長されました。昭和19年12月20日から翌20年4月15日まで117日間不通になったこともありました。日本の鉄道不通の記録をもっているのは飯山線です。
  十日町あたりはかつて新潟県中魚沼郡でした。六日町や塩沢は南魚沼郡です。なお新潟県は上越・中越・下越・佐渡に分かれます。ここは長岡を中心にした中越に入ります。
  「日本一の河岸段丘」と書いてありますがこれは間違っています。日本一は長野県の伊那盆地あたりでしょう。
  ここで渡る橋は中津川で、群馬県の野反湖から流れてきます。右手に導水管が見えますが、あれは大正時代に造られた中津川第一発電所です。右手の旅館があります。右に入っていきますと秋山郷に行きますが、秋山郷を信州秋山と越後秋山に分けたのは私です。今、坂道を登っていますが、これは段丘崖を登っているわけです。なお段丘崖を信州・富山県では「幅」と言います。長野県庁は長野市南長野「幅下」、松本の駅は「巾上」です。飯田に行きますと、松川の段丘崖を羽場といっております。それが関東に行きますと「垰(はけ)」といいます。川上村に「川端下(はけ)」という集落がありますが、これは関東系の地名です。
  これから十日町に行きますが、十日町の機屋さんでは小千谷縮や越後上布を「出機(でばた)」と称して信州の市川谷の農家に下請けに出していました。昭和30年代まで出機がありました。秋山と十日町はそういうわけで交流がありました。
  先ほど志久見川が長野県新潟県の県境と申しましたが、川を越えると火焔式土器が出てきます。初めて火焔式土器が発見されたのは昭和8年ごろですが、長野県にはないです。ですから志久見川は信濃と越後の文化の分岐点でもあります。
  左側、赤い屋根が見えますが、あれが中里村のサケ孵化場です。ということはここまでサケが上ってきているわけです。長野県でも10年間ほど放流をしましたが、なぜ駄目かと言いますと水温です。村上市では4月上旬に放流していますが、長野県では2月10日までに放流しないといけないのに、最初放流したのは4月18日でした。最後の放流は3月16日でした。長野で放流した稚魚が新潟の河口に行くまで1ヶ月かかる。そうすると新潟沖の対馬海流(青潮)は水温は真冬でも10℃あります。サケは12℃がリミットです。水温が上がって18℃になると死んでしまいます。そこで長野県で放流した稚魚は、ほかの魚のえさになっていました。そこで新潟県水産試験場に行かないといけないが、そういう勉強をやっておりません。
  中里村のサケ孵化場はあまり水質がよくない。新潟県では今日訪ねる堀内町の梁場あたりにはサケがたくさん上っています。
  サケというのは沿岸の定置網よりも河川で獲れて脂がやや抜けているほうが、塩鮭にする場合は美味しい。なぜ村上の鮭がおいしいかというと三面川を上ってきて鮭は余分な脂がないので「脂焼け」することもなく、上等の塩引きができあがる。そこで一疋の塩引き鮭が1万何千円もします。千年前の平安時代の「延喜式」を見ると、全国で鮭を貢納していたのは越後、越中と信濃の三国のみです。当時の信濃国の人口は10万人で、たくさんの鮭を取っても減ることはなかった。
  道路の上にも段丘があるし、下にもあることが分かります。十日町の盆地で一番、段丘が多いところは七段にわたっています。左に見えている山は東頸城丘陵で、右手が魚沼丘陵です。魚沼丘陵の東側に六日町盆地があります。交通標識が縦になっているのが分かるかと思いますが雪の抵抗を少なくするためです。新潟県でも新潟市街地は三角州が海に張り出していますから雪が少ない。だから標識は横になっています。今道路には消雪パイプが走っていますが、消雪パイプを最初に考えたのは長岡市です。昭和32年から消雪パイプで雪を解かしています。飯山あたりは鉄分で色が変わっていますが、このあたりは変わっていませんね。これは段丘で地下水位は深いですが、汲み上げて融雪に使っています。越後平野の沖積層は1000mもあります。長野県の場合は一番深い諏訪瑚で300m、長野盆地あたりは200mで、沖積層の厚さが違う。土の大部分は信州から運ばれて来た。信州の山や盆地から流されてきた肥沃の土壌が堆積したところが十日町の盆地です。
  十日町には十何軒の蕎麦屋があり、「へぎそば」が有名です。「へぎ」というのは「剥(へ)ぐ」から来ています。木材を割ることを剥ぐといいますが、十日町では木曽のネズコを剥いだ材を用いて蕎麦蒸籠(せいろう)を造り、これに蕎麦切りを盛っている。この蕎麦を「へぎ蕎麦」と呼んでいる。特色はつなぎに下北半島の尻屋崎産の布海苔(ふのり)を使っていることです。この蕎麦は腰が強くてなかなか美味しいです。この辺では現在余り蕎麦は作れていませんから信州や外国から来ています。日本の蕎麦の8割は外国産です。飯山のつなぎはオヤマボクチだけですが、秋山郷では蕎麦はオヤマボクチの繊維と布海苔を併用しています。中越に近い秋山郷は両方のつなぎを使っています。
  道の両脇は雁木(がんぎ)があります。信州で雁木があるのは飯山だけです。雁木は越後の言葉で、青森県に行くと「小店(こみせ)」といいます。日本海側では西は鳥取県まであります。雁木はアーケードと違って、家の屋根の延長です。雁木の土地は私有地ですが、他人が通ってもいいのです。また固定資産税も徴収されています。
  十日町です。「北越雪譜」を書いた鈴木牧之は塩沢の縮問屋の主人でした。「北越雪譜」の復刻版は全部揃えると10万円しますが、岩波の文庫版でも読めます。この中で牧之はこう書いています。「雪中に糸となし、雪中に織り、雪水にそそぎ、雪上にさらす。雪ありて縮あり。されば越後縮は雪と人と広く相半ばして名産の名あり。魚沼郡の雪は縮の親と言うべし」。縮と上布はどこか違うかと言うと、上布は平織りなんです。縮は経糸によりをかけて織ります。そうすると「しぼ」と言いまして、布に凸凹ができます。そうすると夏に着た場合、肌に直接つかないので涼しいのが縮の特長です。
  小千谷縮、越後上布の材料はともに苧麻(ちょま)ですね。古代の言葉で言うと「カラムシ」。それを裂いた繊維で織った薄い反物です。苧麻は大麻とは違います。大麻はその皮は麻薬になります。大麻は一年性ですが、苧麻は多年生ですね。春になると、枯れ稈に火をつけて焼く。そこで苧麻の産地では火事が多かった。苧麻は福島県昭和村で主に作っています。英語ではラミーといってフィリピンで大量に作っているが、品質が落ちます。安い機械織りの苧麻布は外国製です。
  裂いた苧麻の繊維を雪に晒します。あらゆる植物繊維は雪に晒すと白く漂白される性質があります。ところが動物性繊維の絹は太陽に当たると黄ばみます。
  今日は鈴木牧之記念館に行きますが、そこに張ってある観光ポスターは魚野川河畔での雪晒し風景の写真です。これは「やらせ」であって、実際は家の近くの雪が積もった田んぼで晒しています。ポスターの写真では魚野川が流れていて、その前面で晒し作業をしている。その向こうに越後三山が連なっている。‥‥このような風景が絵になります。
  縮や上布が女性に買われて着物になります。着物は垢で汚れますと、また雪の上で晒す。そうするときれいになる。機屋さんは、一旦売った衣類がまた雪晒しに戻ってくることを「里帰り」と言っています。そのように里帰りした織物をきれいに漂白して消費者に帰すことが行われています。
  なお、小千谷縮や越後上布は信州でも織られていました。下請けで。織る場合は、地機(じばた)なんですね。どういうことかと言うと、高機(たかばた)は腰掛けて織ります。地機は「居座(いざ)り機」といわれていました。座って織りますから腰に布を巻いて経糸を引っ張ります。妊娠した女性は強く引っ張られるので、これを「孕(はら)み機」と言って品質が高い布が織られます。40日も50日もかかって織るので大変です。そして繊維が薄いものですから天保銭の穴に通すことが出来たといわれています。
  十日町の博物館に行きますと縮や上布が沢山展示してあります。
  なお、大麻の種には毒はありませんので七味唐辛子に入っています。これは麻薬ではないのです。特産地であった鬼無里・戸隠でさえ大麻の栽培がなくなり、今では中国から輸入しています。野沢温泉村で1月15日に行われる道祖神祭りの松明は大麻の稈(オガラ)です。昔、野沢温泉は大麻の産地だったが、麻釜(おがま)という温泉もあります。ふるさとの伝統的なお祭りまでも国際化しないと続けられない状況です。
  これから小千谷から山古志村に行くわけなんですが、右手の丘陵は魚沼丘陵です。東頸城丘陵との間に流れているのが信濃川、ここ十日町盆地があります。この盆地を流れる信濃川は、明治29年までは越後川口まで千曲川でした。今でも十日町の盆踊りには「千曲川の河原」と歌われています。なお鈴木牧之は千曲川のことを「千隈河」と書いています。当時は魚野川との合流点までが千曲川、それ以降が信濃川だった。そのほうが理に適っています。
  このあたりはなぜ地すべりが多いのかというと、第三紀層の粘土層は地下水が入ると膨張して滑るのです。山古志村は中越地震の後に長岡市に合併いたしましたが、以前は古志郡に属する唯一つの村でした。雪が多いものですから、このあたりの田んぼは天水田が多い。天水田は、秋になると稲刈り後に代掻きをして高さ50〜60cmの畦を塗ります。そこに雪が降り積もります。春になって雪が解けると満々と水を張った水田になり、そこに田植えをする。だんだんと水位が減って、稲刈りの時期には乾田になります。松代町は尾根の近くまで天水田であり、かつ棚田です。インドや東南アジアの棚田では今でも多くは、天水田です。インド等では水田は天水田と灌漑田を分けて統計をとっていますが、日本政府は分けていません。第三紀層の山地は土地が肥えています。越後は今は米の代表的産地ですが、川中島合戦のころは信濃のほうが米産地でした。越後における潟湖(せきこ)の多くは、近世に入ってから干拓されたのです。
  川中島合戦は何の戦いかというと、越後の上杉は信州の米や麦が欲しかった。甲斐の武田は信州のサケと米が欲しかった。善光寺平の恵みをどちらが取るかという戦いでした。
  段丘面が広くなってきました。このあたりは地主が多い土地柄でした。
  十日町に入ると、信濃川の河川勾配が1/300以下になってきました。緩やかですから、新潟から十日町、あるいは六日町まで舟運がありました。

─魚野川・信濃川合流地点(下車して見学)─

*川上を左手に、川水は右手に流れる。
*正面、左の川筋が魚野川、右の川筋が信濃川。
*正面の山:越後三山(左から越後駒ケ岳、八海山、中岳)
*明治中期まではここまでが千曲川。河川法ができて、県境が千曲川・信濃川の境に。

─小千谷市内へ(バス内)─
【市川塾長】 魚野川合流点でした。越後の人は何ということもなく意義を認めない場所ですが、信州人は関心がある場所なんです。今回はあきらめかけましたが、運転手さんのお陰で魚野川合流点を正面から見学することができました。千曲川は佐久・上田・長野・飯山・十日町という五つの盆地を形成してきました。それがここで魚野川と合流し、信濃川と名を変えたわけです。明治30年代以降、信越国境で千曲川は信濃川に河川名が変えられた。 
  右手の線路が上越線です。昭和6年に全通し、戦後複線化・電化は信越本線より早かった。信越本線と言いますが、上越線はローカル線なので本線とは言わなかった。なお川端康成が『雪国』を書くきかっけとなったのは上越線の開通です。モデルの芸者さんは大分最近まで長生きされていました。
  越後山脈が見えます。会津との境です。なお険しい山稜を山脈、なだらかな山波を山地といいっております。

