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阿賀川について

阿賀川の歴史-治水工事のあしあと-

下流狭窄部捷水路工事

旧阿賀川は、会津盆地を貫流した後、喜多方市山崎地先で山間狭窄部に入り、泡の巻・土掘・袋原の各地先で大きく蛇行していて、洪水時には川の流れに大きな障害となっていました。

大正10年から本格的改修により、蛇行をなくす捷水路(ショートカットにより延長が約1/10になった)の開削と現川の掘削・拡幅・整正工事が行われました。

これらの工事は、信濃川の大河津分水路開削で使用したタワーエキスカベータを転用するなど、大規模工事であったことや地すべり地域であるなど工事は難行を極めましたが、昭和10年に暫定断面ながら通水をみました。

泡の巻・土掘・袋原捷水路工事平面

泡の巻・土掘・袋原捷水路工事平面

捷水路工事全景

捷水路工事全景

捷水路工事に活躍したタワーエキスカベータ

捷水路工事に活躍したタワーエキスカベータ

河床掘削工事

河床の掘削・整正は大正10年からの阿賀川改修で最も初期の工事として、管理区間終点の馬越から下流約2kmの区間の低水路工事、除石による河状の整正工事が行われました。

初めは人力により施工していましたが、昭和に入ると大型機械が導入され、新捗率の向上が図られました。

河床掘削で威力を発揮したブルドーザー

河床掘削で威力を発揮したブルドーザー

築堤・護岸工事

昭和2年から始まった築堤・護岸工事は、改修効果の見地から下・中流部より工事が開始されました。開始当初は、人力により築堤し、石とか木材等を利用して護岸を行っていましたが、昭和10年頃からは掘削や運搬等に機械化が図られ作業効率が向上しました。

昭和30年頃からは、現在と同じように、大型作業機械が導入され、コンクリートブロック等を利用した護岸が施工されるようになり、次第に直営工事から請負工事へと移っていきました。

昭和10年代の工事状況(喜多方市山崎地区の阿賀川右岸)

昭和10年代の工事状況
(喜多方市山崎地区の阿賀川右岸)

昭和10年代の工事状況(会津若松市一ノ堰地区の阿賀川右岸)

昭和10年代の工事状況
(会津若松市一ノ堰地区の阿賀川右岸)

昭和30年代前半の工事状況(湯川村佐野目地区の阿賀川右岸)

昭和30年代前半の工事状況
(湯川村佐野目地区の阿賀川右岸)

昭和30年代後半の工事状況(北会津村大河原地区の阿賀川左岸)

昭和30年代後半の工事状況
(北会津村大河原地区の阿賀川左岸)

他の支川の改修

湯川新水路工事

湯川は会津若松市より日橋川との合流点に至る間が洪水被害の常襲地であったため、これを防ぐ目的で新水路が計画・施工されました。直轄区間起点より約20km上流の右岸にあたり、延長約2.5kmの水路で、昭和9年より掘削を開始し、戦争による中断もありましたが、昭和33年に通水しました。

湯川新水路
宮川新水路工事

宮川は中・下流部の河積不足から、洪水被害の常襲地であったため、これを防ぐ目的で新水路が計画・施工されました。

直轄区間起点より約1.6km上流の左岸にあたり、延長約2.8kmの水路で、昭和8年より掘削を開始し、戦争による中断もありましたが、昭和31年に通水しました。

宮川新水路
濁川と田付川の改修工事

当初の改修計画にある「合流する支川について築堤」によって計画され、濁川、田付川の築堤が施工されました。

濁川の改修工事は合流点より約1.9kmにわたり、昭和3年より施工が開始され昭和23年に概成しました。また昭和31・32年には床固工事も実施されました。

田付川の改修工事は合流点より約1.0kmにわたり、昭和7年より施工が開始され昭和15年に完成しました。

濁川と田付川

日橋川の改修

昭和16年の洪水を基に、阿賀川改修の一環として昭和17年に計画され昭和18年に施工認可を受けましたが、戦争のために実施されませんでした。しかし、昭和31年の洪水をきっかけに日橋川の改修が急を要する事業として採択され、昭和32年10月本川との合流点より南大橋間(蛇行流路のショートカット、築堤、河積の確保)より着工となりました。

また、平地にも関わらず自然河川のままであった南大橋と堂島橋までの区間(築堤、河積の確保)が、昭和37年8月に直轄区間延長の認可を受け、昭和42年に着工となり、昭和56年に直轄管理全区間の堤防が概成しました。

湯川新水路
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