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阿賀川について

阿賀川の歴史-阿賀川と河川伝統技術-

講演録:近世の河川改修-阿賀川(大川)をめぐって-

会津史学会 海老名 俊雄

※本講演録は平成13年7月19日に開催の第3回阿賀川河川伝統技術検討懇談会で海老名氏が講演された内容をとりまとめたものである。

はじめに

 私は、『阿賀川史-改修70年のあゆみ-』を執筆するために担当を命ぜられ、初めてこの問題に取り組んだという本当の素人です。これに取り組んでみて、まず、どのような先行研究があるかと調べたときに、全くなかったことに驚きました。

 そこで、『家世実紀』の該当する改修工事の記事を全部筆耕し、町村史の該当するようなものを史料集から抜き出し、その他、目に触れた生の資料なども会津図書館などから入手して、それらを基にまとめました。その後、せっかくまとまったものを勿体ないと思い、『歴史春秋』(資料に添付)という本にも書かせていただきました。今日はその概略をお話ししたいと思います。

1.中世までの河川改修

 阿賀川が只見川と合流する辺りのことを会津藩政時代には「大川」と呼びました。

 中世までの歴史を見ると、大川は、洪水の度に流路を変更しており、弥生時代の頃、ようやくこの山の周辺に出てくるような形で宮川と合いして流れ、100年近くこのような流路でした。

 『会津風土記』によると、応湖川の源は鶴沼川(阿賀川)であり、飯寺の東から平沢に至って湯川と合いして流れていました。応湖川は応用問題の「応」という字で書いてありますが、応湖はまさに古い時代という「往古」に通じているのかもしれません。古川という名前の川も歴史的に何か意味があるかもしれません。

 現在、北会津地域一帯では砂利取りをしており、上の表土を削って下の砂利を回収することが行われています。これは、その地域が昔は河川であったことを証明しており、かなりの暴れ川であったことがわかります。

 その後、開田という形での支配が進むにつれ、門田荘、蜷川荘などの荘園経営や、門田条里制により、整備された水田が現れるようになりました。これが大川を用水として計画的に使用することの始まりかと思います。

 16世紀に入ると、次第に色々な堰が造られてきます。富川堰や牛沢堰、栗村堰などが造られました。

 また、100年来、かつての河川の河道を基にして、水田耕作などが行われていましたので、水が急に流路を変更してこなくなっては困るということで、直ちに人工で水路(堀とか堰とかという名前が付けられた)を掘って、再びそこに川を流すことが行われました。そのような形で、戦国の終わり頃までには、この辺り一帯に、新田とか新村が付く名前の村がたくさん出来てきました。

 やはり、これだけの河川を統制していくためには、それなりに労働力の大きな組織、技術力が必要であり、この時代までこなければこのような工事は出来なかったのだろうということが感じられます。

2.大川普請の最初の記録

 『塔寺八幡宮長帳』寛永12年ひのえね正月吉日の記事に、大川普請のことが記録されています。

 「一 大川よけ普請事、さの川ヲ やかて
  さの丶下よりまあたの下迄千人斗
  二而八月より三月か内御ほさせ被成候事

 これについては、会津坂下町史の中に発表されている長帳の記事から引用しました。

 ひのえねの年は寛永13年であり、合わないですが、これが大川普請の最初の記録です。この中で、いつ書いたのかという検討はされていますが、文の内容の検討や解説は載っていませんでした。

 これによると、阿賀川右岸の現湯川村佐野の下から、上流左岸の北会津村真渡(今は真宮といっている)の下までの区間を三ヶ月間川干ししたのというのです。私が考えるに川干しをして、川底の浚渫で堤防を築いたものと思われます。

 まず考えられるのは、川干しによりせき止められた水はどこへ行ったのだろうかということです。よく見ると、先ほど言った富川堰が16世紀の初めより真渡から取水しており、現在の金上と広瀬の地区を通る堰がありました。したがって、この堰に水を抜かすことによってここを干すことができ、その下流にも水を流すことが出来たわけです。

 また、ここは街道筋でもあり、最近わかりましたが、この地区というのは絶えず湯川から来る流れで昭和の戦前まで水害の大変多い常襲地帯でした。したがって、ここは会津でも小作争議が多く、小作組合が一番早くできたところです。このように、当時この辺りは大変広い常襲地帯だったので、多量の土砂の堆積があり、どうしても工事をやらざるを得なかったのだと思います。