─小千谷総合産業会館(昼食)─
*小千谷縮、錦鯉の資料が展示されている。

─乗車、妙見土砂崩落現場へ(バス内)―
【上原技術副所長】 左手に赤い橋が見えてきました。その先の白っぽい山が2年前に崩落した妙見町の大規模土砂崩落現場です。これから手前までまいります。
 皆川さんご一家のほかにも車何台かが巻き込まれおって、私が現場に行きました時、皆川さんの車の数十m前に車がありまして、それも土砂に巻き込まれておりましたけれど、押し潰されていなかった。もうちょっとというところで木が落ちてきて運良く木の枝がクッションになって自力で脱出したそうです。もう一台、川の中にトラックが落ちていました。やはり巻き込まれたのですが、運転手さんは自力で脱出された。交通量の多い場所だったにも関わらず、助かった車が多かったのは、すべり面が深くて路面そのものがひっくり返っていないんですね。擁壁や雪崩防止の柵が引っかかって下敷きにならなかった。そのため、皆川さんの車も不幸中の幸い、ペシャンコにはならなかった。そのような状況だったようです。崩れた土砂の大きさは今朝も申しましたが10m級の岩で、崩すとサイコロ状になるのが大きな特質で、今もそういうのがゴロゴロ崩壊地に残っています。
  私どもが現場に行きました時は今にも崩れてくるのではないかという状態のなか、レスキューの皆さんが作業されていました。救助が始まる寸前にも、震度6の地震が起き、非常に緊張した中で救出に当たっていました。私も、ああいう現場には初めてでありまして、非常に感動というか胸を打たれました。レスキュー隊は京都・大阪・仙台・水戸から応援に駆けつけており、消防の皆さんは広域で動かれるのだなと、見させていただきました。長野市消防局、松本、諏訪、上田、そういったところも協力していました。
  正面に見えてきました。復旧の進み具合につきましては現地のスタッフがおりますので、そんなところ見たり聞いたりしていただきたいと思います。
  私ども国土交通省は立ち上がりの救助というよりは、後方支援が主でした。自家発電の照明を稼動し続けました。遺体を確認された際には無人のバックホーを挿入いたしまして無人化施工をしながら道をつけ、土砂を除去しながら遺体搬出の支援を行いました。新潟県知事からの要請支援もございました。見ていただくとわかりますが、現場は信濃川に並行して旧国道が走っており、すぐ脇をJRが通っています。もう少し山のほうには新幹線も通っております。間違えばもっと大きな災害を引き起こしてもおかしくないところでした。JR、国道も通行止めの状態でしたが、JRは早期に通行可能となりました。道路はどうしても通して欲しいという要望があり、今は崩壊地の中を整地して道をつける工事を進めています。

─妙見土砂崩落現場(見学)─
【NPO法人「中越防災フロンティア」職員・山口氏】  平成16年10月23日に起きたマグニチュード6.8の地震により60万m3の土砂が落ちたといわれております長岡市妙見土砂崩落現場です。この道は旧国道だったんですが切断されました。
  国等行政側は当初はここを記念公園として残そうとしましたが、この道があるとないでは長岡市へ30分違うため、地域の人の「開通させたい」という強い要望がありました。そこで、上から三段階になっていますが、上からただいま盛んに改修作業が行われています。ご存知のようにここは雄太君が助かった場所です。残念ながらお母さんとお姉さんは亡くなってしまったんですね。5時56分の地震で、あと2台が巻き込まれましたが自力で助かりました。雄太君が乗っていた車だけ、この中央ぐらいなんですが、土砂に巻き込まれ、そのまま生き埋めになっていました。それを発見して東京レスキュー隊が駆けつけましたが 暗くてよく分からなかったんですね。それで国土交通省が対岸から物凄いライトを使って現場を照らし、その中で救助活動をおこなったという画期的なことだったんですね。雄太君、頑張りました。東京レスキュー隊も凄かったですけれど、自衛隊もヘリコプターを常時待機し、国土交通省は自家発電機で協力を続けたことによって助けられたのです。この現場は災害を忘れないための記念公園にしようとしましたが、先ほどお話ししましたように住民の皆さんは道路にしたいというので話し合いを進めているところです。三段階になっていますが、一番上、二番目、三番目、その三番目のところが道になります。上は土砂を止めるための作業として上から切っています。安定するように。右側にあるのはJRです。JRも塞がりましたけれど、トンネルの入り口のところだけでしたので開通しております。道路は道路そのものがやられました。ここはあと1年くらいかかると思いますが、開通させようと努力をしておるところです。ここは長くいられませんので、後はそれぞれのバス内でご説明いたします。

─妙見から山古志へ(バス内)─
【NPO職員・山口氏】  NPO法人「中越防災フロンティア」の山口と申します。私どものNPOは8月26日にできたばかりです。山古志、また中越の皆さんの復興のお手伝いをしようとつくったNPOでございます。被災地では避難指示の解除が進み、自治体関係者をはじめとする視察が増えています。当面、こういった視察ですとか、皆さんの研修のお手伝いをさせていただいています。おいでた皆さんにはぜひ、山古志・中越は復興の緒に就いたばかりで、ようやく道路が開通したところ、まだまだ大変な時期なんだというのを知っていただきたいと今日ご案内させていただきます。よろしくお願いいたします。
 先ほど見ていただいたのが妙見の崩落の現場です。同じようにこの右側が土砂崩落箇所です。物凄い大きな石が下に落ちたままになっています。すべり面の地肌が出たままになっています。見えますかね。

【上原副所長】  私どもは「滑り面」という専門用語を使います。地滑りが発生すると、一番弱いところが滑ります。ここなどはっきり分かりますが、固い岩盤があって、上にのっている土砂が粘土化したりして、ほんの隙間で滑ってしまう。なかなかこれだけきれいなすべり面が見えている現場は実は少ないので、ある意味、地滑りとはどういうものか、と知る参考になる現場なんですね。非常に大きな石がゴロゴロと落ちている状況ですね。先ほどの妙見の現場は、もっと大規模といいますか、すべり具合は同じように落ちています。
 先ほどレスキュー隊のご活躍ですとか、私どもの照明車の協力支援の話をさせていただきましたけれど、救助している時はレスキューの皆さん交代交代でずっと作業されていましたが、当日は非常に寒い夜でして、4度くらいまで気温が下がったと記憶しております。レスキューの皆さんを支えて監視をしている皆さんがおられました。私どもには土木研究所等があり、そこの斜面崩壊の専門の方が徹夜で立ち通しで安全確認をされていました。そういった対応をしていただいたお陰でレスキューの皆さんも安心して作業に当たられた。
  中越地震では3800くらいの箇所で斜面崩壊が大小あわせて発生しています。崩れた土砂は1億立米くらいになるのではないかという推定をしておったようです。中でも大きな、いわゆる100万立米くらい崩壊したところが12箇所あります。
  前回の千曲塾で善光寺地震の話をいろいろさせていただきましたが、当時も川の中に大きな石が落ちたと推定されます。

【NPO職員・山口氏】  右手になりますけれど、これは朝日川という川です。もう少し行ったところでせき止められました。ここは全部水浸しになりました。30cmくらい水がたまったそうで、ここの人たちは地震の被害もありましたけれど床の下に水が流れ、えぐられて大変だったそうです。ですからほとんどの家は建て直されています。右側に斜面崩壊の現場が見えます。ここです。上のほうから土砂が落ちてきて、この川がせき止められました。ここからダムアップして流れて行った。これでも大分復旧が進んだほうです。ここはまだ実際は小千谷市の東山(ひがしやま)地区、この先が山古志村(今は長岡市ですけれど)になります。日本の錦鯉の発祥の地でして、これから先にイオリ池がたくさんありますが、ほとんど地震で埋まってしまいまして、聞くところによると1匹400万円の鯉が5、6匹も埋まった大変な家もありました。
 今通った上のほうが新幹線のトンネルです。国道291号は新幹線のトンネルの下を通っていて、大規模地すべりが発生、新幹線トンネルは幸い無事でしたが、国道、県道千足・呼坂線が断線したところです。ほぼ2年経ち、国道は異例のスピード復旧で全線開通し、こうして通れるようになりましたが、依然として地肌が出ていますし、もう少し上がって行くと至る所、地肌のままです。自然の回復力は凄いといいながらもなかなか緑が戻って来ないところはたくさんございます。
 こういうのがイオリ池ですね。ここで鯉を飼っているわけです。右側に見えるシェルター型の建物がありますね。これは普通は駐車場に使っているんですが、一番被害の少なかった建物でしたので、今ご老人の方々がどうしても山に帰りたい、お金もそんなにない、というときに、今木工組合の方も含めて、ああいうシェルター型のを造ると雪下ろしの必要がないんですね。それで、戻られてシェルターに住む方が多い、と意外な結果になっています。
  右の県道を行くと小千谷市小栗山になります(*パンフより:今回の災害に際し、国土交通省北陸地方整備局が行った国道291号直轄権限代行災害復旧区間の終点。起点は長岡市古志東竹沢)。ここを境にして山古志は全村離村になりましたから、入村できなくなったんです。
  このへんが錦鯉を飼っている皆さんの一画ですね。皆さん、大きな立派な家を建てられていました。左の建物はなかでも立派な錦鯉御殿、中は泥だらけになってしまいまして、それを掻き出しました。今後の使い方を話し合われているそうです。
  旧山古志村に入ります。長岡市は去年一昨年豪雪でして、ここでは3m46cmが観測されました。いくつかの家が潰れてしまいました。去年はいろんなところで豪雪だと騒がれたのですが、山古志は場所によっては4m50cmまで積もり、3軒並んでいた家が同時に潰れたという、地震被害に加え雪の被害もありました。
  このあたりは朝日川の流域で、鮭が上ってくるところでした。山を越えると芋川の流域で、芋川で大規模な土砂崩れがあり、止まりましたのが、これから行く竹沢というところです。 
  こちらは朝日川の筋です。下に見えるのは朝日川支川の油夫(ゆぶ)川で、ここも大分やられているところです。皆棚田だったのですが、復旧させているところです。
  左側正面に見えているのは公営住宅です。ここの集落6所帯(平均年齢68歳)の家屋は全部やられてしまいました。仮設住宅におられますが、もうじき期限の2年が終わるため、そこに移られます。普通、公営住宅というとコンクリート造りですが、山古志には似合わないということで木造住宅を展示用に建て、「こういうのでどうですか」と地域の皆さんに問うているところです。皆さんがよければ、ここに6所帯の方々が移り住んで戻られます。 
  実は元々は山古志小学校があった場所なのですが、メタメタにやられまして、もう存続は出来ないということで、その跡地に村営住宅を造るということになりました。ここは山古志の中でも比較的、棚田がきれいに見えるところです。というわけで国土交通省直轄権限代行という形で県の代わりにこの道路を短時間で復旧させましたけれど、そのとき景観に相当配慮している地域です。村営住宅も自分たちの村の景観・棚田を近くに感じたいと皆さんがあそこを選んだのです。
  竹沢隧道です。昔、地元の方が手掘りで掘った隧道のひとつで26mあります(*パンフより:多くの箇所に亀裂が発生するなど損傷が大きいことから、新しく作り直した)。ここを通らないとR291は復旧できないので国土交通省は、ここを一番最初に治しました。
  大規模な土砂崩れ現場です。土砂災害は267箇所で発生しましたが、ここもその1箇所、それを一箇所一箇所修復していきますから大変です。
右手に見えるところが旧の291号です。今走っている道は新しく造った道路なんですね。今にブルドーザーが見えますが、こちらに車がある道路見えますよね。あれが旧の道なんです。もう少し行くと分かるのですがスノーシェルターが全部落ちています。旧国道は回復不可能と土木学会が判断しましたので、このトンネルを掘り、新道を1年6ヶ月かけてつけかえたのです(*パンフ:神沢川沿いの国道が原形をとどめていないほど連続的に崩壊。現道での復旧は工期が長くなり、費用も高くなることや、将来的に災害の危険性が考えられたため、対岸の山をトンネルで通る別線ルートでの復旧とした)。正面には越後三山が見えて非常にいい場所だったんです。もうひとつ付け加えると、左側が沢になっているのですが、パイロットトンネルをまず造って、それから本トンネルを開けつつ、橋をつけるという工事を急ピッチで進めました。本来こういう工事は用地買収ですとか設計とか積算とかいろいろあって工事に入って、10kmが10年から15年かかると言われているのですが、それを国土交通省が県から引き継いで10kmを1年10ヶ月で造りました。相当なスピードで造って、そのひとつがこのトンネルです。
  大規模地すべりは芋川の河道を閉塞し、水位が上がって、架かっていた橋(*パンフ:旧「新宇賀地橋」)が水没しました。復旧工事にあたっては、砂防事業と調整を図り、上流に1年3ヶ月かけて橋(*パンフ:新宇賀地橋)を架け直すことにより国道291号を通しました。

−崩落現場を次々に通過−

【NPO職員・山口氏】 左が滑った箇所、右側が流れた土砂です。ここの集落は危険ですから、依然として避難勧告命令が出たままです。まだ、崩れたままなのですが、道を通すために土砂をどけました。

