改修の歴史と変遷
改修の歴史と変遷
堤防が守る千曲川の基礎づくりが始まる。

明治時代を通じて、千曲川はたびたび洪水を起こし、甚大な被害のあった1910(明治43)年8月出水を契機に本格的な治水対策を求める声が高まってきました。

1918(大正7)年内務大臣が直轄施工する制度の適用を受け、「第1期千曲川改修事業」がスタート。旧堤を取り払い築堤し直す、霞堤を連続堤防にするなどのほか、多くの地区で旧堤のかさ上げや拡幅などを実施。支流が流入する地点では、逆流を防止する水門などの施設もつくられました。

この事業により、千曲川は上田から立ヶ花(中野市)までの57・5キロメートル、飯山から上境までの10キロメートル、犀川は両郡橋(長野市)から千曲川合流点までの10キロメートルが堤防で結ばれることとなりました。

完成は1941(昭和16)年。23年の歳月を費やし、総工費は1000万円余(当時)に及びました。ここに、堤防が延々と続く今日の千曲川の基礎が固まったのです。

昭和初期 更埴橋下流の千曲川護岸工事
昭和初期 更埴橋下流の千曲川護岸工事
大正11年 大正橋
大正11年 大正橋
当時の千曲川改修工事平面図