第2章 新潟地震の証言と教訓 第8節 避難編 目次に戻る
  【証言】病院の避難活動
 

 

ケガ人はなし。奇跡的な結果は
スタッフの献身的努力が生み出した。

阿部恭子さん
池乗初子さん
向川 武さん

(当時:新潟県立ガンセンター新潟病院勤務)

 

 放射線科に勤める向川さんが、そろそろ食事にしようかという時であった。
「グラグラッときて、すぐに外へ飛び出しました。多分、真っ先に出たのは自分だと思いますよ。建物や電柱がグラグラ揺れ電線がカタカタとものすごい音をたてていました。恐怖心で何もする気にならなかったですね。しばらくして揺れが落ちついてから、ようやく患者さん達を外へ運び出す手伝いをしました」
 とにかく、患者を安全な場所に避難させるのが先決だ。病院のスタッフは、それぞれが必死にその作業を行った。内科病棟の看護婦であった阿部さんも、その1人だ。
「他の看護婦の方々と協力して、患者さんを運び出していたのですが、今考えると、あれは火事場の馬鹿力という感じでしたね。とにかく必死になって、越後線の線路上まで避難させました。けれど、津波が来るという情報を聞いて、より安全なところへ避難させなければならなくなりました。そんな時、明訓高校の生徒たちが自ら進んで手伝ってくれたのを覚えています」
 手術室では、手術が始まる直前に地震に襲われている。当時、手術室勤務の池乗さんは、こう振り返る。
「ちょうど、手を消毒しようとしている時でした。大きな揺れに、とっさに机の下にもぐり込み、その後、窓の外を見ると、地面から水が噴き上げ、車がどんどん水にのまれていく。急いで危険物の元栓を締め、病棟へ手伝いに駆けつけました」
 病院のスタッフによって避難することができた患者さん達には、あまり不安な表情はみられなかったという。それだけ看護体制がしっかりしていたということなのだろう。
 白新中学校体育館を仮の避難所兼病室にした後、彼らは再び病院に戻ってくる。向川さんは語る。
「復旧は早かったですよ。自分の家も大変だろうに、病院のスタッフは一致団結して頑張りましたね。人間、いざとなれば、何でもできるもんだと思いました」
 院長が適切な指示を出し、各人が医療に携わる者としての精神を強く持ち行動する。それが、地震時の混乱から救ったのだろう。しかも、外部からも様々な援助があったのも幸いした。
「水は、病院ということで優先的に供給してもらいました。また、食料に関しても、信楽園病院の給食の方々が差し入れてくれたのです。その時、飲料水の代わりとしてコーラをいただきました。当時としては珍しい飲み物だったので、よく覚えています」
 池乗さんは、今でもコーラを飲むと、当時の思い出が鮮烈に蘇ってくるという。
 病院のスタッフは、地震後1週間ほど、ほとんど病院に泊まり込みの状況が続いたという。そんな状況の中、阿部さんは4時半頃起きて、実家のある亀田へ歩いて通ったことも4〜5回あるという。差し入れのおにぎりを作るためである。
「亀田から馬越くらいまでは車で来れたのですが、そこで私の家族が、顔見知りの患者さんに会い、何度か自家用車で、亀田・馬越間をピストン輸送したと聞いています」
 災害時、病気を患っている人は、非常に弱い存在である。その人たちを守り通したがんセンタースタッフと、回りの人々の善意には、心から敬意を表したいと思う。
「新潟地震のことを思えば、もう、どんなことにも耐えられるでしょう」
 阿部さんの言葉が、いつまでも胸に残った。

 

【写真】避難する入院患者の人々
越後線の線路に避難する当時の入院患者の人々。

 

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