【上原副所長】 セルタイプという砂防堰堤が見えています。矢板(土砂の崩壊や水の浸入を防ぐため、礎の周囲に打ち込む板状の杭)で丸型に囲って中に残土を入れる工法です。残土が出てこないですから、いい方法です。
正面に見えてきましたのが東竹沢地区で土砂崩壊が一番大きな地区です。土砂崩れダムが出来た場所です。正面、茶色が少し緑がかってきていますけれど、斜面が崩れてきて押し寄せてきて芋川をせき止めた場所です。120〜130m3の土砂が崩れ落ち、上にたまった水の量が250万立方米くらい。上の木籠(こごも)という集落が確か14戸くらいだったと思いますが、水没し、現在も土砂に埋まっている状態になってしまっています。山口さんがお話してくれたのは新宇賀地橋のことですが、旧の橋が下方に見える橋です。この橋が水没してしまったために、この現場に重機を持って来れなかったのですね。唯一、対岸のほうから山道を切り開けばこちらのほうに来れたのですが、そちらも土砂が崩れて入れない。それでとにかく土砂を水の中にたたき込んで重機を通れるようにしました。けれども、どんどん土砂を入れるのですが、思うように行かなくて船で渡したり、ヘリコプターで運んだりして、現場の皆さん、非常にご苦労いただいた場所です。
 この現場は復興後をどうしようか非常に議論になったのですが、地震直後は土砂がたまっていたのですが、専門の先生に見ていただいたら、比較的安定している。たまった土砂を取り除くのは非常に難しいというので土砂はこのままにして、下流に砂防堰堤を建設することになりました。
では、芋川河道閉塞部復旧工事現場に降りて見学していただきます。

─芋川河道閉塞部復旧工事現場(見学)─
【上原副所長】  流れ込んだ土砂が非常にサラサラとした土砂で水にとける感じなんですね。長靴についても水でサーっとやるときれになってしまう。だからどうしようもないんですね。どんどん水の中に溶けてしまう性質があります。
  下方、左の建物が旧東竹沢小学校ですが、体育館の真ん中にホースを通したというのでテレビ等で衝撃的に放映されたのですが、地震のときは既に廃校で、住民の皆さんの集会のためのコミュニティ広場になっていました。私どもも体育館でなかったので通させてもらったという経緯があります。
  この付近にはあまり集落はなかったんですね。ただすぐ下流に十二平(じゅうにだいら)という集落があり、山を越えた向こうは、中山隧道という手掘りのトンネルがある小松倉(こまつぐら)の集落があります。地震直後はすぐ35億円、1日1億円、その後、砂防ダム等で昨年今年あわせて2年間で100億円くらい投入されているはずです。


─中山隧道へ(バス内)―

 

【NPO職員・山口氏】  以前は幅15mくらいあった芋川ですが、この川がせき止められて今は湖、湛水湖になってしまいました。この先に集落がありますけれど、全部2階まで砂に埋まってしまい人道的にも耐えられないのでお見せできません。住民の皆さん移転しようと今、協議に入っています。
  これから国道291号の最高標高を通っていきます。一番高いところが、ここですが、全部崩れてそのまま谷に落ちていました。ここが通れないので、もうひとつ向こうの集落(小松倉=旧山古志村の最深部)がずっと孤立したままでした。自衛隊が行った2000人ヘリコプター救出作戦の場所です。ここが上から土砂が落ちてきて道路がなくなり車や重機が通れなかった。集落が見えていても誰も行けなかったんです。歩いては行けました。
  孤立してしまった小松倉の集落です。東竹沢で崖崩れは終わっていたので、被害はなかったんですが。この集落は、手掘りでは日本一の長さ(922m)の中山隧道を掘ったことでも有名です。この集落には病院や商店はなく、用事のある時は中山峠を歩いて通いました。峠は約7kmですが険しく、冬場は3m50cmくらいの雪が積もりますから和かんじきを履いて病人を担いで半日がかり。病院は小出町ですから更に歩くわけですね。峠道は私で8時間くらいかかりました。それが隧道を歩けば20分で行けるんです。そういったことから昭和8年、住民の皆さんが手掘りでトンネル掘削を決心して着手、16年間かかり昭和24年完成させたというものです。この隧道は平成10年に中山トンネルが開通するまで現役の国道のトンネルとして機能していました。
  中山トンネルは1年6ヶ月かけて開鑿しましたが、これも1kmのトンネルとしては異例の早さでした。詳しくはお配りしました「越のくにづくり ほっと・ほくりく」の記事をご覧ください。地震の災害はトンネルを境にこちら側はほとんどありません。
 


─中山隧道(見学)―


─堀之内・六日町をめざす(バス内)―
【NPO職員・山口氏】  降りていただいて正面に東竹沢を見ましたね。その右側の山の反対が最大震度の震源地・川口町というところなんですけれど、簗場(やなば)があるところです。震度7だったのですが、地震計が壊れ、震度7が分からなかった震源地です。そこから周辺に移っていくのですが、何回かあった地震のうちたった1回だけ反対側、あとは全部魚野川側だったんです。魚野川を境にして、ひとつ抜かして余震は全部山古志側で起きました。たったひとつの地震が最大規模の震度7だった。その上にあったのがタムリ山というところでいつか機会があったらいっていただきたいですが、16世帯がほとんど全壊しました。まわりがほとんど何も起きていないのに、その集落だけが全壊しました。今は修復されましたけど、そこは下にも下りて来れないので、そこに仮設住宅を造って1年半くらい暮らしていました。タムリ山は川口町です。

【上原副所長】  「堀之内簗場」を見学する予定でしたが、時間が大分おしてきているため、立ち寄りません。楽しみになさっていた方おられると思うのですが、すみません。そばは通ってまいります。

【市川塾長】  残念ながら「堀之内簗場」には寄ることができません。9月10月はちょうど下り鮎シーズンです。毎日千人以上の人が訪れ、その1/3が県外、主に東京方面からだそうです。

【NPO職員・山口氏】  「堀之内やな場」が見えてきましたけれども、本当は峠を越えてくればすぐ来れるんです。先ほどの東竹沢から崩れたところを右側に十二平に入ればよかったのですが、今は全く行けたものではない。大型バスですと戻れもしないのでぐるっと回っているような次第です。実は山古志と堀之内は山を挟んでほんの少しのところなんです。それが今は全然行き来ができていません。芋川の水は魚野川に出てきていますから繋がっているんですね。

【市川塾長】  六日町盆地では魚野川の支流がつくった複合扇状地をつくっています。ここのコシヒカリが日本で一番うまいといわれています。皆さんの多くが、コシヒカリの原産地は越後だと思っておられますが、越前・福井県が発祥地です。越前ヒカリと付ければよかったものが、コシヒカリとつけたものでその名をとられてしまいました。
 
【NPO職員・山口氏】 では、私はここで降車します。ありがとうございました。
(車内拍手)


─鈴木牧之記念館(見学)―
○記念館のある塩沢町は2005年10月に南魚沼市(2004年六日町・大和町が合併)に合併し、南魚沼市塩沢になった
○鈴木牧之記念館は別名「雪の文化館」、平成元年に開館
○主な展示品
 1F 鈴木牧之について展示(著作物『北越雪譜』『秋山記行』『夜職草(よなべぐさ)』、自筆の書画、等)
 2F 雪国の文化について 

─帰路(バス)─
【市川塾長】 古代、越(古志)の国は越前・加賀・越中・越後と分かれていました。群馬県(上毛国(こうづけのくに))、栃木県(下毛国(しもつけのくに))は毛の国と呼ばれていました。なお長野県は古代から信濃の国という一つの国にまとまっていました。
 信州では「一里一尺」というと北へ一里行くと積雪が一尺多くなるという意味ですが、海岸は雪が少ないので新潟県での「一里一尺」は南に行くほど雪が多くなるという意味です。統計上最高積雪地は妙高高原市板倉町です。
 多雪地帯では、屋根から下ろした雪は「池」に捨てます。道は歩くところはかんじきで踏み固めました(雪踏み、道踏み)。「朝餉の雪踏み、昼餉の雪踏み、夕餉の雪踏み」・・・・雪踏みは男の仕事でした。子どもが学校へ行く前に雪踏みの作業は終えました。公共的な「御伝馬(おてんま)」仕事でした。昭和30年代から消雪パイプを設置し、地下水で雪を融かして流雪溝に流すようになりました。戦前、国道117号といえば雪が降れば何日間も不通になる国道で、雪踏みしたところだけが通れたのです。
 『北越雪譜』に輪かんじきの上に更に「スカリ」(大カンジキ)を履いた絵が描かれています。カンジキに紐をつけそれを両手で引き上げるのですが、その絵は間違っています。絵師は実際、現地で見て描いたのではなく牧之の話を聞いて描いたからだと思います。
佐渡の金銀は三国街道を越えて江戸に運ぶ手もありましたが、三国街道は治安がよくなかったので遠回りしてでも、信州・北国街道経由で春秋2回にわたり運びました。
 車は魚沼丘陵を越えて十日町へ出ます。
 野沢温泉の看板が出ています。昔越後の人は野沢温泉に湯治に来て、野沢菜の種を買って帰りました。そこで湯治客に野沢菜の種を売るようになり、中越はもとより上越、下越までも野沢菜が作られています。現在では野沢菜漬けは一年中仕込むため、信州では徳島県・茨城県からも野沢菜を仕入れます。今では台湾でも野沢菜が作られています。信州にリンゴ研修に訪れた高砂族の人が野沢菜の種を持って帰ったからです。
 右側、雪崩の防護柵がありますが、ちょっとした段丘面にも田んぼが造られています。
 この川にも鮭は上ってきます。昭和一桁の時代まで、信州にも千曲川・犀川の最上流、川上村や上高地まで上ってきていたのです。松本の日本民俗資料館に松本で穫れたフォルマリン漬けの鮭が展示してあります。
 このあたりは半日村といわれ、雪が降ってもなかなか消えません。米は作れますが、出稼ぎが多かったところです。諏訪の寒天の天屋(てんや)衆は新潟県の人で、3月まで出稼ぎをしていました。
 中里村です。きれいな段丘面です。雪崩が多いのでスノーシェードで守っています。また、民家は柱をたくさん建てています。信州では一間ごとに柱を建てますが、このあたりは3尺(90cm)に1本の割ですから、長野市あたりの2倍です。
 正面は信州では関田山脈、新潟県では東頸城丘陵と呼びます。大分、戻ってまいりました。関田山脈の平年積雪量は8m、多い年は12〜13mも雪が積もります。民家は壁が落ちないように腰板を張っています。
 左へ曲がって117号、バスは午前中に通ったところを一路戻ります。

 

【上原技術副所長】
 市川先生、ありがとうございました。皆さん、今日は一日お疲れ様でした。こちら担当者が急に参加不可になりまして、魚野川合流地点に入るのに時間がかかりましたが、近くまで行き着くことが出来ました。また、今回の千曲塾の一番の目的である中越地震の復旧現場の何箇所かを間近に見学していただきました。
 次回の視察旅行は2月頃を予定しております。またご参加ください。今日はご苦労様でした。
(塾生、拍手)
─長野駅着─

−終−


 

[第2号車]

長野駅出発


小布施ハイウェイオアシス(休憩)

【小林】 おはようございます。千曲川河川事務所の調査課の小林と申します。今回は第19回の千曲塾現地見学会ということで、いつもは大型バス1台なんですが、今回は2台分乗ということになっております。昨年、大町ダムに行ったときは雨で寒い思いをしたんですが、今回は天気が1日良いようなので、皆さん楽しんでいただきたいと思います。では1日、よろしくお願いいたします。

【滝澤】 おはようございます。今日はバスが2台になりまして、1台目が市川先生、2台目が私、滝沢と申します。市川先生から、見えたものを中心にしゃべるように言われましたのでご案内させていただきます。

 今、この左側が桜土手ですが、これは千曲川流域では早く造られたところでして良い場所になっております。先程、屋島橋を通りましたが左右に河原が見えました。白っぽい砂、それから砂利が見えたわけですが、川というのは自分でも少し関わってみますと、大変おもしろいなぁと思うわけです。

 今、左前方に赤と白の鉄塔が見えますが、この部分が立ヶ花。立ヶ花までの千曲川端を今まで走ってきたわけですが、立ヶ花から下流はまた違う千曲川になります。今まで見てきた千曲川というのは、中流域になるわけですね。中流といいますと、いわゆる上流、中流、下流ですから、千曲川、信濃川の上の方から下の方までということになりますが、今私が言いました中流というのはちょっと意味が違いまして、飯山までの区間でどう呼んだらいいかという場所がたくさんあるんです。

 佐久の方を上流と言えば誰でも納得するんですが、坂城から屋代の辺まで、これは本来なら中流域なんですけども、川の上流と言っても良いかと思うんですね。と言いますのは河床の勾配が急で、しかも川の流れが速いものですから荒川(あらかわ)になるんです。急流ですので、扇状地あるいは中州という地形をつくります。屋代の辺までは五加(ごか)を中心に中州というのができまして、そこに集落ができた。ところが唐猫(からねこ)のあたりから下流になりますと先程見てまいりました千曲川と同じようにゆるやかになります。

