|
縁側でウトウトしていた井上さんは、何者かの力によって突然、地面に落とされてしまった。
「最初は子供のいたずらかと思いました。けれど、目の前に並ぶ墓石がグラグラと揺れている。これは地震だぞ、と感じ、すぐに子供を横抱きにして、車に飛び乗ったんです」
その時、川(臨港埠頭)の方から砂ぼこりをあげながら水が襲ってきた。
「今でも忘れられません。パタパタパタという不気味な音をたてて、50センチほど切り立った水の壁が迫ってくる。必死で車を運転して逃げましたよ」
本堂のある神明町から、少々高台の桃山町まで生後5ケ月の子供を避難させた後、戻ってみると水は腰ほどもあったという。
井上さんの父親が、当時町内会長をしていたこともあり、西尊寺は臨時の避難場所として、活躍を始める。地震2日後のことであった。おにぎりやつけものの炊き出し、タオル、石鹸などの救援物資が自衛隊の協力で運ばれてくる。もちろんボートで、である。近所の人もイカダを利用したり、水に浸かりながら歩いて集まってきた。不幸中の幸いというべきか、本堂には水は上がってなく、その場所は、物資の配給場として、また、共同生活の場として重要となっていくのであった。
「あんな非常事態でも悪いことを考える人がいるもので、誰もいなくなった家をボートで荒し回った泥棒が出没したのです。そういうことも監視しなければいけなくなって、8世帯32人の方々と一緒に1ヶ月ほど共同生活をしました」
近所の人々にとって、寺という存在はかなり心強かったに違いない。誰も経験したことのない水上生活。しかも、いつ終わるかもわからない不安な日々である。だが、そこには精神的な支えというものが、確かに存在していたはずである。
1ヶ月ほどの共同水上生活の間、彼らは水がひいた家を順に回っては、排水に協力し、掃除や消毒をした。
「動物の死骸や、真っ黒い油が浮かんだ水からは、何ともいえない悪臭がしてきました。衛生状態がかなり悪かったにもかかわらず、病人やケガ人が出なかったのは、今考えると不思議なほどですね」
とにかく西尊寺は、救援物資や食料の配布、そして精神的な支えとして、その後の復旧へのステップとなったことは確かである。普段から町内の寄合所となっていたこともあって、ろうそくや提灯などが備えられており、随分と役に立ったようである。井上さんは、そんな経験を生かして今でもトランジスタラジオと懐中電灯を家中に備え付けてあるという。
水が完全にひいたのは、約2ヶ月後であった。無惨に荒れ果てた地には、あちこちに油がべっとりとついていた。
「このあたりの樹木は、すべて地震後に植えられたものなんです。あの地震と、それによる浸水は、この地を根こそぎ奪っていったようなものです。しかし、そんな困難にも負けずに、復興に向けて頑張った人間の方が、やっぱり偉いというべきでしょうか」
神明町は、いわゆる山の下地区にあたる。この地域は、今でもゼロメートル地帯であり、当時のような惨事が起きない、とは断定できない。しかし、住民のなかには、当時の教訓が根強く生きている。井上さんを始めとする人々が、その思い出を語り伝えることは、なによりも強力な防災対策となるはずである。
|