中学生の部 銀賞作品 「すべての川が」 木下 峻一 池田町立高瀬中学校
 僕は川が好きだ。こうだから好きだ、というのではなく、ただ、川が好きだ。魚が優雅に泳ぐ川、山の中をサラサラと静かに流れる川、紅葉のころ、紅くなった葉の流れる川。それぞれが場所や季節によって違うそれぞれの顔をもっている。僕はこのそれぞれの違った顔が好きなのかもしれない。
 僕がとくに好きな川は、夏、透きとおった水の中で魚が躍り、虫たちが行きかう、外には蝉の声が響きわたっている、こんな川だ。長野県にはそんな川がある。山奥のある村の斜面を流れる川だが、川幅は二メートルから三メートルぐらいで、深さは五十センチ弱とその村の川の中でもかなり小さめの川だが、僕はこの川が本当に好きだ。
 川の土手を歩きながらふと川をのぞきこむと、おそらくイワナだろう。十匹位でまとまって岩の下から出たり入ったりしている。
 また、水生昆虫も陸上の昆虫の幼虫ばかりで新しい生命のすがすがしさというものを感じさせてくれる。
 こんな川へ行くと、つい、生命のはじまりは海だというのが完全にそうだとは思えなくなる。
 水は生命の源だ。海や湖、川や池など、水は地球上のいたるところにあるが、川ほどまでにいろいろな表情をみせてくれる場所は他にはないだろう。とくに海と川で違う点は、そこに住んでいる鳥の種類だろう。海では、カモメやカラスなどばかりをみかける。それに比べ川では、カワセミやサギ、ツバメなどもみかける。さらに冬にはツルもみることができる。こうした点からみて川の方が鳥の種類が多いことが分かる。鳥は海にしても、川にしても、補食者という立ち場にある。この事実から考えると、川の方がえさとなる魚が豊富にとれるのかもしれない。
 えさとなる魚、えさとなるとはいえ魚も動物であることにはなんら変わりがない。ということはえさである水生昆虫やプランクトンなども多く住んでいるということになる。
 この考え方で考えていくと、川の食物連鎖というのは、あの広大な海に比べても全く劣らないほど激しいものがあるのだろう。
 僕は今年もいくつか新しい川をみつけた。しかし、町中を流れる川はここ数年でみるみるうちにきたなく、汚れていっている。前にも書いたように生命の源は川でもある、と考えている僕にとってはとても悲しい事実である。もっとたくさんの人がこの問題について考えてくれない限り、この汚れていく川を減らすことはできないだろう。
 生命の源である水を育くんでくれる川、食物を提供してくれる川を人間はもっと大切にしていかなくてはならないと思う。最近は汚染だけでなくたくさんの問題が出てきてしまっている。今こそ、自然をみつめなおし、生命の原点とは何かを考えるときではないか、と僕は思う。
 そして、僕の川に対する願いはただ一つだけだ。初めに述べたように僕には好きな川の顔がある。しかし、好きな顔があれば当然きらいな顔をみせてくれる川もある。僕の願いとはそこだ。全ての川が、山奥だけでなく町中まで、本当に全ての川が比べようもなく好きになれるような川になってほしい。
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