 今、左右に千曲川が見えてますが、中流域から峡谷部に入ったものです。千曲川は不思議な川で平らなところを流れたり、こういう峡谷をつくったり、それを繰り返します。今はもう見えなくなりましたが、この峡谷部に入った千曲川は蛇行をします。このトンネルを越えた右側の方に、長丘丘陵があります。この丘陵の北の裾にわんぐりと平らな部分が広がるんですが、その部分が千曲川が流れたところで蛇行していた部分を直に突っ切ったのが、先程の立ヶ花の下流から大俣までのところですね。いわゆる上今井の掘り割り、瀬直しをした場所ですね。立ヶ花というのは、そういうことで大事な意味を持っておりまして、そこで水を塞き止めるもんですから、明治の初めに丸山要左衛門が中心になりまして、捷水路(しょうすいろ)、つまり直に千曲川を流したということになります。

 そういうことで、一時は川の流れが良くなって、水害が少なくなったんですが、わずか20、30年するとまた元へ戻るような傾向が出てくるわけです。

 今、右側の長丘の丘陵と左側の方の丘陵の間を千曲川が流れますが、道路は千曲川から離れて丘陵の中程を通るようになっています。

 これから右前方、ちょっと見えましたが、橋を渡ります。この橋の下が昔の豊田村の穴田になります。今は中野市になりますけれども。斑尾川が流れていましたが、その川沿いにできた集落。左の方が、昔の永田村。永江と穴田が合併して永田村になるわけです。

 左の方も、丘陵と丘陵の間にできた盆地になっております。古道が永田の盆地を通って飯山の方へ抜けたのではないかというふうに言われております。芋川の方からここへ抜けてきまして、親川を通って斑尾山のすぐ麓に堂平。堂平よりちょっと下ったところに沓津という集落があるんですが、沓津、堂平、分道という集落がありまして、今は過疎になりほとんど人が住んでおりませんが、そこを通り、飯山の方へ抜けていったという説もあります。いろいろな説がありまして、どれがどうかとなりますと難しいんですけれども。

 これは断層でできた盆地ですけれども、この盆地を通り飯山へ抜けていき、これからまいります越後の方へ抜ける大事な道になるわけです。越後の奥に造られました蝦夷(えみし)に対する柵があり信濃の民もここを通って行ったのではないかといわれます。あるいは向こうの方の知らせをのろしを使って中央へ伝えたのではないかという大事な場所が、この盆地の永江ではないかというふうに言われていますね。ここから芋川の方へ行ったわけです。

 古い道でして、その後の東山道の支道は北国街道に沿ったと考えられていますけども。そういうことでは、ここは交通の大事なところで、今考えてみますと、高速道がここを通って野尻湖に抜けてますけど、昔に戻ったような感じがいたします。

 今、左の方に集落が見えますが、高野辰之のふるさとですね。これから通るこの道も、良い道になって古い道が分からなくなってしまいましたが、おおよそこの道を飯山へ下りました。その秋津へ下る途中からまた左へ斑尾山に行く道が分かれますが、自動車の道路がありますが、そこを登って沓津、堂平の方へまいります。

 上流域の流れをする河川は扇状地河川と言います。五加のあたりまではそれに近い流れです。それから中流になりますと、屋代から篠ノ井、松代、真島それからその下流に至るまで、自然堤防ができます。したがって中流域の流れといのは自然堤防河川とも言われます。上流域と中流域の川の流れが繰り返されるわけでして、特に小布施のあたりになりますと下流域に近いような感じがいたします。飯山盆地もそうですけど。

 長丘の丘陵の間を流れていた川の方へ下ってまいりました。右側の方が蛇行して流れてます。元々は川が流れており、やがて大地が隆起を何回か繰り返します。徐々に繰り返しますので、流れは岩盤の弱い場所、砂岩とか頁岩(けつがん)とか、特に砂岩のような弱い場所へ弱い場所へ流れますので、蛇行するわけですね。そこで穿入蛇行(せんにゅうだこう)がって入る蛇行。貫入蛇行とも言いますが、その穿入蛇行をして、右の方に見えるところへ出てまいります。その穿入蛇行をしていく途中に固い岩盤が河床に残りますので、立ヶ花から大俣を経てこの右側が蓮(はちす)ですが、蓮に至るまでの間に六つの滝があると言われております。

 その中で特に難所となったのが、笠倉と硲(はざま)の2個所です。笠倉、硲は今、集落がありますが、笠倉の滝と硲の滝、特に硲の滝は斉藤太左衛門の川船が善光寺のご開帳の帰りに参詣した人を乗せた船が硲の滝で岩にぶつかって、遭難しまして、大勢の方が亡くなりました。その場所は、また西大滝のところで、供養塔がありますのでご案内したいかと思います。

 その滝というのは、いわゆる上から流れ落ちる滝ですけど、民間では少し流れの早い、波立っている部分を滝と呼ぶんだそうです。先程の立ヶ花下流には、たくさんの滝があります。西大滝、東大滝、笠倉の滝、硲の滝があります。

 そういう滝のことを、また別名では早瀬と言います。波立っている場所ですね。国道を走ってまいりますと見えるんですけれども、高速でまいりましたのでその様子が見えませんでしたが、そういう場所を過ぎて千曲川は柳沢にぶつかりまして、それから下流の飯山盆地へ入ってまいりました。

 この辺に来ますと、いわゆる玉石だとか砂利が少なくなってまいります。小布施のあたりまでは砂利がかなり見えます。砂利はいろんな大きさがあるんですけれども、普通は礫…巨礫というとかなり大きい玉石ですけれども250mm以上の大きな石。千曲川の上流に行くと沢山ありますけれども。それからどんどん小さくなって来まして、径が2mmくらいも砂利と言います。小さい砂利のことはマナゴとかバラスとも言います。径というのは、長い方の径でなくて中の方の径で長さを測ります。2mmくらいの小さな砂利、それより小さくなりますと今度は砂になります。シルトといっている泥ですね。シルトは少し荒っぽい泥なんですけれども、16分の1mmくらいのかなり細かい泥です。そこらあたりをシルトといいまして、これよりもっと細かになりますと粘土になります。

 先程の立ヶ花のあの辺は、とてもいい粘土の産地ですね。立ヶ花辺から安源寺から、たくさんの粘土が出まして、学校の粘土細工なんかはほとんどその粘土を売って歩いたのが多かったかと思います。粘土はうんと細かい泥です。そんなふうに分けております。

 この辺に来ますと、千曲川は再び峡谷を抜けて、また中流域の流れになります。下流域と言ってもいいかもしれません。中野方面からここへ抜けてまいりまして、左の方に新幹線駅ができる予定ということで、先程通ってまいりました町ができてしまいまして、飯山の町は、秋津にできたこの町のおかげですっかり商店が少なくなってしまいました。

 右側の橋は綱切橋、いわゆる謙信の綱切りの渡しです。ここが交通の大事な場所になります。右側に、もうありませんが安田駅がありまして、そこに水神様が祀られています。左の方の飯山の新町は水害の常習地で、宿場があったわけですが、すっかり住宅地に変わってしまいました。

 左側の方に、低い丘がずうっと連なっています。ジャンプ台も見えていますが、長峰丘陵の南の方の端です。これから向こうへ行くと見えますが、長峰丘陵の南の端がジャンプ台になったり、スキー場になったり、住宅地になったりしています。それから左前方にある飯山城の跡、これも長峰丘陵の離れ山のような形で、それを利用したものですね。この長峰丘陵のすぐ下を千曲川が通ったわけであります。その丘陵の南側に城下町ができたということになります。

 これは一つの断層線が走っておりまして、丘陵ができています。中央橋が工事をやってますが、昭和30年代にこの橋を造ったときの鋲が打ってありますね。その鋲は一つ一つ全部、焼いたものを職人さんが火箸のようなものでつかんで、放り上げるんです。それを受け取った人が鋲をはめ込んで打つという本当に神業であります。そういうのでできたのが中央橋です。

 左側が飯山城の跡で川をうまく使った城。この飯山城のある丘陵の続きが左前方に見えます有尾の丘陵で向こう側の丘陵の間がちょっとあいていまして、そこが市之口というところで、新井の方に抜ける大事な富倉峠に行く道になります。現在は、もうちょっと向こうに行ったところから左に行きますとトンネルができまして、新井に抜ける道になります。

 右側、千曲川がゆったりと流れております。18世紀頃はもっとずうっと向こうの樽川に近い方、天神堂がありますが、そこを流れておりました。それが18世紀になりますと、今度は左側へ流れを変えまして、それから常盤の小沼、柳新田の方に流れます。

 18世紀を過ぎた頃から今の千曲川が流れるようになりました。そんなことで、飯山の方は水内郡、向こう側は高井郡です。高井郡と水内郡との境争いと言いますか、中州をめぐる争いでは、向こうへ流れた時にこちら側の人は、川の真ん中が境目ですから、この中州は俺の方のもんだと言い張って、自分の土地にして開墾したんですね。ところがその後、川が西へ流れちゃって、そうしたら向こうの人は川の真ん中が境目である、今度は俺たちの土地はこっちの方だっていうんで、かなり強い主張をされまして、かつてそういう主張をしたものですから、双方では解決できなくて、幕府に訴え出て、幕府の裁許によって決められるというところまでいきました。今、右側に見える寄州は、州が左側の陸地の方へ続いてしまったから寄州といいますが、これも昔は中州だったんですけれども、その中州が大事な耕地なものですから、これを巡っての争いは大変なものだったんですけれども。

 今、左側に、右側の堤防と同じ低い土地が見えますけれども、ここは千曲川の旧河道です。18世紀頃、流れておりまして、近年の58年の水害、つい最近の洪水でも大変な水害になった土地です。その向こうの方の山際の方にあるのが長峰丘陵で、丘陵の向こうのところに平らな土地があります。外様(とざま)平です。その向こうに黒岩山が見えますが、スキー場の。その間ですね。長峰丘陵の東側が急です。それから外様側の方は割合ゆるやかです。両側を断層がありまして向こうの盆地ができたわけであります。この長峰丘陵は地元にとっては大事な場所になっております。

 今、左の方に集落が見えますけれども、古い、トタンを被せたお宅の森に囲まれた…高く囲ってありますよね。一番高いのは、大地主の木内さんのお宅ですね。土蔵がみんな石垣の上に建っておりますから、洪水になりましても、ほとんど水の害を受けなかった場所であります。

 丘陵の特徴は、両端が低くなって、真ん中の辺が高くなる。これは長丘丘陵もそうですね。安源寺の方が低く、中間が高くなって、古牧の方で低くなる。ここも同じで、そういう隆起をしてできた丘陵を突っ切っているのが、今、戸狩から入ってまいりました峡谷になります。俗称で市川谷といわれる谷です。

 今、市川谷の中の大倉崎を通っていますが、この大倉崎は舟渡しがあり、斑尾から小菅権現に来る大事な参道になっております。

 今は、この常盤大橋で突っ切りますが、もうちょっと右側の方に橋が見えます。あれが大関橋です。あそこは渡しがありまして、あの渡しの右側の方に鳥居がありましてね、その鳥居をくぐっていくと関沢に行き、そこに鳥居があります。そこをずうっと上がっていきますと、毛無山へ行く道の途中が小菅の権現さんのあるところですね。非常に長い参道になっております。今通っているのは関沢の中の屋株、右側の方が柏尾になりまして、これも洪水の際に水浸しになった場所であります。

 右側の方も丘陵で、右側の鉄塔が建っているあの辺はグランドがありまして、下高井郡の岳北地方の高等小学校まで連合運動会の運動場になった場所であります。

 右側の方に行ったところに石碑がありますが、大変、水で苦労した場所で、いわゆる大正7年に始まる内務省堤防の築造、その時になぜか柏尾の土手だけは外れたんですね。計画に入らなかった。これだけの水害を受ける場所なのに外れたんですね。瑞穂の村長さんが会合に出たら自分のところだけ堤防の計画がない。びっくりしまして、交渉しましたがもう決まっていることだから却下されまして。ねばりにねばって昭和12年頃じゃないですかね、ようやく堤防を造るところに組み入れてもらったのではないかと思います。

 そういう点では、この柏尾の方は大変な苦労されているわけです。その柏尾の本村から丘陵を開拓していきまして、こういう棚田ができるんですが、柏尾の分村、枝村になったところがこの北原といわれるこの地区なんです。柏尾の一番北の端になるわけですね。

 ここまでが、飯山市に入る前の下高井郡瑞穂村です。それからこの左側の今、ゆったりと流れている峡谷の向こう側は、昔の岡山村です。丘陵のようななだらかな丘が見えますが、千曲川が下方を掘りながら流れていったその跡が残っているわけですね。河岸段丘の崖と言ってもいいかもしれません。

 向こう側に平らな部分があります。広い平らな部分がありまして、特に広い部分は上段(うわだん)といわれまして、飯山市の温井というところから羽広山、柄山(からやま)、ずうっと下流の方の藤沢の方まで平らな段が開拓されております。