 加藤氏は滝沢の道路を開削工事をやったり、鶴ヶ城の改修をしたりと、当時としては大変優れた土木技術を持っていたのだろうと思います。

3.会津藩の治水対策
(1)正保2(1645)年の山崎湖水抜き普請

 慶長16年、この地域の山崎というところで地震があり、この辺り一帯が溢れてしまい、溢水したままの状態が長く続きました。

 資料にあるように水抜きをやりましたが、保科氏が領主となったときには泥田のようでした。ぜひ水抜きをして欲しいということで、山崎の方に堀を掘って、せり流しという工法で水を流したところ上手くいき、大変喜ばれたと記されています。

 せり流しという工法がどのようなものかは何を見てもわかりませんが、文字の解釈からすると、堀を造ってそこに急流をつくり、水底の土砂などを水の勢いで流してしまうという木材の流し方を活用したやり方だったのではないかと想像しています。

 保科氏はさらにこの河川の改修に着目し、本格的な水抜き普請を引き続き実施しました。山崎の水抜きから14年を経て、この地に、実際に新田が開かれたと記録されています。

(2)法令にみる会津藩の治水対策

 保科氏は、寛永20年12月1日、『地下御仕置書』を布達しました。一八カ条の其五には「川除堰その時節を違えず普請つかまつるべし」とあります。これが最初の法令であり、その後だんだんと増えていきました。資料にもいくつか載せておきました。

 大体、自分の村の工事は自分の村でやるというのが原則であり、それ以上大きくなったときには、周辺の村の援助を得て行う。その場合に村請けが大変だということで、初めのうちは村高百石の村については五十人役をその村で出す。それ以上の仕事量があるときには、みんなで負担する。後にこれは百石百人役がその村の自己負担分、あと公負担がそれ以上の分という仕組みを作り上げたということです。

(3)郷村での実態をみる

 実際に工事をどのように行うのか資料に記されていることを要約すると、大水が出たときには普請をしなくてもいいように、全員が参加して防ぐということを言っています。しかし、もし普請ができたときには名主がまず目論見書というものを作り、それを代官所に提出して検査を受ける。そして、それによって人足割や必要な命令を出して、工事を行うというやり方です。

 詳しいことは歴史春秋にも書いておきましたが、人足はどのようなものを持っていくかというと、まず鍬と背負う荷繩、それからもっこなどです。

 実際の仕事はその目論見書に基づいて行われ、例えば、堤防を強めるための木の杭をどれだけ打つか、堤防はどんな風(台形)に作るのか。高さと馬踏(台形の上底部分)より堤防の体積を算出し、土ならば土坪が何坪、石ならば石坪が何坪いるのか。また、その土や石、木等をどこから運び、そのためには大体何人役かかるのかということを計算しました。大体は藩の持っている周辺の松林とか塔寺の松林から藩の命令で頂いて使っていました。

(4)川除け普請と藩財政

 財政の問題ですが、社倉制というものがあり、社倉の利子分は一年に5,000俵ほどでした。その中に大川人足扶持というものがあり、それを使って費用にしていました。詳しいことは資料の方に書いておきましたが、社倉米の渡し方、其三として川除人足扶持という項目があります。社倉金はお金ですが、其一、郷村籾蔵堤川除の木挽、石切の作料、釘、かすがい、葡萄つるに充てるということです。その他、役人の検分などにもこれを使うということが書いてあります。こういうことで、社倉制によって財政が確立していました。

(5)人足役免除の福祉政策

 非常に過酷な人足ではあったけれども、これを免除するという大変先駆的な福祉政策がありました。これは非常に珍しいと思い、いくつか書き出しておきました。

 例えば、父母の死後50日間は実子養子とも免除するとか。中には母性保護のような問題ですが、妻が懐妊した場合、8ヶ月目より産後4ヶ月までは免除するという施策もありました。

4.大川、湯川川除普請の特殊性
(1)軍役としての湯川普請

 湯川は城の周りを固める軍事施設という位置づけがありました。当時、会津藩では同じ武士でも戦闘を中心に戦団を組んで、日常的に武士の訓練をしている集団と、政治関係の事務方と担当する近習に分かれていました。その武士の方を担当する者が湯川普請にあたっていました。したがって、これは軍役でした。何月何日、石高によって何人分の人足を出せ、着到といって動員がちゃんと応じているかどうかということを検討して行っているというやり方でした。しかし、これは後には藩財政が逼迫して、藩主に給料もろくに払えない時代になると、とても人足を頼んで出来ないということで延期を願いでる、お許しを願いでるという事態になっていきました。しかし、原則はあくまでも武士の仕事でした。

