中学生の部 金賞作品 「川に求めるもの」 塩口 智子 須坂市立墨坂中学校

 今年もまた、夏が巡ってきました。  大雨が降り、川が増水して氾濫を起こす。そんな水災害に、最も注意しなくてはいけない季節がやってきたのです。
 昨年度まで、千曲川に架かる橋を渡って、学校に通っていた兄は、毎日のように千曲川を目にしていました。台風が通り過ぎた次の日のことです。兄は帰ってくるなり、 「今日の千曲川は、危なかった。濁った水が、これでもか、っていうぐらい勢いよく流れていたんだ。それに、いつも見えていたはずの中洲が、なくなっていたんだ。さすがの俺でも、怖いと思ったよ。」
と言いました。三年間見てきた中でも、一番ひどい慌れ様だ、とも言っていました。
 私も同じ日に、二本川を渡りました。どちらも、行く行くは千曲川の一部となる川です。水かさは増し、眼下を流れていた大きな枝は、あっという間に見えなくなりました。いつもと違う川の様子に、恐怖を感じました。
 しかし私は、洪水や浸水といった災害を、実際に経験したことはありません。それはやはり、堤防や土手のおかげなのでしょうか。
 今、毎日通る二本の川の片方では、護岸工事が進められています。この川は私の大好きな川の一つです。
 橋の上から見ると、丸みをおびたこぶしぐらいの大きさの石と、その隙間から勝手気ままにのびた草花。そして主役の川と向こうに見える空が、とても美しい風景になるからです。だから、工事によって、緑色の部分が違う色になっていく様子に、何だか寂しさを覚えます。そんな時、ふと思ったのです。川は安全をとるべきか。自然をとるべきか。
 私達が生きていく上で、「安全」という言葉は必要不可欠です。
「安全だよ。」
と言われた時、心には「安心」と「信頼」が生まれます。そしてこれは、落ち着いた生活や時間を与えてくれます。いつも危険と隣合わせ、という生活より、こちらを求める人の方が多いのではないでしょうか。ですから、川も安全でなくてはいけません。川が生活に密着している中、毎日のように「川の様子は大丈夫だろうか。」と心配しなくてはいけない日々は、正直耐えられません。そうならないために、堤防、土手、ダムなどが造られました。確かにこれらは、私達を守ってくれています。もし、自然そのままの川だったら、大雨が降るたびに避難しなくてはいけなかったでしょう。
 けれど、川底をコンクリートで固めてしまうのには、賛成しかねます。部分的に、コンクリートになっている川があるのですが、もちろんそうしている意味は理解できます。でも納得はできないのです。保育園の頃、川遊びをするためにその川へ行きました。冷たい川の中で楽しく遊んでいた時、流れに足を取られて転んでしまいました。大きなけがにはなりませんでしたが、さすがにコンクリート、痛かったです。あれが砂だったら、何とも思わないでしょう。あれが石だったら、もっと大きなけがをしていたかもしれません。その辺はわかりませんが、あの時下にあったのはコンクリートで、あの瞬間、川底のコンクリートに嫌悪を抱くようになりました。また、この川には、生き物があまりいません。思わず探してみたくなったり、目が輝くような生き物が……。水質汚染が原因でしょうが、安全を求めて護岸工事を行った結果でもあるのではないでしょうか。
 では、川の自然を重視した場合。以前書いたように、災害が起きた時、自然の力だけで暴れる川を抑えるのは難しいでしょう。ですが、安全のために自然を壊して欲しくないのです。毎日通る二本の川は、一日として同じ風景の時はありません。春は出てきたばかりの草や葉と、そっと外の様子をうかがっている小さな花々に笑みがこぼれ、夏は緑の濃さに元気が出ます。秋、部活が終わって帰ると夕日が沈むところです。空と川にオレンジ色がしみこみ、いつしか夕日は川と混ります。冬に雪が積もると、太陽の光を受けて、川と雪が一斉に輝き、目を細めて見入ります。川と川が生み出した植物、ありのままの光景はとても美しいです。
 少しでもいいから、そのままの状態で残して欲しい、と願います。 「安全」と「自然」どちらか一方だけをとることも、両立させることも難しいことだと思います。決して護岸工事に反対するわけではありません。町並みや景観を残すために、新しく造る建物は、雰囲気に合わせて造る、という話を聞きました。それと同様に、自然に合った工事を、と思うのです。
 人間の表情が様々であるように、川の表情も次々と変化します。心動かす絵になったり、荒れ狂う流れと化したり、刻々と変わる表情を読み、川という存在を楽しみ、考えていきたいです。
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