 今、左側に見えるのが湯滝、日帰り温泉の湯滝温泉。カヌーがここまでまいります。左側に波立ってるところがありますね、こういうのを早瀬、昔の人は滝と言ったわけです。

 今、河岸段丘の上の平らなところが見えて来ましたね。その向こうに見えるのが関田山脈です。関田山脈の向こう側が新潟県。関田山脈の一番高いところは1200mくらいありましたね。鍋倉山があります。その鍋倉山のブナ林は、行かれた方、大勢いらっしゃると思いますが、あそこは良いですね、ヤマユリなどもありますし。

 関田山脈の山嶺は平らで、そこに13くらいの峠がありまして、一番北の端の方に深坂峠という峠があります。それから野々海峠から始まり、牧峠だとか関田峠、富倉峠、そこを越えて、新潟から塩や四十物(あいもの)(塩魚類の総称)、干魚などが運ばれてまいりました。それから酒なども入ってまいりました。

 今、矢垂の大橋を通りますが、この右側の方が旧市川村の平林集落、そしてここが矢垂。左側に千曲川の蛇行がよく見えます。この蛇行の低い段丘の崖の部分を飯山線と国道117号が走っておりました。今はこちらが国道になってますが、本来は左岸の方が国道であり、明治になって開かれました谷街道です。これは屋代までまいります。この谷街道は、最初七道開鑿計画の中に入っていなかったんですが、やがて加えられ谷街道がつくられました。幅が二間半ぐらいですから非常に狭いですね。やがて改良してようやく三間位になるんですが、昭和になって国道に昇格するとき、昇格の条件は幅4m、ところがここは3.5m位しかありませんから国道にならないんです。非常に苦労してようやく国道に格上げされました。

 この右側、虫生というところです。かつての内山紙の大産地です。内山紙を作るいい泉が湧いておりまして。ここはマムシの産地でしてね。

 今、右岸をまいりまして、西大滝ダムにまいります。西大滝は大事な場所で、斉藤太左衛門が通船を始めたところでもあります。今、左側の方に谷が見えます。この丘陵が深い谷で、ずっと奥の方に架かっている橋は構造改善事業で造ったものです。上は平らなんですけれど歩いてみますと、深い切り立った谷で向こう側に行けないんです。「おーい」と言えば声は聞こえるんですけど、渡れない。私、この辺は昭和30年代の初めの頃、自転車で歩いてるんですが、開拓や農業を調べて歩いていたんですが、渡れないんです。温井から羽広山、柄山、藤沢へ抜けたんですけど、「おーい」と言うと、向こうにいる人が「こっからずうっと下って渡ってまたこっちに来な」って。しょうがないから下の方へ行って崖を自転車担いで川を渡って、また崖を上がって行く。そうするとそこに開拓の集落があるっていうような状態ですね。おもしろかったです。

 この辺では、真っ先に農林省がやった国営事業で、そこを開いて、酪農の実験農場を造成する。その時に行ったんですが、雪のあるとき、雪は5月までありますから、「冬どうするんだね」と聞いたら、「上から鉄管を通して藤沢の元の集落まで牛乳を降ろすんだ」と言う。びっくりしました、すごいことを国はやるんだなぁと。その藤沢実験農場は、結局は失敗するんですが、やがて飯山市長になられました小山市長さんがここへ入られましたね。

 これが元の国道で、長野県の国道はこんなもんですね。新潟県に行くと倍になりますからね。左が飯山線です。90何kmかありますが、豊野から越後川口駅まで。そのうちの半分は新潟県側です。ただ新潟県側の40何kmキロも以前は長野鉄道管理局の管理下です。

 ここに公園が出来てますけれども、この藤沢の集落の上の段が藤沢の実験農場です。今行きますと、広々とした土地で荒れ地が多くなっております。

 また途中で、千曲川通船の斉藤太左衛門の川船、問屋、それから溺死供養塔、その説明はそこでさせていただきます。


西大滝ダム(休憩)


【滝澤】 ここの西大滝の斉藤太左衛門が寛政2年(1790)に通船を始めたんですね。随分長い間願いが叶えられなかったんですが。左側の青い屋根が斉藤さんのお宅です。ここで三艘の通船に荷物を積み込んで須坂の福島宿の河岸(かし)まで通船が許されました。左にお地蔵さんがありますね。そのとなりに石碑がありますが、あれが供養塔で、今、左に行く道が昔の国道です。谷街道になるわけです。

 この谷街道沿いに、溺死供養塔が寛政12年に建てられたわけです。斉藤太左衛門は86人の方が亡くなられたことに大変心を痛めまして、自分の後を次ぐ人たちにそれを申し伝えております。供養塔を建てて霊を弔ったわけです。斉藤太左衛門の舟は、最初は二艘、ここから福島までまいりました。積荷の中心は塩でした。塩が今の集落の向こうの関田山脈を越えてここへ運ばれてきまして、その塩を中心に四十物、これは干魚です。その他、酒などを上郷の上高井地方へ運びました。それで向こうの方からは穀物や薪だとか炭だとか、その他の物が下ってまいります。

太左衛門船の通船は大変儲かるということで、やがて善光寺町の小野厚連という人が通船を天保年間に願い出ます。その時に、厚連さん、うまいこと手を使ったんです。どうしても許可できないって言うんで、5年だけ試しにさせて下さい、5年経ってもし他に迷惑がかかるようならやめます。そういう条件で認めてもらって、5年の見試しで始めたんですね、ところが5年経った時にはすっかり実績がありますから、そのまま通船が続きます。やがて松代藩が今度は専売で目を付けまして松代船というのが中に入りまして、江戸時代には川船が西大滝から市村、長野市の丹波島まで通りました。明治になって今度は、川田の西村又右衛門が、通船の会社を作って、西寺尾に本社を置いて、上田に支社をおきます。千曲川の通船は大きなもので75石積み(11.25t)、小さい船で50石(7.5t)ありましたが、それが上田まで行ったものかどうか私にはちょっと分かりません。塩崎の唐猫には河岸がありました。

 今、峡谷の中の滝を見ながらどんどんどんどん下っております。この東大滝から森の滝まで切り開いて、なんとか新潟まで船を通そうというのが厚連の夢でした。実際に小さい船で下ったようですが、通船として営業出来たものかどうかは分かりません。というのは明治になりまして、厚連の子どもが、先程の又右衛門と一緒にこの辺の滝を開削して、新潟に船を通そうという努力をいたします。最終的には塚田順作という方も入るんですが、結局それは反対が多くて、それで開削する話は明治初年に終わります。

 その前にもう一人、大事な人物がここを開こうとしました。松代に横田邸(国の重要文化財)がありますね、大審院長の横田さんのお宅ですが。この横田数間(かずま)の子どもが横田英ですね。富岡製糸へ行った優秀な人ですが、その後、富岡日記を書いてます。英さんのおじさんになるのかな?その方が、松代藩の金を借りてここの開削を企てます。随分金を使うんですね。ところがうまくいかない。「また一万両貸してください」と言うが藩は金を出さない。とうとう松代藩の人から山師だと言われて東京に出て病気にかかって亡くなります。悲惨な最後ですね。

 この右側の集落が常慶院のある箕作(みつくり)です。この常慶院はこの辺の曹洞宗の寺を取り仕切っている大寺です。以前、NHKの除夜の鐘の時に、この寺が出たことがあります。

 今度は青倉です。市川先生も案内の度に説明されますが、青倉の倉は崖のことです。去年、高瀬川の方に行ったときも崖の話を市川先生がされました。向こうでは崖のことを巾(幅)といいます。青とは色の付いた物。白に対して、色の付いた物が青です。必ずしも真っ青の青ではないわけです。

 飯山線は不思議な鉄道でして、国道の上の段を走ったり、下段を走ったり、飯山線の線路は神出鬼没と言いますか、とてもおもしろい。ここは豪雪地帯ですから大変なんですね。左に行くと森宮ノ原駅へまいります。この道路は国道の中で一番早く広がった部分です。なぜ今の部分まで早く広がったっていうのは、昔の田中角栄さんに関係あるわけですね。田中角栄さんが広げたのは、もうちょっと向こうの橋を渡った向こう側、新潟県側ですね。それにあわせてようやくこちら側が先程のところまで広がったというのが実情です。

 いよいよ新潟県にまいりました。秋山郷へ行くには、今の橋を渡って志久見から行かれますが、県道の補修をするまでは、途中集落のあるところまではいいんですが、その向こうは命の縮む思いで崖を降りないと秋山へ着きません。ですから秋山郷に行くには、これからまいります津南町を経て、見玉不動尊のある見玉へ行って、そこから峡谷をさかのぼって、結東(けっとう)、坂巻温泉のあるところですね、で、秋山郷へ行きます。

 今、左側に下位の段丘があり、その下に川が流れています。その向こうは丘陵が見えます。これは段丘崖です。これから川口までまいります地形の一番の特長はこの段丘崖です。千曲川が隆起する山中を下刻(かこく)(下方へ掘って)しまして、信濃川は越後平野へ出るまで流れてまいります。

 川の性質は三つあると思います。一つは下方へ侵食する下刻です。下刻するとある程度水が余りますので今度は横へ掘ります。これを側刻といいます。それで川幅を広げます。

もう一つは、そうやって削り取った砂や石を水の力で運搬します。これが二番目の性質です。運搬するのは二通りあります。一つは砂や砂利を水の中へ含めて、下流へ持っていきます。もう一つは川底を削り、その削った川底の石を転がすか、あるいは運んでまいります。そして運搬した物を途中で投げ出すんですね。これを堆積と言います。砂や石を置いてきます。それが現在の川の姿をつくっています。雨の量だとか、熱だとか、風だとか、いろんな要素がありますけれど、川にはそういう性質があり変化に富むいい景色をつくり出すわけですね。

 この中越の上流は、河岸段丘の連続です。これが一列だけでなく、二列三列とあるんです。千曲川へ流れ込む支流は、また河岸段丘をつくります。非常に景色の変化があって楽しいのが、この信濃川の上流のこの峡谷の部分です。そのわずかな下位段丘を利用して集落ができております。これからまいります津南町、十日町、みんなそういうようなところに、わずかな平地に住み着いて生活を繰り広げてまいりました。

 次の信号を左にまいりますと、津南駅、松之山と書いてあります。長野県の西山とここは同じ地質です。第三紀層です。その第三紀層を信濃川が掘って流れているわけですが。ここは日本で有数の地滑り地帯です。長野県も日本有数の地滑り地帯で、その続きがここまできてるわけです。第三紀層は砂岩とか、もろい岩石のところですので、地滑りが起きるわけです。そういうことで、ここの方々は地滑りとの共存を求められていたわけですね。

 左に大きな集落が見えます。下位段丘から段々に上に方に上がってきます。6段ぐらいまでこういう平坦面があります。つまり何回かにわたってこの場所が隆起したということを物語っています。

 この辺は豪雪地帯で最高8mも積もる。1日に1m以上積もることがあります。晩に降り出して、朝になると80cmから1m積もります。飯山の方でもそうです。雪国の人は、囲炉裏に薪をくべて火を囲んでいると、雪の降る気配が分かるんです。飯山の方ではそれをしんしんと積もると言います。明日はすごい雪になるぞというのが分かりますから、朝4時頃起きて雪踏みをやります。そういう生活の知恵がずっと伝わってたんですね。私も雪深いところに7年ほどいたので雪のことはよく分かりますが。

 ここを右へ行きますと清津峡です。清津峡は日本有数の渓谷美、日本三大渓谷の一つと言われています。なぜ清津峡がすごいかって言うと段丘崖ですね。清津峡の方は、緑色凝灰岩層、上田のお城の石垣に使ってあるグリーンタフですね。グリーンタフが小県地方からずーっと新潟県、東北地方まで広がるんですが、そのグリーンタフのところを清津川が削って、深い峡谷をつくりました。その峡谷の部分が柱のようにヒビが入る、柱状節理。節理とは岩が割れる状態を言います。諏訪や佐久の鉄平石なんかがそうですね。非常にうまく割れます。しかもあそこはグリーンタフのところを流れてくる。緑色の水の色、これが深いよどみを作ります。

 冬は行ったことがないので分かりませんが。なぜ冬に行ったことがないかって言うと、あそこは「わや」が起こるんです。「わや」って言うのは表層雪崩です。新しい雪が古い雪の上に積もって、気温の変化で6℃くらいになるとバーッと滑ります。飯山ではそれが一番恐ろしいんです。スピードがあるし、広範囲に及ぶ。その「わや」で、昭和59年頃でしたかね清津峡の旅館が潰されました。そういうことがあって大変なんです。雪国の大きな恐怖は「わや」です。