(2)国務としての大川普請

 寛文6年(1666)、保科氏の強力な指示のもと、嶋田覚右衛門は本格的築堤工事を計画しました。しかし、藩の家老たちが、今年はすでに十八蔵の移築や各地の川除普請で13万人もの人足を使っているからと工事を渋ったところ、保科氏は、この河川改修は国役だ、なんとしてもやるべきだという指示を出しました。これにより、河川改修事業が藩政の重要課題、優先課題となりました。

5.寛文6(1666)年、嶋田覚右衛門による大川普請

 国務としての大川普請は先ほど申し上げたとおりで、まず嶋田覚右衛門という人が大変な仕事をしました。彼は数学者として江戸で名の知られた方でしたが、保科正之が雇って会津によこしました。そして、結果的に最も緊急を要する蟹川と真渡間の約2kmの築堤を成功させました。このとき江戸から鳶の者を60人雇いました。このことは、会津坂下(今は中新田という村)の肝煎の覚書に「寛文六年より大川御普請始、江戸飛(鳶)之者参候由」と記されていす。前金で一人一両ずつ払って、江戸から連れてきて、非常によく働いたということです。

 このような大工事になると、喧嘩や盗みなどが起こるということで、藩を挙げて警戒体制やら足軽の出動も行っており、大変にぎやかな工事でした。しかし、その反面、大変な費用がかかったということです。

 先ほど言いましたように13万人もの人足を使った後なので、百姓一人につき一日米一升を先ほどの社倉米から支給しました。そして、大量の松材を上流から切り出して使用しました。この工事のやり方は、大量の松材を使っているので、おそらく根杭だったのではないかと思います。

6.寛文7,8年、安田源兵衛による大川普請

 築堤の成功で自信を深めた藩では、寛文7年春早々に米塚辺の普請を行うことにして、嶋田と郡奉行に見積もらせたところ、あまりにも経費が掛かりすぎること、山奉行からは松材を集めきれないとの申し出があり、再検討を命じました。

(1)嶋田から安田へ

 この再検討にあたって、藩重役は南会津の代官である安田源兵衛を加えることを指示しました。

 安田が提出した見積は、人足、材木ともに大変な減少となるものでした。もし、足軽五十人程ずつ御貸し下されば、人足はさらに14,000人から15,000人程減らせるとありました。したがって、警備のために昼夜を分かたず警察官を動員して、喧嘩争いなどがないようにすることも要らないということで喜ばれました。

(2)寛文8年の普請、安田源兵衛の工法

 全国的には水刎の一つとして《蛇篭出》が知られていますが、これは、竹で編んだ篭に石を詰めて川の中に置くものです。しかし、会津にはそれほど竹がなかったので、安田は葡萄つるを用いて行いました。考えてみれば、河原にゴロゴロしている石を詰め込んで護岸を作るのですから、手軽で金が掛からなく、これは便利だと家老や殿様が喜ぶのはよくわかります。

7.元禄期の川除方役人、藤森十左衛門の普請

 元禄15(1702)年10月の大洪水で、30年以上も洪水に絶えてきた飯寺~一ノ堰の堤防も裏土手ともに決壊しました。この復旧工事は、川除方役人藤森十左衛門によって行われました。彼は、奉行でも何でもなく、洪水対策の河川改修の役人として郡奉行所で働いていた人です。

 十左衛門は、壊れそうなところを前もって計画的に工事すれば、農閑期に人足も使えてよいだろうと提案し、また、危険個所には前もって土嚢や資材などを用意しておくことも提案しました。こうした年来の努力により、全く普請を行わずに済んだという年もあり、彼は、藩から報奨を受けました。

 先ほど話したように、山崎の水抜きをやった後に開田を願い出て新田を開きましが、その時の役、つまり年貢としてはヨシを上納していました。今もヨシ原はたくさんありますが、ヨシは冬の雪囲いなどに使われており、お城でも市中でもたいへん必要でした。

 それらのヨシは自然に生えており、洪水の時には恐らく水刎のように水勢を弱めるのに役立っていたのだと思います。したがって、これらを野焼してはいけないという法令もありました。秋になるとヨシ原を刈り、ヨシとしてお城や市中で活用しました。

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