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地すべりと集落の暮らし

・地すべりと集落の暮らし
>> はじめに
>> 西会津町と滝坂・銚子ノ口
>> 明治21年と明治38年の滝坂地すべり
>> 昭和24年の滝坂地すべり
>> 昭和33年の滝坂地すべり
>> 笹川の架橋と地すべり
>> 銚子ノ口の「幻の橋」
>> 地すべり対策工事等
>> おわりに

・資料集
>> 坂地すべりによる住宅移転の経緯
>> 新郷村字滝坂の一大惨害
>> 地すべりによる荒廃状況
>> 昭和24年地すべり当時の日記

●昭和二十四年の滝坂地すべり

 明治三十八年の地すべりから昭和二十二、三年頃までは大きな地すべりは無く、昭和二十二年に米軍が撮影した航空写真(資料3参照)でも判るように山に一つも傷がありませんから、地すべりのある山だと思われません。
 滝坂集落は、林業を中心に生活している集落ですから、冬期間には作業員四、五十人で樹齢百年以上にもなる木を伐採し、雪の上を滑らせて阿賀川まで材木を運ぶのです。そして、銚子ノ口の上流で筏を組んで流して、下流の豊実や津川などで揚げた訳です。
 昭和二十二年頃から春先の雪解け時には、山から出る水が例年より多くなり、水の色も「白」や「土を溶いたような黄色」になったりして、当時は地すべりの前兆とは気付かなかったけれども変動が表れていました。
 昭和二十四年二月二十七日の夜半、激しい轟音を立てながらまた松坂が「抜けた」のです。この辺では松坂の地すべりのことを「松坂抜けた」と言っていました。
 地すべりというのは立木が立ったまま滑って来ます。いったん止まって初めて寝ます。倒れたものは倒れたまま来ます。そして、それが夜であろうと昼間であろうと滑って来ます。音は「木の身の切れる音」「土砂が水と混ざって流れてくる音」「木の折れる音」「気持ち悪い音」がします。「バリバリという音」を出してきます。速さは時速三十キロメートル位あるのではないかと私は思うのです。
 地すべりの大きさは、目検討で幅百五十メートル、長さ八百メートル位だったと思います。日が経つうちに明ケ沢、堰沢、宮ノ前、袖ノ沢などが地すべりの土砂で全部一杯になった訳です。深いところでは十メートル以上埋まった訳です。
 滑ってこれ以上溜まれば、下手の常盤に行くということで、常盤には住宅が七軒ありましたから、みんなで堤防を作って止めた訳です。その当時は車も無いし、一輪車も無い。何をしてやったかと言ったら、木で一輪車を何台も造って土を運んで、あれだけの堤防を作った訳です。
 この地すべりで、危険となった常盤、上沼、宮ノ前地区から十四軒が引牧、西稲場、三年林地区に移転を強いられたのです。
 その当時、村長さんの依頼で日誌を付けておりました。どこの家がいつ家財道具を運んだとか、どこの家が今日解体した、どこの家が建前か、全部記録してあります。危険な箇所ほど先にやった訳です。( 資料4参照
 移転で一番苦労したのは運ぶこと。解体作業なり、建前なり、家財道具を運ぶなり、車などが全然ない訳ですから、全部人間の肩や背中、それでしか運びようが無い訳です。宅地の地均しをすると言っても、ユンボがある訳でも無いし、ブルドーザがある訳でも無いです。本当に人の手だけなのです。隣接の集落の方達などが毎日日割りで手伝いに来てくれました。
 そして、全部の移転が終了したのは二十六年頃だったと思います。そんなに長く係っていられないのです。なんたって小さな仮小屋に入っている訳ですから。その頃はどこの家庭も家族人数が多かったから早くしなければならなかった。みんな、それぞれの土地を譲り合って、交換し合って宅地を設けて、移転した訳です。


樹齢120年の材木の切り出し(昭和28年)
樹齢120年の材木の切り出し(昭和28年)
袖ノ沢の地割れ
袖ノ沢の地割れ
   
上手の堤防跡(川側より撮影)
上手の堤防跡(川側より撮影)
  下手の堤防跡(山側より撮影)
下手の堤防跡(山側より撮影)

 


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