 それから、もう一つの全層雪崩が「地こすり」です。「地こすり」というのは、文字通り、積もった古い雪が地面をこするようにして滑り出します。雪崩は大きく言えば、その二つの種類があります。「わや」の起こる山は、見ればすぐ分かります。特に春先よく分かるんですが、今、左右に見える丘陵、ここでは「わや」は起こりません。「わや」の起こるところは、先程、萱葺き屋根の家がありましたですね、それの集落の近くに茅場(茅や低木の、灌木の生えている急斜面の部分)というのがあります。飯山ですと黒岩山スキー場のある、ああいうようなところ。非常に危ないです。鬼無里の水芭蕉のところに行く途中も危ないです。

 十日町で織られている明石(あかし)縮は絹織物です。絹織物の前は苧麻の織物です。原料は青苧(あおそ)・カラムシです。その皮を三角のようにした爪で、右の手で裂くんです。それを左の手でよるんです。江戸時代の記録を見ますと、女性がそうやって1日かかって苧み出す麻の糸が、1日2匁から腕のいい人で5匁ぐらいしか苧めない。その糸を約200匁使わないと、一反織れないというんです。一反織るのに約30日かかるんですね。青苧の繊維を居座機(いざりばた)で織ったものが縮(ちぢみ)や上布(じょうふ)です。その縮や上布の産地、津南町から十日町、小千谷、今そこを走っているわけです。現在は大変苦しいようですけれども。後で牧之会館に行きますが、牧之はこの縮を雪の産物だと言っています。雪国のアオソを雪の中で紡いで、雪の中で織っています。織った布を雪にさらして白くする。上布にする。そして、それを売るわけです。まったく雪の産物だと言ってます。その通りです。内山紙と同じように白い物を造り出す。吹きっ晒し、これが非常に大事になります。

 長野県立歴史館に編布(あんぎん)が展示してあります。簾状にしたものが編布であり、織物ではありません。この編布を真っ先に紹介したのが十日町の民俗学者小林さんです。秋山の編布の伝統の技術を継いでいる方がおり、県立歴史館も編んでもらいました。まだ歴史館ができる前、準備室の頃ですね。

 ここは中世の頃、妻有の里と言われて、名前を聞くと「妻」が「有る」、いい名前なんですけども、実は越の国のつまり、つまったところですね。新潟の歴史の方がそう書いてます。一番のどん詰まりのところだと、こう言ってます。

 雁木のようなものが見えてきました。長岡の方は妻入りと平入りと二通りの雁木があるんですね。高田の雁木と長岡の雁木は違うんですね。家を建てる面積、間口の違いです。長岡の新潟県歴史博物館には雁木も復元されていますし、雪が一丈六尺積もったという絵を描いた物があります。楽しめる博物館ですね。一丈は十尺。30×10ですから約3mちょっと。一丈六尺ってのはすごいですね。日本で一番新雪が降った場所は、高田の近くの村なんですが8mも積もりました。高田の町が雪になったときに、「この下に町有り」っていう看板を出したんですね。それを飛脚が見て、全国に広げて有名になったんです。

 飯山の方は、北陸関係の言葉がたくさん入ってきまして、人が来たとき「よくおいでなんし」って言います。「よくきたなぁ」という意味ですが、とってもやわらかないい言葉です。人を呼ぶときは、「こっちへこらっしゃい」と言った気がします。帰るときは「あちゃそろそろとね」なんて、「あちゃ」という言葉は佐久の川上の方でも使いますけれども。こちらの言葉が向こうに通じるものが沢山あります。

 さんざんしゃべらせていただいてありがとうございました。川の住人の魚については、浅野井先生からお話ししていただきたいと思います。


【浅野井】 どうも、こんにちは。千曲塾、私は初めての当選で出てきました。今回2台ということで前の方へ座らされましたけど、実は昨年、11月17、8日頃、市川先生のご推薦で、ある雑誌の件で信濃川大河津資料館の五百川館長さんと私と対談しました。…千曲川と信濃川…という題でこっちの方に来て、一晩泊まりでやったわけです。その時、漁師の方からも半日くらいお話を聞きましたので、その話をしてみたいと思います。

 40年近く鮭を捕っていた漁師の小林常太郎さんという方からお話を聞きましたが、本職は農業だったそうです。漁師の人は、鮭の雄のことをカナって言うんです。雌のことはメナ、卵をすり終わったのはホジャレって言うんだそうです。ヨボヨボになった雄の鮭はホーテン。ホジャレっていうのは、どこから取った言葉かって言うと、昔、宿場の飯盛り女で白粉(おしろい)がはげた人のことをホジャレって言ったそうです。それを鮭につけているわけなんです。うろこが落ちた鮭をそれになぞらえたのでしょう。

 戦前は、随分捕れたそうです。兄弟二人で1日に70匹捕ったことがあるそうです。けれども戦後は捕れなくて、せいぜい一人で一日12匹ぐらいが関の山。また漁師が集団でイグリ(居繰り)漁と言いましてね、2艘の船の間に網を張って川を上下して捕る方法、あるいは待川といって網を横に張っておいて、ウケと言うんですか、ツズといいますか、そういうところに鮭が上流に行けず網に沿って入ったのを捕る方法もありました。でも、この漁師さんは、そういうのもやりましたけども、主に一人か二人で長さ4間位の根曲がり竹を使うと言いました。根曲がり竹にそんなに長く太いのあるのかなあと思ったんですけども、こちらの方は豪雪地帯のところですので、木も竹も根っこからいくらかずつ曲がって生えます。ですからそれを使ったんじゃないかと思います。そこに返し付きの針、大体長さ13cmです。幅が7cm、太さが1cm。鍛冶屋さんに作らせていたそうです。

 鱒は利口なんですが、鮭は非常にバカなんだそうです。自分の目が見えなきゃ他も何も見えないもんだと思っているらしいんです。竿は長さ4間位ですから、8m近くあります。それに針をそわせて捕る流し鉤(かぎ)という方法をしたそうです。捕った鮭はみんな自分のものになるからです。鮭は産卵の時にホリという穴を掘ります。大体雄がやるわけなんですが、そのホリは産卵の床を作るわけですが、これをこちらの方ではホリカワと言っています。更埴の方ではホリって言います。そういう穴ができたことを、ホリがついたとか言っております。

 昼間は鮭はバカでも目が見えるもんで、夜、大体ホリカワのある場所はわかりますから船に乗って、碇を降ろしまして、そこに針と糸を竿にそわせて流すんだそうです。鮭が慣れるまでそうやって置いておくんだそうです。そのうちに鮭は邪魔になって竹をどかそうとします。どかそうとして体当たりをするんだそうですが、その時に返し付きの針が鮭のどこかに引っかかるわけです。ですから、長野の方で言えば、擦り釣りとか、引っかけ釣りとか、そういうのと同じだと思います。夜、命がけだと言ってましたね、真っ暗ですから。捕ったのは、朝、風呂桶に入れておいて夕方になると仲買人が来て売りました。仲買人は、それを全部塩引きにして信州の方へ送ったと、こんなことを言っております。

 親の魚は親魚(しんぎょ)と言うんですが、お腹に子供のある時は雌の方が高いんですね。卵を産んじゃってホジャレってことになると、うんと安くなります。逆に雄の方が高くなります。40年間、引っかけみたいな釣り方をしていて、いっぺんに2匹捕ったことがあるそうです。大体、ホリの中の雌は少なくて、雄の方が何匹も集まってきます。そこで雄を主に釣り上げるんだそうです。漁期の真っ先に捕れた鮭は諏訪明神、お諏訪様がこの辺は非常に多いんです。そこに鮭明神という社もあります。魚野川の合流点よりちょっと上ったとこにありますが、その諏訪明神の鎮守にみんなが集まって御供えをします。御供えをする方法は、真っ先に捕れた鮭の尻尾を長い串に刺して立てます。この回りに綱を張って御弊をぶら下げます。そして神事の後にみんなで食べるんだそうです。

 信州では年取りの晩に各家で鮭の尻尾を御供えします。うちの方では、鮭の尻尾をちょっとした串に刺しまして、逆ハート型のしめ縄を作りまして、そこにさして恵比寿様に御供えするんです。年寄りに聞きましたら、尻尾は恵比寿様にあげるんですが、尻尾に近いところは子供にやるんだそうです。頭に近いところは、これは新潟の方もそうですが、一の切れと呼んで、一番美味しいんだそうです。これは年寄りにやるんだそうです。なんでそんなことやるのって聞いたら、年寄りは先がないから、ここをやるんだと言うんです。尻尾に近い方は、子供は、まだまだ先が長いよと、こういうわけだそうです。

 一月一日は開放日です。鑑札は12月31日までですから、誰が鮭を捕ってもいいんだそうです。奥手の鮭はその頃でも結構来るそうです。けれども多く捕れるのはホーテンだそうです。ですから、早く捕れた鮭は信州の方へどんどん送っちゃって、遅いのは地元の方で食べたようであります。その漁師さんの家には神棚がありました。一番右側にお稲荷さん。これはウガノ御霊の神ですから、飯綱信仰ですね、食べ物の神様です。真ん中に大黒様、左側に大黒さんの子供の事代主命、これは俗称、恵比寿神ともいっております。そこに年取りの晩に御供えをするんだそうであります。その時に、お稲荷さんの方には頭、恵比寿さんの方には尻尾、こういうふうにちゃんと決まっていたそうです。今頃になりますと、稲を刈ったのを昔は全部はざきにかけておいて、冬、雪が降ったら家の中で脱穀するんだそうであります。そして鮭捕りに出たもんだと、こんなことを言っておりました。

 そういうふうに苦労して捕った鮭でありますが、家中で食べるのは年取りの晩だけで、後はみんな売って稼いだもんだと、言っておりました。じゃあ他に何捕ったのって聞きましたら、他に捕ったのは鮎だそうです。天然の鮎です。これはどういうことかっていうと、昭和9年頃は大凶作で、一反歩でほんの少ししか米が穫れなかったんですが、米一俵9円の頃、鮎一貫目が10円したそうです。鮎一貫目って言うと大体20匹から25匹のようであります。そこで鮎釣りが始まったそうです。これも養殖の鮎が入るようになってから値段が半分になっちゃったそうです。その他に捕ったのはカジカだそうです。これは婚礼の席にはカジカの吸い物が通例になっておりますので、カジカを捕ったようであります。後は捕らなかったと言っておりました。下流に妙見堰という大きな堰き止めがありますが、それができてから鮭が上流へ上るのに、4、5日かかり、魚道を見つけるのに苦労するっていうんですね。そのために油が抜けて、漁師に言わせれば、ちょっとまずくなったと、こんなことを言っております。

 更埴の方でもホリができました。直径1mぐらいの穴です。漁師はどうするかっていうと、越後の方は鑑札を持っている人は誰が捕ってもいいんですけれども、更埴では自分が見つけたホリだということで、石を二つか三つ積み重ねるんですね。自分の権利であるぞよって。ですからそのホリに鮭が寄りついても、他の漁師は、見つけた人以外は捕ることができませんでした。

 私は昭和14年に小学校に入学しておりましたから、15年頃まで鮭が上ってまいりました。しょっちゅう子供は河原へ行ってて、河原の上から千曲川を見ていますと、ホリに鮭が来てる時はわかるんです。そうすると、一人か二人が漁師の家へ使いに走るんです。「おっしゃん、ホリついてるよ。魚きてるよ」って。そうすると漁師が網を持ってくる。それで網をかけるんですが、普通の方法では鮭は、はね除けてしまいます。ですから網を打ったら、上流へ飛び込むんです。そうすると網の手元に鮭が飛び込んで逃げられません。またホリには必ず雄と雌、2匹位ずついます。一匹取り逃がしても、必ずまた相手を見つけて2つ来るんですね。どうしても捕れない時には、鮭はバカでありますから、大体法則通りに逃げます。逃げ道を見ておいて、そこにカマスっていう袋網をかけるんです。それで鮭を捕ったようです。漁師が捕った親魚から筋子を取って味噌汁の中に入れて煮たものを丼に入れて持ってきてくれるんですが、鮭を見つけて言いに行った時には、鉄砲玉(飴)を二つか三つ位ずつもらったもんで、それが楽しみでした。

 それから家の方では麦を作っておりましたので、麦の風よけに冬柵(ざく)というのを切ります。北側に土を盛りあげるのです。これは力仕事ですから大体若い衆がやるんですが、これをやった帰り道に必ず千曲川のほとりを歩いて帰ってくるんです。大体11月ごろですからね。その時に、子供をすり終わったホジャレとかホーテンだとかがヨタヨタしながら岸部に寄ってくる。これをクワガラ(鍬)の峰で一撃して家へ持ってくる。今の味覚ではとても食えた代物じゃないと思うんですが、当時の人々にとっては大変なご馳走だったようであります。

