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給食が終わって、子供達が校庭で遊んでいる。そんな平和な風景をいきなり崩すかのように揺れが襲ってきた。教務室にいた先生方は、思わず机の下に身を隠した。突然、教務室中に響きわたる声がとんだ。
「バカヤロー、早く子供の所へ行け」
ハッと我に返った先生方は、それぞれの場所へ急いだ。当時、5年生を受け持っていた富樫先生は、まず、図書室へと駆けつけた。
「当時、私は図書室も担当していました。もし、子供が本棚の下敷きにでもなっていたら大変です。どうか無事でありますようにと祈りながら走っていきました」
幸い、図書室でのケガ人はいなかった。どういうわけか普段たくさんいる子供達が1人もいなかったのである。次いで、富樫先生はグラウンドへ。子供達がワッと先生の所へ寄ってきた。
「普段の避難訓練が効いていたんですね。子供達は落ちついたものでしたよ。とりあえずはグラウンドで保護者が引き取りにくるのを待っていたのですが、そのうち水素タンクが爆発するというウワサが広まってきて、ここにいるわけにはいかなくなってしまった。なにしろ、昭和石油のタンクが目の前で燃えているわけですから」
先生方は残った生徒を連れ、浸水の中を物見山の高台まで避難。夜になり、藤見中学校のグラウンドへ移動した。
「実は、地震後の混乱の中で行方をつかめない先生と生徒26人がいました。交代で探しつづけたのですが全くわからない。心配でした」
とにかく、今いる子供達を守り、無事に親元へ。それが先生方全員の共通する思いだった。深夜、避難場所を新大農学部の校舎へ移す。
「水もなければ食料もない。けれど、子供達は先生を信頼している。先生と一緒だったら絶対大丈夫だと思っている。ぴったりと寄り添ってくる子供達に私は逆にはげまされた気がします」
『行方不明の生徒は、無事、中野山小学校へ避難しています』ラジオからこの喜ぶべき放送が流れたのは深夜3時のことだった。生徒は全員無事だ。その知らせはなによりの贈り物だった。
不安な夜が明けた。先生方はお金を出し合い、食料を調達することにした。若い先生が荒れた道をバイクで新発田まで走り、パンを買ってきた。昼間、まだ親が引き取りにこない子供達は、とっさに持って逃げたドッジボールで遊んでいる。先生方は情報を集めたり、親を捜したり、あちらこちらと駆けまわっていた。
結局、農学部校舎での生活は2晩続いた。最後の子供を親へ引き渡した時は、さぞ肩の荷がおりたことであろう。
桃山小学校の校舎被害は少なかったが、子供達の家庭の8割以上が、火事や浸水などの被害にあっていた。地震後の22日、子供達を学校に集めてみたら、1000人以上いるはずが、300人ほどしか集まらなかったという。名古屋など他の都市から文房具や見舞金などが送られていたが、正常な授業に戻るには多くの時間を要したのだ。
桃山小学校には、現在、震災記念像が建っている。子供達を命がけで守ってくれたことに感激した保護者が建てたものだ。そこに刻まれている言葉を紹介したい。
一九六四年六月十六日午後一時二分
大地は揺れ海水はあふれ
黒煙は天をおおう
この混乱の中にあって
桃山小学校職員は
いちずに一三八八の幼きいのちを
三日二夜守り続ける
ここに長くその功を語り伝え
「子らよ健やかに育て」と祈って
この像と碑をたてる
恐ろしい地震、それはまた、本当の教師のあるべき姿をしめしたものでもあった。
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