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地すべりと集落の暮らし

・地すべりと集落の暮らし
>> はじめに
>> 西会津町と滝坂・銚子ノ口
>> 明治21年と明治38年の滝坂地すべり
>> 昭和24年の滝坂地すべり
>> 昭和33年の滝坂地すべり
>> 笹川の架橋と地すべり
>> 銚子ノ口の「幻の橋」
>> 地すべり対策工事等
>> おわりに

・資料集
>> 坂地すべりによる住宅移転の経緯
>> 新郷村字滝坂の一大惨害
>> 地すべりによる荒廃状況
>> 昭和24年地すべり当時の日記

●昭和三十三年の滝坂地すべり

 昭和二十四年の地すべりで引牧地区に移転して十年経った昭和三十三年の春。飲料水としていた引き水が「白色」になる変化が現れました。これを機に事態は急変し、軒下の地割れやコンクリートで作った貯水槽が押し潰されるなどの被害が出てきた訳です。
 もっとも振り返ってみると、昭和二十四年の地すべりの時に福島県の依頼で滝坂地すべり全体を調査した、東北帝国大学の渡辺万次郎博士(理学博士・当時五十七歳)は『引牧地区も安全な場所ではない』と当時から指摘していたのです。
 ですが、『明治時代から住んでいる人が、未だにいられるのだから大丈夫だ』と言って移転して来たのが、私達なのです。
 引牧は危険だから移転しなければならないが、宅地の候補地というか行くところが無い訳です。集落で色々検討していただき、『ここならよかろう』と言っていただいたのが孫目地区なのです。
 当初は、孫目に移転するにも笹川を渡る橋が増水で落ちて無いし、道路も無い。背中におぶって運ぶより無いだろうが、体だけ上る程度の道路さえも無い。本当に田と畑、原野しか無い訳です。そこに移転する十一軒の宅地を確保することは非常に困難だった訳です。
 ところが度重なる相談の結果、『何とか出来るのではないか』と。お互いに土地は交換していただいて、運ぶには索道を張ったのです。エンジンも何も無い訳ですが引牧の高い方から孫目の低い方に飛ばしてくる訳です。そうすると自然落下でエンジンはいらない。そんなことで運んだ訳です。運んだ家から日にちを決めて建前なりする訳ですけれども、その頃は今みたいに重機で吊り上げるという訳にはいかない。ロープや人間の手で上げるしかない。親類の人や村の人にお願いして一日七十人くらいで作業しました。
 その頃は生活に困るから田んぼを休むことができない。金が掛かるから、百姓をしながら米まで買ってやってきた訳です。今ならば災害補償制度があって、助成などがあるようだけれども、あの頃はそういうことは一銭もありません。ただ、無利子で最高三十万、これは町の保証で県から借りました。そんな制度しかありません。だから、それこそお互いに話し合い、協力し合って、昭和三十三年から四年間で苦労して移転したというのが実態です。
 ここにある航空写真は昭和三十七年に撮影したものですが、この頃になると山は全部傷だらけです。昭和二十四年以来、地すべりが非常に多かったことが解ると思います。昭和二十二年の航空写真と比較してみれば、一目瞭然です。( 資料3参照


昭和33年頃 軒下の地割れ(引牧地区)
昭和33年頃 軒下の地割れ(引牧地区)
昭和33年頃 孫目地区への移転(建前風景)
昭和33年頃 孫目地区への移転(建前風景)

 


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