 信州の方では、網ひとつのことを一反と言います。新潟の合流点の方では、網一つのことをイチド。ドというのは頭という字を書きます。網一頭は麻でできていて、米一俵と同じといわれ高価でした。鑑札を持っている人は網を持ってきて投網で捕ことができるんですけども、網だけ持ってきて捕るのを見物してる人がいます。これを分け前取りと言うんだそうです。その人が網を持って来てると、捕った半分をやらなきゃいけないって言うんですね。そういう分け前取りっていうのが随分いたもんだと、こういうふうに話しておりました。

 大河津分水路ができるまで、越後平野は湿田地帯です。越後平野では水の排水に困るんだそうです。大河津分水路ができるまでは、台風シーズンの水が完全に抜けるのが11月だったそうです。したがって、お米の質が悪いんですね。昔は、新潟のお米は、鳥またぎ米って呼んでいたんです。鳥さえまたいで食わないっていうんですよ。今から考えれば夢のような話です。で、しょうがないから新潟の方の人はどうしたかっていうと、これをおかきやせんべいや柿の種に加工して、付加価値を高めて出したわけです。これが、今新潟でおかきなどの物が盛んになった原因であります。じゃあ残った米はどうするかっていうと、おいしくなくても食べてくれる地方に安く売ったそうです。

 ここの合流点まで千曲川です。十日町の盆踊りの歌詞に、千曲の河原でうんぬんというような言葉があります。明治になりましてから行政の関係で新潟県の方は信濃川になりました。洪水のことを新潟の人はなんて呼んだかっていうと、信州水とか、信濃水。信州の人間は悪い水ばっかりおらほへよこすと、そういっておりました。おらほの方はろくに降らないのに田んぼが水浸しだって怒っておりました。


【滝沢】 新潟平野はかつて地図帳に載っていた平野の名前ですが、その後、教科書の地図帳の名前も越後平野に変わるんです。これはどういうことかって言いますと、国が勝手に新潟平野とはなんだと、新潟県の人たちがものすごく怒ったんです。元々ここは越後の国、その一番大事な平野を新潟平野とは何事だと。越後平野に戻せということで、越後平野になりました。その位、新潟の人たちは越後平野を大事に考えているということかと思います。


【浅野井】 まもなく魚野川を渡ると思いますが、左手の山の上にあるのが「和楽美(わらび)の湯」という日帰り温泉施設です。なかなかいい温泉です。右側の青い屋根はホテルだったんですけど、地震で営業していません。

 山肌の修復工事は全部、地震で崩れた補強です。去年は至るところでやっていました。川口の駅はホームを地下道で結んでいたんですが、これがガチャガチャに崩れました。

 これから渡るところが魚野川です。私が聞いた漁師は、この右手、魚野川寄り、ちょっと上のところなんですが。そこに鮭明神とか諏訪社があります。

 これが魚野川です。場合によっては魚野川の方が水量が豊富でいいような気がするんですけどね。この上流が只見ダムです。その只見ダムの下が、いわゆる魚沼産コシヒカリの産地です。私も食べてみましたが、本当に何も要りません。漬け物があればね。

魚野川合流点(見学)


【滝沢】 両方の合流点の後、突き当たりまして左の方へ曲がってます。突き当たったところが高い崖になりまして、左の方へ曲がってもう一回回りますが、その向こう側の崖は低くなります。U字型と言いますか。そのぐるっと回った上に集落ができます。どこへ行ってもほぼ同じと見ていいと思います。

 私たちは川で遊ぶときは、ああいう場所は非常に危険なんですね。淀みもありますし、渦もありますし。やはり長い間川と付き合っていくには、こういう場所は渦ができやすい、渦ができたところにはまっちゃった時はこうしましょうということを、だんだんに次の世代へ伝えていかないと、川に親しむとか、いろんなことがなくなっちゃうんじゃないかなと思っていますが。戦後、昭和35年以降ですね。そういうようなことが、だんだんなくなってしまいました。


小千谷総合産業会館サンプラザ(昼食)


妙見崩落現場(見学)

【北陸建設弘済会】 ここで救出作業を行う際には、対岸からものすごいライトを使って全部照らしたんです。画期的なことだったんですけれども。優太ちゃん自身もよく頑張りましたけど、なかなか大変な作業をしていたと。東京レスキュー隊もすごいですけど、自衛隊もヘリコプターを常時ここへ置いておきましたし、国土交通省は反対側から自家発電でずーっと光を当てっぱなしにして協力しました。多くの熱意がひとつになって助けられたというのが本当のところです。

 今、ここを記念公園にしようとしてるんですけど、住民の人たちもこの道路を使いたいですから、どういうふうにするかをみんなで考えてるところです。三段階になっているんですが、一番上、二番目、三番目。この三番目のところが道になります。通行できる道になって、上は土砂を止めるための作業として、上から切ってるんですね。安定するように。右側はJRの線路です。JRも塞がりましたけど、すぐ開通させてます。上の方が崩れてきたんですけど、道路はそのものがやられましたけど、鉄道は入口のところだけでしたから、今は開通してちゃんとなっています。ということで、ここは後一年位かかるでしょうけれど開通させようと努力してるところです。


旧山古志村

【永井】 みなさんこんにちは。遠いところを見学に来ていただきましてありがとうございます。私はNPO法人の中越防災フロンティアに所属しております永井と申します。ガイドを務めさせていただきますが、NPO法人はできたばっかりなので、そういう意味ではこれからいろんな活動をしていくというかたちで、私もボランティアで少し参加させていただくということでございます。

 今日は291号線の災害復旧、地震が起きて本当にすごい状態になっております。そういう地震の状況とか復興の状況、それからどういうかたちでこれから地域の住民の人たちが対応していったらいいのか、少しでも皆さんにお伝えできればと考えておりますので、一時間ちょっとではございますがよろしくお願いいたします。

 私のアシスタント、オオボリでございます。ちょっとご紹介させていただきます。


【オオボリ】 中越防災フロンティアのオオボリと申します。よろしくお願いします。今日は短い時間ですけれども、これからご案内の方、させていただきたいと思います。よろしくお願いします。


【永井】 先程の崖崩れのところは約50万㎥といわれておりますが、ここも同じくらいの凄い土砂崩れがありまして、かなりの災害だったんです。今はこういうかたちで復旧、こういう形の岩を見ればわかりますけれども、10m、15m位の岩がゴロゴロしています。ここで人災がなかったのが非常に幸いだったなということで。残念にも向こうで、優太ちゃんの車の事故が起こりましたけど。ここもそういう意味では、すごい被害があったということで知られていると思います。現在はこんな状態になっています。

 先程言いましたようにあそこはJR。ここは、工事そのものとしては、のり面工事ですので、一応、大体、一通り終わっています。

 先程も話がありましたように、全部メモリアルパークにしようという話もあったけれどもなかなかそういうわけに行かない。で、半分ぐらいは残して、下のガラ場のところをメモリアルパークにしていきたいと考えています。

 こちらが朝日川ですが、県が管理している川なんですね。この川が、河道閉塞…前は天然ダムといいましたが、天然ダムでは誤解を受けかねないということで、現在は川を地滑りで止めたという意味から河道閉塞という言葉を使っています。

 この辺一体は、泥の海になりました。車が流れてきたり、木が流れてきたりして73世帯に避難勧告が出て、自衛隊が来て大変な救出活動をしたところです。

 とにかく災害の凄さは、その現実を見た人でないと分かりません。あれから一年半から二年近く経ってますので大分違いますけど、本当にその当時は惨憺たる状態でした。

 それから山古志村は、棚田、闘牛、錦鯉、この三つが三点セットと言われているくらいで、錦鯉発祥の地であります。これから行くところを見ましても錦鯉を飼っている養魚池が138くらいあるんですかね、最近減ってきたようですけど。ここは俗称錦鯉通りと呼ばれています。皆さんもテレビで錦鯉の競りをご覧になったかと思いますが、なかなか最近は厳しいようであります。けれどやはり結構いい値段がつきますので、錦鯉の養殖は続けていくということでやっているそうです。

 今見えてきました東山トンネルを越えたところが小栗山ですが、そこから約10km、元々県道ですが、新潟県知事が国に対してとても県だけでは災害復旧をやれないから国がやってくださいと申請し、権限代行工事ということで、国土交通省の管理下で、東竹沢までの約10km間、これを国が直轄でやりました。ちょうど先月の9月3日に全線開通して通れるようになりました。

 ここから上の方に小栗山闘牛場があります。山古志には闘牛場が三つほどあるんです。最近地震後、初めて闘牛をやってすごい人が入ったそうです。

 今、橋を通りますけど、ここに錦鯉の絵が描いてありますが、この橋も土砂の流出によって全部流されて、新しく橋ができたんです。これに錦鯉橋という名前を付けたんです。ということで、この辺は錦鯉の関係が多いところです。つい最近も競りをやっていたようですね。どれを親鯉にしてやるか、それが勝負らしいですね。それをしっかり育てて、交配をして、いい錦鯉を作る。親鯉をどうするか、それが腕なんだそうです。

 この辺の人は、大体帰っているようですが、まだ仮設に入っている人が約1千所帯位はあると聞いています。一時、ピークは1万何千人とかいわれていましたけど。山古志の中には入れば、梶金だとか東竹沢とかは全滅で、戻っていない人がほとんどです。

 ここから上の方は間内平というところです。ここから約1.1km位、ヘアピンカーブになっていますが、ここのところだけ国の権限代行工事を外してあるんですね。ここは県でやると全部付け替えてるんです。ここから上に行くと、いろんなところで崩壊しているのがいっぱい見えてまいります。災害の復旧には非常にお金がかかっています。大体、総額が一兆六千五百億、一兆七千億ぐらいだそうです。

 このヘアピンカーブは、除雪する時に非常に大変で、凍ると滑ったりするので前から危ないところだったので、付け替えようという話があったんですけど、この地震を契機に一気にやってしまおうということになりました。元々は狭いところだったんです。

 この辺、棚田がよく見える非常にいいところでした。ここの斜面から全体が崩れて、今はこんなにきれいになりましたけど、当時は凄かったんです。この辺みんな棚田で非常に牧歌的な風景のところなんです。

 今、家が見えてきましたけど、山古志小学校が元あったところです。ここが全部崩れてダメになりましたので、公営住宅を。65、6、7歳の人が多いもんですから、アパート形式ではない平屋で、余生を過ごしていただけたらということで、ここは特別に住宅を建設して提供しています。今、向こうに見えているのが山古志の旧庁舎です。今は体育館として使ってます。左の茶色の建物がありましたが山古志の庁舎です。結局長岡市に合併しましたので分庁舎になっています。

 一番向こうの方にあるのが山古志中学校なんですが、そこも全部ダメで、小学校をダメで、山古志小中学校というかたちで合同で、中学校の跡に作っています。10月30日に開校の予定だそうです。小中学校あわせて120人くらいですかね。高校が一校あるんですね。長岡農業高校の分校の種伯エっていうのがある。それで全部で120人くらいですね。診療所が三つありますが病院は一つもありません。

 これから通る竹沢トンネルは約26mあるんですが、このトンネルが291号線の生命線だということで、一番早く着工したところです。で、もう全部完成しました。トンネルといっても最終的には今の道路があるんでオープン掘削して、工期を早く縮めたということですね。そういう意味では道路もできましたし、なかなか爪跡って良く分からないかも知れないけれども。竹沢トンネルのところはすごいことだったといわれております。

 これから行くところは、神沢川橋ですね、ここから291号線が全部ダメになってしまいましたので新しくトンネルを掘りました(山古志トンネル 772m)。前に見える神沢川橋とトンネルを同時に施工しました。291号線は、その向こう側からずーっとあったんですが、みんな寸断されてしまったので使えなくなりました。けれども山古志トンネルができたことによって、交通の便が良くなったと地元の人は非常に喜んでいますね。

 大体が泥岩で、硬い岩がないので、多湿系の泥岩系統でやわらかいんです。こんなふうにきれいになっているから普通の道路を通っているみたいですけど、この辺は物凄い状態だったんです。

 目の前に見えてきましたダムは砂防ダムの一種です。土砂を有効に活用しようということで中に土砂を入れたセルタイプという新しい手法でダムを造っています。砂防ダムでは、いろんな工法が試験的に行われているということです。流れ出た土砂を、その後いかに有効に活用して事業をやっていくかというのも、災害に対して、我々に与えられた課題じゃないのかなと、そんなふうに考えています。

 ここの斜面が、東竹沢の一番大きな土砂が崩壊したところで、長さが約350m位、幅が290m位、高さが30m位、滑った長さが70m位、全部閉塞しました。土流が130万㎥と言われています。

 ここの上が木籠、道が水没したところです。とにかく悲惨です。工事現場の人たちは毎日そういうのを見ながら仕事をしているんですけど、辛いですね。もうちょっと大きいのは羽黒トンネルのところに180万㎥崩れたのがあるんですけど、ここは全体的に崩れてきたものですから、ほとんど形を呈していません。

