中学生の部 金賞作品 「夏の羽音」 竹内 春菜 坂城町立坂城中学校

 
 季節を通して川はその美しさを変える。
 春の千曲川はとても活動的だ。いつもならば目につかない小さな雑草さえ、花を咲かせることで目にとまることがある。鳥たちの鳴く声が、川に生い茂った緑の葦の間から絶えず聞こえる。とりわけヒバリの美しい声は青空に響く。夏は川の周りのニセアカシアの深い緑と柳のうす緑のコントラストが美しい。生命活動は春にもまして盛んになってくる。鮎釣りのために訪れる人々の姿が川のあちこちで見られるようになるこの時期、アオサギも魚を探して川の中流あたりに姿を見せる。灰色がかった青色のこの鳥は、千曲川で最も頻繁に姿を見ることができる鳥だろう。S字形に首を曲げ、魚を探して右往左往する滑稽な歩き方が、私にこの鳥への奇妙な親しみを抱かせる。
 夏の朝、鳥たちの声を聞くと、私は小学四年生の頃の事を思い出す。夏休みの自由研究のテーマが「千曲川の鳥」だったからだ。
 鳥たちの朝は早い。中には、三時ごろから暗い中でさえずり始める鳥もいる。私だけの力では観察は無理だと思ったのか、夏休みの間は父も私に協力してくれ、共に四時、五時に起きる生活を続けていた。
 初めのうちは、なかなか姿を見ることができなかった。鳥の警戒心は私が思っていた以上に強いものだった。
 観察中に私が特に興味をもっていた鳥が、アオサギだった。何しろ観察を始めてから初めて名前を覚えた鳥でもある。私は、初めに写真に収める鳥はアオサギにしようと決めていたので、この大きな鳥を写真に撮ることができた時の達成感は大きかった。高いニセアカシアの木の上から飛び立つ一瞬の姿、広げた翼は大きくたくましいものだった。
 もう一つ、印象にとても強く残る鳥がいる。それは後にずっと忘れられないものとしていまだに記憶にある。その鳥はカワセミだ。カワセミは実際に姿を見ることが極めて難しい鳥である。アオサギ以上に強く、人間に対しての警戒心をもつ。
 背中がコバルトブルーで腹がオレンジ色の色彩がとても鮮やかな小さな鳥カワセミを、私は実際にこの目で見たときまで図鑑やテレビの画面でしか見たことがなかった。そのカワセミを、偶然にも私はこの観察をしていた期間に見ることができたのだ。
 当時千曲川の流れは、様々な所に点々と水たまりのような池を作り上げていた。 池は決してきれいだといえるほどの透明度はなかったが、魚たちはその中でも懸命に生きていた。うすく茶色に濁る池のすみに、細い流木が水面から斜めの枝を突き出して、丁度、鳥一羽がとまれるほどの場所があった。そこでも鳥の姿を見かけることはあった。しかし、それはよく見かけるスズメやカワラヒワであることが常だった。けれども、カワセミがある朝そこにとまっていたのだ。
 初めに姿を見つけたのは父であった。驚いた。目の前にいる鳥がカワセミであることにしばらくは実感が湧かなかった。感動したのはカワセミが去ってからだった。カメラのシャッターを切る前にその鳥は飛び立ってしまった。長いくちばしの先に魚をつかみ、カワセミが空へと姿を消した後、父と私とで何度もその池に足を運んだが、結局その後の夏休みの期間にはカワセミを見ることができなかった。無理だろうけれどもう一度みたいと願っていた。
 しかしそれから二年後、千曲川は洪水を起こし、木々は流され、地面は削り取られた。カワセミの池も消えてしまっていた。もう、川の元どおりの姿を見られないと思うと、まるで川底の静けさにも似た切なさが心の中にゆっくりと染み込んでくるようだった。
 最近では、もう川との関わりも少なくなってきている。千曲川クリーンキャンペーンなどの清掃活動で関わる程度だ。
 何度かの活動の中で、思っていたよりも大量のゴミを目にした。いつも見ていたあの頃の景色と目の前のものとはあまりにかけ離れていて、正直言ってショックな部分もあったが、予想外のこともあった。
 あれほど大きな洪水を起こしたとは思えないほどに、川はその強さを見せた。変化と再生を繰り返しながら新しい姿を現したのだ。
 水で流れてしまった川辺の柳の木さえ、所々に新しい葉を再び繁らせた。以前と同じようにアオサギがニセアカシアに巣を作っているその姿を見るたびに、私は自然の、川の強さを実感している。
 川は、本来の姿に戻ったわけではない。戻らないものもある。けれども命の強さは変わらずに、これからもきっと続いていくのだろう。夏の千曲川にひびくあの羽音は今でも耳に残っていて、時折私はそれを思い返しては懐かしさと共に川岸を行く鳥たちの姿を思う。

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