第2章 新潟地震の証言と教訓 第4節 建築物編 目次に戻る
  【証言】ホテル新潟の被害
 

 

新潟国体終了後の地震は、
改めて人命の大切さを教えてくれた。

大宮健之介さん

(当時:株式会社ホテル新潟総務部管材課用度係主任補佐)

 

 当時ホテルの用度係を担当していた大宮さんは、地震の時、ホテルでなく、新潟市古町の明治屋店内にいた。仕事のひとつである食材の仕入れ関係のため、ドライバーと一緒にワゴン車で訪問していた先での出来事だった。
「グラグラッと非常に大きな揺れがきて、店内の棚に並んだ商品が、目の前で次々と床に落ちていきました。急いで外に出ると、古町通りでは、年配の方が、あまりの揺れに立ち続けられずに、柱につかまっていたのを見た覚えがあります。私は最初、昭和石油のタンクが爆発したのかと思ったんです」
 周囲の人々が騒いでいるのを見て、はじめて地震だと気付いた大宮さん。そして次の瞬間、頭に浮かんだのはホテルの事だった。
「かなり大きな揺れだったので、もしかして倒れてしまったのでは、同僚は無事か、と心配で心配で」
 ところが一刻も早く連絡を取りたいのに、頼みの電話は全て不通。それならとにかく戻ろうと、車に乗り込んでさっき渡ってきたばかりの万代橋へ走り始めた。
 予想に反し、橋の所に来ると、どうも渡れない様子である。次に向かった昭和橋も落橋、関屋の方まで足を延ばしたが、やはり不通で、一旦は明治屋へ戻り、新潟島へ足留めの形となった。しかし、やはりホテルへ帰りたい。大宮さんは途中でドライバーと別れ、再び一人で万代橋へ向かった。
「渡ることはできましたが、川の水が溢れていて、橋のたもとの辺りでは、膝くらいまで水につかりながら歩いたのを覚えています。非常時なのに、靴が惜しかったのでしょうか。なぜか靴を脱いで裸足になって」
 夕方近くになり、やっとのことでホテルに辿り着くと、心配していた倒壊は免れたものの、当時6階建てだった四角い建物は、全体が約40センチほど沈下。そのため3段あった入り口の階段も、2段に姿を変えてしまっていた。さらにホテルの顔である玄関は、水浸しの汚れた姿に。
「浄化槽の水が逆流し、館内に水が溢れ出てしまったのです。後日、水を掃き出し、配給の水で汚れを落とす作業をしていましたが、不幸中の幸にも、当時上階にあった機械室は、水浸しの難を逃れることができました」
 翌日から、主に沈下で壊れた排水管の修繕などのため、ホテルは40日間の休業となった。多くの社員は失業保険を受けながら、自宅待機の形をとったが、大宮さんはそのまま出社。客室の備品等のチェックをはじめ、チーズ、バターなどの乳製品を、新津市の元社員の所まで預けに行ったり、冷蔵庫に残った食材を加工して、社員の食事に当てたりと、食器、食材の管理をしながら、再開の日を待った。
 ところで、当時の話になると「国体が終わった後でよかった」という言葉が多く聞かれるが、この言葉を最も痛切に感じたのは、当時の国体の関係者、そして両陛下の宿泊先となったホテルの関係者ではないだろうか。地震の起きた4日前には、全国各県のスポーツ選手が集まった新潟国体が終了したばかり。昭和天皇・皇后両陛下もこの国体に参列されるため、6月5・6・7日の3日間、ホテル新潟にご宿泊されていた。
「もう数日早く起こっていたら、どうなっていたことか。地震も昼過ぎの出来事だったため、ほとんどのお客さまがチェックアウト済みで、大きな混乱はなかったようです。モノは壊れても何とかなりますが、人命は何にも変えがたいもの。お客様の安全が第一ということを、改めて感じます」
 地震後、さっそく昭和天皇よりホテルにお見舞いが届けられ、関係者の励ましになったというが、創業一年目にして遭遇した地震は、ホテルマンにとっても、人命第一を再確認させられた貴重な体験となったようだ。

 

【写真】大きく隆起したホテル新潟の駐車場
ホテル新潟の駐車場は大きく隆起し、地震のすさまじさを物語る。

 

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