復旧工事現場(見学)


【永井】 これから中山トンネルに向かって291号線を走っていきますが、通ります新宇賀地橋は168mあります。この橋はとにかく早く作って欲しいということで、ようやく完成して、上から見ると曲線がきれいで、これからいい景勝地になるんじゃないかなと私は思っているんですけど。非常にいい曲線美をしておりますので。

 この中山トンネルは、多分皆さんもご存じかとは思うんですが、日本で一番長い手掘りのトンネルで877m位ですかね。昔ですからツルハシで掘ったということで、幅は4尺の高さが6尺位、それぐらい小さいトンネルを1日30cm、ワンシーズン30m位ですかね、16年かかってやって昭和24年位に開通したと。今は隣に立派なのができてますけれども。これが日本で最長の手掘りトンネルだということで有名になっています。

中山トンネル(見学)


【永井】 パンフレットを見てもらえれば大体お分かりになると思いますが、山古志の概要を簡単にご説明させていただきます。

 山古志は、人口2162名、世帯数が680位。先程言いました闘牛は、今、大分少なくなってかもしれませんが40頭前後だそうであります。地震の時もいろいろありましたがなんとか生きのび、闘牛は伝統文化の一つだと言うことで、引き継がれております。闘牛は、沖縄や他のところにもあるんですが、神事ということがあるんでしょうかね、最後は引き分けにして、勢子(せこ)が綱で引き離すんだそうですね。お互いに和を保ってやっていくと。勝ち負けを争うことではないというようなことが、この山古志の闘牛の伝統だそうであります。とにかく、引き継いでやっていきたいと住民の人たちは考えているようです。

 錦鯉は約30万尾くらい。錦鯉は良い時と悪い時と左右されるんですね。一攫千金を夢見るような投機的な考えがあるからと明治政府が禁止したこともあったそうです。やはり、錦鯉も守って行かなければいけない。厳しい状況にあり人数は少なくなっているようですけれども、引き継いで養殖をやっていきたいということです。

 最後、棚田は日本の原風景ということで、日本全体のことが言えるんですけれども、特に地震が起きた山古志については、これはふさわしいと言うことで、どうしても守っていきたいと。ただ守っていきたいと言っても結果的には誰がやっていくのか、どういうふうにやっていくのかと言うことで、それがこれからの課題だと言われております。皆さん来て、あそこはきれいだな、棚田がいいので守って欲しいって言うだけで帰ってしまわれます。じゃあそれを、地域の人たちがどのようなかたちで守っていくかってことをこれから真剣に考えて、引き継いでいきたいと。治水の効果もあるし、環境にもいいわけなので、それをどうやって守っていくかを考えているということで、いろんな研究会があるようでございます。

 一番始めに紹介しましたが「NPO法人中越防災フロンティア」は、地震によって起きた災害をいかに上手く復興させて、それを後世にいかに引き継いでいくかというかたちで、中山間地域で災害が起きたら復興できないで終わりなんだと、それではいけないと。地震の復興をいかに上手くやっていけるかというモデルケースとして、そういう側面をもって、行政と民間の中間であるNPO法人が一生懸命になってバックアップしてる。これを世界に発信していこうという大きな構想を持っているんです。

 じゃあいつまでやるかということですが、阪神淡路大震災の時は10年から15年といわれましたので、最低でも15年くらいはかかるのかなと。非常に息の長い話です。これをずっと見守って、決して失敗しないで、それを成功させるモデルケースにしていこうというのがNPO法人を発足した経緯です。発足したのが8月22日ですから、まだできたばっかりでございまして、これからどんどん広めていって、いろんなかたちでやっていきたいなと。ですから見学者の方にも支援をしていただくようなかたちで、前向きに理解していただければありがたいなと思っております。

 こういう災害が起こったものを逆手にとって、資源にしていこうと。被災の現場を、日本を含めて世界にアピールして、これを観光資源にしようという、一つのねらいを持っています。ですから、大いに見に来ていただいて、それを知っていただいて、また口コミで広げていただくと。そういうねらいもあると。NPO法人だからボランティアで終わりだということではなくて、やはり経費もかかるし、それなりに運営するものもかかるので、そういうものをしっかり伝え、なおかつ残していきたいと。

 それから三つ目は、こういう災害を伝えていくためには人材育成が大事です。具体的に言うと、防災関係の人材育成をしようということで、中山間地域の安心・安全・防災の公助を県や国だけに任せておくのではなくで、我々NPO法人としても人材育成のようなもので手助けできないのかと、これについては長岡市が「中越市民防災安全大学」を作りました。20何講座ぐらい講座を設けまして、数週間ですけれども、そこを卒業すると「市民防災安全士」という資格がもらえます。それで防災に対する教育を含めて、そういう人たちにこれからの防災についてのアドバイザーになっていただいて、そういう人間をどんどん増やしていけば、緊急の時にも対応できるんじゃないかということで、現にスタートしています。年齢は15歳くらいの若い人から77、8歳くらいの人までご応募があって、結構人気になっているようです。

 阪神淡路大震災と中越地震は比較されるんですけども、2004年の10月23日午後5時56分マグニチュード6.8、震度7が川口ですね、13kmの地点で直下型ということで、それ以降ですね、約2時間くらいの間に震度5弱から強を含めて、10回の余震がありました。震度2とか3とかは、もっと多いんですけれどね。

 地震が起きてから50日のところで震度1以上が877回。わずか2時間の間に10回、10分から12分の間に、震度5とか6くらいのものが来るわけですから、本当に余震の凄さっていうのは、恐怖に感じました。そういう意味では他の地震に比べたら余震というのがいかに恐いかっていうのが実感としてわかりました。

 5月くらいですかね、震度1以上のものを含めて1000回くらいの回数になったそうです。余震がいかに多いかがグラフでもわかると思いますが、阪神淡路の倍以上になってますよね。

 私も自分で感じたんですけれど、人間には学習効果があると言われていますが、ないですね。というのは、地震が起きた翌日、親戚の人が来て屋根に上がってブルーシートなんかを掛けたりしたんですけど、もうたいしたことはないだろうなと、1日経ったからね、そうしたら10月27日に震度6強のが来て、みんなやられました。テレビもひっくり返っちゃったし。それで、もう2回目だから、3回目はないだろうと、テレビも台に上げてそのままにしておいたら、11月4日ですかね、これも震度5強くらいのが来て、またひっくり返って、結局テレビはダメになり、みんなダメになっちゃったと。それで12月28日、御用納めで帰る時に、冗談でまた地震が来るかも知れないよ、また呼び出されるかもしれないよって言った数分後に、まさに来たんですよ。震度4。そういうことで、いつ何時、どういうふうにくるかわからない、その不安が非常に精神的ストレスが大きいというのを実感しました。地震を甘く見てはいけないと。自宅も半壊になりましたけれども。私の住んでいる宮本というのは、川西地区では、一番被害が多かったところなんです。黒川が流れているところです。地図を見ると小さい活断層があるみたいなんですね。今回、道路が完全復旧しましたけれど。当日は、地震の割れ目の中に落っこっちゃったんですよ。真っ暗で。翌朝行ってみたら、凄い地割れになっていて、ゾッとした経験がありますけれど。皆さんも、いつ何時起こるか分かりませんけれども、日頃の備えが大事ですので、そのように対応していただければ良いんじゃないかと思っております。


【浅野井】 昔は庇を作ると税金が高かったんです。屋根は板葺きか萱葺きです。入口を保護するために直角に玄関を出して設けます。これは飯山あたりではちっちゃな入口で、東(あずま)中門と呼んでいます。それから奥の方へ行きますと、入口を保護するために大きく厩を(うまや)置くんです。厩中門といいます。

 松え山(マツノヤマのこと)、ここは謡曲の「松山鏡」の場所になったところなんですが、傾斜地にある中門造りは、下は物置になっています。上は年寄りの部屋になっております。

 今ではトタン葺きの家を見ますと、ちっちゃなアズマ中門の形が多いので、あちらを通られた時には、そういうのを見るのも良いんじゃないかなと思います。

 この辺のずん胴の家というは、雪のためだと思います。特に信濃川、千曲川流域には、そういう家の作りに特長がありますので、見ていって下さい。北側と南側と窓の大きさが違うとか、そういうのも見られると思います。さらに奧へ行くと、古い家では窓の枠が外側に傾斜してるんですね。雪が当たっても落ちるように、まっすぐになっていない。そういう家は、今は大変少なくなってきています。


【滝沢】 行きがけに斎藤太左衛門の通船の道を見ましたけれど、普通私たちは通船と言ったり、あるいは川船と言ったり、いろいろな言葉を使います。新潟の方では江戸時代の始めからできていたのが、船の道と書きまして船道(せんどう)と言います。長岡船道、これが上納金を納め、特権を得るわけです。それで信濃川から上ってきた荷物を魚野川で乗り換えて、長岡で積み荷を差し替えてこちらの川を上ってまいります。六日町の終点で降ろしまして、今度は馬や牛の背で関東地方へ出すわけです。三国峠ですね。川は江戸時代の大事な輸送路だったわけです。

 これと同じように、栄村の森を上流へ通しまして、長野まで持っていこうと。その構想は川の地形に阻まれましたけど、こちらは早くからそれが開けまして、荷物を運んでまいりました。関東地方と新潟、越後を結ぶ大事な道を、今、私たちは走っていると言っていいかと思います。図らずもあれは川の船ですが、高速を通るバスは岡(陸(おか))の船ですね。船も道も輸送路としての役割には非常に似通ったものがあるということを、盆地を走りながら両側に見るわけであります。


【浅野井】 船というのは重要な運搬手段です。牛のことを岡船というところもありました。日本列島を縦に通っていく道は政治支配の道です。中山道、北陸道、東海道です。それに対して、日本列島を横に行く道、これは大体、文化の道、生活の道ですね。例えば鰤の道、塩の道、翡翠の道、黒曜石の道などです。ところが日本列島を横に行く道というのは、大体、川に沿っております。ですから、川は道と同じようなものだというふうに考えておりますが、江戸時代、新潟の下越では薪のことを塩木(しおぎ)と呼んでおりました。なんで塩木と呼んでいたかというと、山の民が薪になる木をどんどん切って川に流します。これを新潟の海辺ではみんな拾い集めて、代わりにその一部で塩を焼いて奥の方に送り届けたためです。それで薪のことを塩木と呼ぶようになったのであります。全国各地に薪を塩木と呼んだところがいっぱいあります。

 富山の方ですか、昔は鉄が非常に高くて、江戸時代の初め頃は銀と鉄と同じ値段なんですね。銀というのはなまくらで飾りにしかなりませんが、鉄は武器にもなるし、農具にもなる、というわけで鍬も全部鉄ではありません。木の先の方にだけ鉄製品を使うんです。そういう木を山の民が育てるんです。ほぞで柄を付けるんじゃないんです。股になった木を育てて、それもやっぱり下の方に流してやると、そういうようなことをやって山と海辺の民との交流が図られましたが、すべてこれは川によるものではないかと思います。


【滝沢】 大久保長安が佐渡の金銀を運んだ大事な道には三つあるわけですね。一番大事な道は北国街道。北国街道が通れない時にどうするかということで、この三国峠を越えていく道がつくられました。もう一つは、会津に抜ける道で、北国街道あるいは三国街道がだめな場合に備えての三つの道ですね。一番たくさん通ったのは北国街道、これが中心です。こちらの三州の三つの道というのは、あまり使われなかった。というのは、北国街道はかなり整備されていたことと、宿駅がしっかりと整っていて、どんどん動員できる体勢ができていたということが、北国街道を通った大きな理由だと思います。

 これは大名行列とも関係あるかもしれませんけれども。とにかく北国街道というのは、越後と信濃、それから関東、江戸を結ぶ大事な道でした。

 上州に抜ける一番の難関が三国峠ではなかったかと思います。あそこを開削して曲がりなりにも通した、それがやがて上越線とこの高速自動車道ですね。不思議な縁があります。

 最初に通りました下高井郡の今は栄村ですね。元は、川の右岸は下高井郡、左岸は下水内郡でしたけど、その栄村の人たちが一番大事にしたのが、湯沢へ抜けるバスでした。

 長野に行くよりも、湯沢へ行く。村でも補助金を出しましたし、村から通う人たちのために駐車場も造りまして、あれができたときには、我々は湯沢を通じて関東へ、東京へ、直接結んでいるんだという意気込みが非常に強く伝わってまいりました。それがやがて野沢温泉までバスが伸びます。そういう時代がありました。今、多少様子が変わっているかと思いますが、一つの道が開けることによって生活圏や経済圏などが変わっていくということを感じます。

鈴木牧之記念館(見学)

長野駅着

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