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資料集

・地すべりと集落の暮らし
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・資料集
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>> 新郷村字滝坂の一大惨害
>> 地すべりによる荒廃状況
>> 昭和24年地すべり当時の日記

●資料2: 新郷村字滝坂の一大惨害 新郷村大字豊洲字滝坂に発生した大災害についての報告

 ことの始まりは、八月八日頃に滝坂地区の周辺に沿って発生した大規模な地割れであり、その地割れは、阿賀川河岸より五十嵐藤吉宅裏側の角を通って、佐藤新之介宅裏の土蔵下を抜け、五十嵐政次宅及び土蔵下を通って、佐藤平松宅の一部と、佐藤熊吉宅の西側隅を通り、再び阿賀川下流の河岸まで達するものだった。
 この地割れに対し滝坂の集落民は、対策協議会を開き、検討を重ねたが、”除(のぞく)“ (※注1)の日に移転を決めてしまった。しかも、今後三年間は永地 (※注2)ではないが様子を見る事となった。
 ところがその後も変動は続き、去る九月十四日より一週間に渡って降り続いた雨によって地割れは急激に変動し、その震動で家屋は音を立てて軋み、割れ目は四尺から五、六尺(約一・二〜一・五、一・八メートル)の断層となり、土地の陥没、地層の陥落は次第にその規模を増し、遂には(阿賀川)下流側に向かって滝坂地区一帯が、滑り落ちる様な状態となり、これによって生じた亀裂のあちこちから流出する濁水や泥土の為、付近一帯の家屋は傾き、床、壁は剥がれ落ち、その惨状は言語を絶するものであり、被害は佐藤寅吉宅を除く滝坂全戸に及んだ。
 このままでは集落の百名余りの命と財産が、この流れ出した土砂に飲み込まれてしまうものと、村の年寄りや女子供が悲嘆に暮れる一方で、男達は昼は家々の家財や収穫した米穀等の運び出し、夜は各戸の警戒に当るなど、まさに東奔西走の状態だった。
 この様な状況を伝えるとして、最悪の状態は免れつつも、この惨状、光景は痛ましく、言葉で語り尽くすことは到底難しいものである。
 この事態に(新郷村)村会議員の有志が集まり相談の結果、応急対策として同村内より滝坂集落各戸に人夫(作業員)五人と縄五百尋(一尋=六尺、約九百メートル)ずつを拠出し、救済に充てようとするも、地盤の急激な変動は元より、滝坂は山間部の僻地であり、小集落であるために、近くの他集落までは十数町(一町=六十間=約百九メートル、約一・一キロメートル)と離れており又、近隣には住宅地となる土地も無い為、村民の中には、遠く滑沢、柴崎の両集落まで家財を運ぶ者や、数町(約数百メートル)離れた山林に、一時的な仮小屋を作る者がいた。
 どちらにしても遠距離の上に、道が険しい為、家財の運搬は容易ではなく、拠出された人夫や資材だけでは到底間に合わないので、村民総出で移転に協力してもらい、尚も足らない場合に至っては、他の町村の協力を仰いではどうかと目下、協議中である。
 ちなみに、この滝坂集落一帯の土地の形成、地層、土質を調査したところ、東、西、北の三方向が山に囲まれているのに対し、南側一帯が阿賀川に面しているところから、山腹の断層は落下によって出来たことの証であり、又、山腹から河岸に至る傾斜と、起伏に富んだ地層は極めて複雑な状態で、しかも、土質は火山灰らしきものを含んでおり、このことからも、遠い昔に起きた崩壊の跡が、今現在も崩れかかっているようなものだ。
 そして河岸にある岩石は、極めて脆い上に縦横に罅(ひび)が入っており、そこから泥土を排出している。
 この状態から、集落の背後の字上沼と呼ばれる高所の溜め池及び、水田より水が少しずつ河岸に向かって流出、所々に水たまりとなり浸透し、やがて地下水となり、それが溜まって遂には出口を求めて河岸に泥土として流出し、それが数百年の間に少しずつ地下のひび割れを大きくし、その結果として今日の土地の陥没、地層の陥落となり、この度の災害となって現れたのである。
 この文章は、被害に遭った滝坂集落及び新郷村内の人々の証言、又各紙新聞に記載された記事に基づいて、新郷村村長五十嵐卯之吉が書いたものである。

明治三十八年十一月十四日

*本文は原文を現代用語にわかりやすくしたものです。

 


※注1 除(のぞく)
暦注十二直のうちのひとつ。暦注とは古暦(仮名暦)に記された日々の吉凶の事で、「除」は煤払い、祭礼には吉、婚礼・移転は凶とされていた。

※注2 永地
永代知行の領地。永久的に管理しなければならないか、若しくは、所有する(できる)土地の意と思われる。

 


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